よく考えてみましたら、何かの直感が湧いたときは
もうすべてあきらめて絶望感に至ったときとか、
この肉体が危険になったときとかでした。
(肉体の危険は、なにかしら分からない声がある)
車にぶつかって、体が飛んだ時は「ぼく 大丈夫?」。
経営の方法、方向が分からずどうしたらいいんだろうかと
思い悩んだとき。「外に出なさい。!」
娘が薬を抜き快方に向かっていながら、
再び元の状態に戻ってしまったときの絶望の中では、
「セカンドオピニオン!」
いずれも短い言葉です。
それで、神の声ってあるんだろうかとネット検索してみました。
ありました。
それは「魂のインターネット」というページでした。
「神の声」
http://members.jcom.home.ne.jp/dawn-watcher/99_blank006178.html
あとほかのページも興味深いです。
あとがきから読むと、著者の体験があります。
人間はどのようにして神の国から幻想の世界に来たのかは
大人の童話にあります。
「エデンの園の地下洞窟」
http://members.jcom.home.ne.jp/dawn-watcher/99_blank006185.html
「自他の合一」では「私はあなた」を明快に説明しています。
http://members.jcom.home.ne.jp/dawn-watcher/99_blank006175.html
そしてこの本の参考図書の一番目に「奇跡講座」があったのです。
いずれにしても人間は究極の絶望感に至ったときに
新しい展開が与えられるので、とにかくその声や直感に
したがって行動することが大切と、体験から教えられました。
もしそれで行動しないでいると、もったいない感じです。
ここにいながら、体を持ちながら少しでも「ふるさと」に
近づくことができれば、それが人間にとってとても大切なことのように
思うのです。
その道の途中では、幾度も不安感におそわれます。
そしてみんな消えてしまって、人間的な喜び悲しみ
楽しみや変化を味わうことができないのではないかと
疑いを持ちます。
そのような思いこそが自我さんの栄養になるようです。
いのちの実相 その後 「飯島秀行氏講演録」から
1 相手の意識圧を上げることこそ仕事。
2 生かしていく世界(空)から見ていくと、70億は一人。
3 子供は女性が生まない。
4 魂といのちは異なる。
全我ー生命体ー完全なフリーエネルギー
個我ー魂
5 生まれつき全員が病気。
一生健康な人は、一生意識の変化がなかったということ。
6 イエスは死のないことを知っていた。
7 空が自分(光) 自分で自分を見ている。
景色は幻という壁。
8 真の自分は宇宙である。
9 意識のみは天に持って還ることができる。
10 空から生まれたら、空に還る。
11 たった一つのいのち。人間は神の化身。
12 神は意識には絶対服従。
13 悟った人は何でもOK! そして悟りが分からない。
14 瞑想しか実感できない。
15 本質体験はやみつきになる。
16 神は無形にして無双なり。
17 神は汝の内にある。
18 亡くなった人は子供の心臓にいつもある。
父方ー精子
母方ー卵子
19 現在が0 宇宙には0しか存在しない。
20 空から話せば70億の人に届く。
21 神にゆだねて生きる。天使、天が動かしている。
22 意識してできるものはない。
23 空を我として生きるものに、喧嘩はない。
24 苦があるということは、思いが不正。
25 たった一つのいのちがすべてを動かしている。
委ねていくとトラブルがない。
26 ノーと言わない覚者。(イエス)
27 本来は何も動いていない。(0)
28 自我からの脱皮が必要。
29 霊界は無形にして無双、人間の内に存する。
30 宇宙にはたった一人の私がいる。
私の分魂が自分。
31 神(0)に融合するには、無念無想になって瞑想するしかない。
32 人生の目的は分離感をなくすこと。
33 日常24時間 無念無想。
