神の使者から奇跡の道へ その65~真理を幻想のもとに、実相を・・

「真理を幻想のもとに、実相を空想のもとに
運んでくることに人生を費やしてきたあなたは、
夢の道を歩んできた」

今世界で起きていることが、あまりにも
はげしくて、これがとても幻想だなんてと、
またのんきな父さんだ・・とのお声が聞こえそうです。
(笑)

目の前に起きていることは、ただ「受容」するしかない
ようですし、それをどのように感じるかは
すべて個人の自由意思に任されています。
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神の使者から奇跡の道へ その66~奇跡とは偽りの神々を・・・

「奇跡とは偽りの神々をすべて手放した神の子が
兄弟たちにも同じことをするように呼びかける行為」

兄弟がいなければ奇跡には至らないと
聞いています。
そして奇跡とは癒しであり救済であるとも。

だいたい神々なんてことはなくて、ただ一つの神の
子である自己が出会った兄弟たちを通じて行う行為が
奇跡(赦し)です。
その行為を通じて、兄弟たちにも同じように
赦しをおこなって、と呼びかけることが奇跡でもあります。

だいたいは過去の不満を思い出すためのものなら
なんにでも惹かれがちで、そうした関連付けを
する連想がどれほど歪んでいるものであっても、
なんだかそれが愛という名で呼べるようなもののように
思えてしまいます。

そして逆に特別な関係の中に、自分で捨て去ったものを
探し求めてさえしてしまいがちです。

肉体をコミュニケーションの必要手段だとみなしさえ
しなければ、コミュニケーションは途切れずに
残るのにです。

兄弟にキリストを見さえすれば、特別な関係の中にでも
真のコミュニケーションは続くのでしょう。

聖なる時間を体験した方のお話では、
それは一瞬なのか、長いことなのか
よくわからないと言われます。

でも聖なる瞬間は永遠なのでしょうか。

「奇跡とは偽りの神々をすべて手放した神の子が
兄弟たちにも同じことをするように呼びかける行為」

神の使者から奇跡の道へ その67~私はなにもする必要がない

「私は何もする必要がない」

アレレ する必要がないと言うことは
必要なものはいつもすべてある ということですね。

そして、まさかのこの言葉を ただの一瞬でいいので
信じ切れば、1世紀にわたる観想以上のものを
あたえられると聞きました。

どうも肉体次元で考えがちな自我人間なので、
「み~んなお任せ」の心境にはなかなかですね。
この「み~んなお任せ」でのうてんきだと
肉体の病気も消えるようですね。
だってないものをあると決めているのは
自我のこころですからね。
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神の使者から奇跡の道へ その68~赦しでさえも終着点ではない。・・・・

「赦しでさえも終着点ではない。赦しは麗しさを
もたらすが、創造しない。それは癒しの源ではあるが、
愛の源ではなく、愛の使者である。」

自分と兄弟を赦しても、また赦しても
それは麗しさを感じるだけであって、
決して創造はできないようですね。
だから癒しの源を感じはしますが、
愛の源を感じることは出来ずにいて、
赦しはただ愛の使者とはなる様です。

でも源に触れるには、赦しと言う使者を
受け入れ、また受け入れてただ赦しを続けること
なのかも。

「愛の源とは光の源であり、そこでは
何も知覚されず、赦されず、変容されることもない。
ただ知られるのみである。」

知覚されずに、ただ知られる。?

なんでしょう。
染み込む感じでしょうか。
それとも自分さえ消えてただそのものと
ある状態でしょうか。
またはそのものである状態。

それは言葉を超えるもの。?

「赦しでさえも終着点ではない。赦しは麗しさを
もたらすが、創造しない。それは癒しの源ではあるが、
愛の源ではなく、愛の使者である。」

神の使者から奇跡の道へ その69~学びが終わるのは、愛ではないすべてのものを・・・・

「学びが終わるのは、愛ではないすべてのものを
あなたが認識したときである」

愛ではないすべてのものを認識したとき。?

それではすべては愛であると魂の底から、
そしてそのことさえも感ずることがなくなるとき。?

見るもの、聞くものすべては愛と。

そうですよね、愛って学ぶようなものでなくて
もともと愛ですね。

ただもともとそうであると信じ切れていないので
信じ切れていないできごとがやってきますね。
だからこそ赦しはそういった真実ではないことを
取り除くための行為となりますね。

人の目的はただ創造することだけであるならば、
すべての知覚が洗い清められ、最後には永遠に
取り除かれるまできっと、愛の源を知ることは
できないのでしょう。

楽しみなので、行動します。(笑)

ほんとに楽しみ!!