34 人間は自ら生きていない。すべてロボットのようなもの。
35 言葉も五感も物質。
36 この世において、自分に無関係のものは一物もない。
37 悟りとは永続性を知ること。(死なない)
38 人間卒業のために人間になる。
39 人間は本源からの分魂。
40 無限世界は、始まりなく、終りない。
41 プラスマイナスのサイクルはあるが時空間はない。
42 宇宙大(不変)の私がいて、分魂が動いている。
43 見えない世界が私。
44 他人がいるという意識は個我
自分しかいないという意識は全我
いのちの実相 その後 「神の教師」から
「神の教師」 から
1 寛容 審かない。
2 優しさには喜びが伴う。
3 質素 防衛しない。
4 否定しない、手放す気前よさ。
5 偏見を持たない。
6 「真の学習」とは、学んだことを忘れさせようとすること。
7 決心は体で決めない。
8 病気になるのも「心が決める」 直ちに治らない病気は一つもない。
9 病気の人が癒されるためには、ただ一緒に喜べばいい。
10 神の教師がただそばに、いるだけでもう一つの選択が
あることを思い出す。
11 判断の放棄。(判断はできないのだと知ること)
12 そこに来ては涙を流したところで、今は笑っている。
13 身体を延長に使うか、それ以外に使うか。延長に使えば神聖なものとなる。
14 役に立つ時期が過ぎたら、ただ横たわる。それを決めるのは心です。
15 犠牲とは錯覚を信じるという代償。
(自分の欲しいものをあきらめること)
16 この世の終わりは慈悲を思わせる錯覚のうちに終わる。
17 一人の教師の癒しが、すべての世界を統一する。
18 癒し(贖罪)とは、過去から完全に逃れ、将来には何の興味もないこと。
いのちの実相 その後 「入門編」より
「奇跡講座 入門編」 ケネスワプニック 著 より
1 世界を変えようとするのはやめなさい。 そうではなくて、
世界についてのあなたの心を変えることを選びなさい。
2 私が正しい心の状態にあれば、私はあなたの攻撃を、助けを求める
呼びかけとして捉え、それが攻撃だとはまったく思いません。
3 世界中のあらゆる人やものについて、下せる判断は二つしかない。
それは愛の表現か、愛を求めるよびかけです。
4 キリストの心眼とは「すべてに愛をもって応えること」。
5 外界で何が起こっていても、いつも心安らかでいられるという状態になる。
これが「実相世界」
6 状況がどんどん悪化しているように見えている時に、
本当は良くなりつつあるということがある。
7 毎日の学びのすべてを実践していくにつれ、起こっている奇跡や
変化のすべては自分自身が行っているのではない。
8 「正しい心の状態」にいるなら、他からの攻撃に対して、もう一方の頬を
差し出します。自分がその人の攻撃に対して傷つかなかったことを
示し、彼は罪の結果を残さなかったので、罪を起こさなかったことになります。
9 世界中で一番難しいことは、攻撃に対して赦しをもって応じること。
それでもそれだけが神が私たちに求めていること。
10 自分の人生において、イエスの手本を思い出し二つの
ことを思い出すこと。
A 一つは私たちは自分で自分が被害者だと考えることによってしか
被害者になることはできない。
B 私たちの平安と、私たちの真のアイデンティティーである神の愛は
他の人々の言動によっても、また直接自分に向けられたかに
見える言動によってさえも、決して影響されることはない。
11 肉体は心が持つ意図に応答するだけ。心が肉体を何らかの攻撃に
使いたいと思うなら、肉体は病気や老化や衰退の餌食となる。
12 与えることと受け取ることは同一であるというは、天国の法則です。
いのちの実相 その後 「神の使者」から 2
19 罪なき心には、苦しみはありえない。
20 愛は不満を抱かない。
21 我が家とは変わることのない霊。
22 赦しの方法
一つ 自分が見ているものは夢だと思い出す。