待ってるよ!自我さん。

「学びが終わるのは、愛ではないすべてのものを
あなたが認識したときである」

神の使者から奇跡の道へ その70~肉体は赦すことはできない

「肉体は赦すことはできない」

そうですね。
肉体は決心できませんね。
あたりまえですが。

すべては人間の最大の能力である
自由な心で決めるんですよね。
そしてだれでもが持っている自由な心。

もし、もしですが、肉体が幻想だとしたら
どうでしょうか。?
肉体が幻だとしたら、何か不自由があるのでしょうか。
何かに怒ったり、恐れたり、悲しんだりなんて
意味ないですよね。

ところが自分が怒っているときにはいつでも
自我の「祝福」を受けた特別な関係を作り出します。
肉体が、それだけがあなただと叫ぶ自我さんの勝利です。

全ての怒りは誰かに罪悪感(分離感)を感じ
させようとする試みのようです。

そしてすべての恐れは自我さんの知覚であって
それ以外の何ものでもないですね。
だから自我に、あんたなんかには従わないと宣言しても、
自我はあなたを殺すことは出来ませんね。

肉体はただあなたの目的に忠実に仕えるだけ。
そう、自我に従わないものを自我はころすことは出来ません。

「死の魅力が、愛の真の魅力に屈するとき、
死に対する恐れは去るだろう」

「肉体は赦すことはできない」

神の使者から奇跡の道へ その71~死に対する恐れがなければ・・

「死に対する恐れがなければ、あなたには何が
見えるのだろうか。もし死があなたにとって魅力を
もたないものだったなら、
あなたは何を感じ、何を考えるのだろうか」

死が魅力って変な言い方ですね。
でも恐れているってことは確かに魅力ですね。

あなたは何を思うのでしょう。

あなたを創造した「父」なんでしょうか。?
何で生まれて来たのか、創造した父に
聞いてみたいですか。?

でも父と子は離れたことがない。
だから融合があなたを分離の外へと
呼び出すことを決して認めないという
自我さんとの約束は、父との記憶がまったく
忘れ去られたかに見える、重度の記憶喪失。

自分が赦していない者たちを恐れ、
その恐れを傍らにしていては
決して「愛」に到達することはできないよう。

愛に向けて目を上げれば世界は自分を
すっかり見捨てるだろうと思えてしり込みする。
でも実際には自分が世界から永遠に立ち去るだけのようです。

もっと遊びたいのに。!
ちょっと寂しすぎ・・・。
お声が聞こえそうです。

なんてね。(笑)

「死に対する恐れがなければ、あなたには何が
見えるのだろうか。もし死があなたにとって魅力を
もたないものだったなら、
あなたは何を感じ、何を考えるのだろうか」

神の使者から奇跡の道へ その72~肉体を通して楽しみを・・

「肉体を通して楽しみを求めるなら、苦痛を
見出さずには済まない。肉体とは苦痛への招待」

おいしい食べ物、おいしいですよね。
快楽。快楽ですよね。
でもその果てに待っているのは苦痛ですと。

その苦痛への招待をワクワク待ち受けている自分。
ああ なんて儚い夢でしょうか。

そんな普通はワクワクすることに融合や
癒しや平安はないと言われている感じです。

また、そのようなことを遥かに超えるものを
知らずして、肉体を終えることもまた
儚いことかも知れません。

「肉体が融合することが可能だと信じている間は、
あなたは罪悪を魅力的なものと感じ、
罪は貴重なものだと信じるだろう」

肉体は決して融合は出来ないということでしょうか。
通常の感覚ではない言葉です。

それこそ私たちは一度も分離はしていないと、
常に思い続けることができたとき、
いつもいつも融合と平安に満たされた、
癒された状態でいられるのかも知れません。

赦すには困難な大問題が目前に現れたあと、
そのお相手の兄弟とともに自他ともに
赦し赦された時感じるもの。
それは問題が大きければ大きいほど
大きな永遠の平安を感じることができるのでしょうか。

「永遠なるものは永久に親切であり、無限の
忍耐をもち、全に愛に満ち溢れている」

「肉体を通して楽しみを求めるなら、苦痛を
見出さずには済まない。肉体とは苦痛への招待」