一つ 見ているものは自分自身の投影。
一つ 常に一瞬が永遠。
23 人生と思うものを生きながら、同時に少しずつ救済に向かう。
24 目前のものは、外部に現れている自分自身の狂気の象徴。
25 「何のために」と問え、目的がわかれば、あなたの努力の方向は
自ずと決定される。(目的は赦し、赦して天国へと戻る)
26 天国は完全にして形なく不変、抽象、永遠で無辜(むこ)で
全体で豊かで完全な愛(生命)。
27 他には何もない。
28 理解すること。知ってるは奇跡に至らない。知らないは至る。
29 一度の経験はエゴに戻せない。
30 変化し測定できるエネルギーは知覚の領域。
31 エネルギーは霊ではない。
32 エネルギーも思考の投影。
33 物質は形の異なるエネルギー。
34 絶対的真実を早く体験する方法を見つける。
35 いかなる種類の恐れからも完全に自由。
36 出会う人々、あなたを思う人々までもが平安を共にするなら神。
いのちの実相 その後 「神の使者」から 1
主題「いのちの実相」とは何でしょうか。
18年前、そのことを知りたい欲求が芽生えたその体験の
意味が分からず、さまざまなことを試し、さまざまな学びをし、
さまざまな人に会い、さまざまな場所に行きました。
どこにも誰にも何もなく、もうあきらめていました。
「人間は何故生まれてくるのか」もまた大きな疑問です。
この世界に生まれ出て、さまざま体験をし、肉体を終える日を迎える。
生まれ出たものは例外なく、必ず死を迎える。
今も確信としてこうだと言い切れるだけの崩れない心を
持っているわけでもなく、いつも揺れることばかりの心です。
ただ「いのちの実相」を分かり、そのことが離れることなく
自らを常に満たしている状態を維持することが
「人間がこの世に生まれ出た意味」ということは言えましょう。
過去と呼ばれる時間軸の中で、自分が与えた愛ある想念の分だけ
他を赦す事ができるからこそ、自分に与えられた愛ある想念の
分だけ、他を赦す事ができる。
「与えたものが受け取るもの」の宇宙の真理は絶対的です。
他と自分のすべてのすべてを赦し続けるうちに、意識することなく
「いのちの実相」に常に満たされるのならば、私たちは
できる限りの愛ある想念を他のすべてに向けて与え続けたいものと感じます。
ですが欲求はすでに分離感の現れ、ごく自然にできるようになれば
「いのちの実相」の扉は必ず開かれることでしょう。
道は遠いかも知れません。
またそれはすぐかも知れません。
いずれにしてもただ今、その実相のみがここに「ある」ことには間違いないようです。
そしてどなたにとってもそのことは例外がないのです。
奇跡講座のテキストを読み進むうち、そのまったく美しい文章や
表現に、いつしか望まずともあの体験が幾度も押し寄せる
ことを体験できました。
言葉の意味や文章の流れなど何も意識せずに、ただ読むうちに
その世界に引き戻されていきました。
テキストはイエスの霊言として著者に受け取られています。
でも それがイエスであろうとなかろうとはどちらでも
いいことのように思います。
ご興味のある方は、実際に感じてみられるといいでしょうか。
「奇跡講座テキスト編」
ヘレン・シャックマン (著), 加藤三代子 (翻訳), 澤井美子 (翻訳)
「神の使者」
ケネスワプニック「入門編」
「神の教師」
「飯島秀行氏の講演録」
以上の4つからの箇条書きを作成させていただきました。
ご縁の皆様の参考になりましたら、とても幸せです。
それから何かご質問がございましたら、以下までメールください。
できる限りでお答えさせていただきます。
masataka89@iroha.ws
いのちの実相 21
「奇跡の道」の自己学習ではとてもシンプルなことを言っています。
「あらゆる人を赦すこと。
そして否定的想念を持ってしまった自分をも同時に赦すこと。
さらにそのことをなかったこととすること。」
娘は学習する同志として両親を選びました。
私は娘を同じように選びました。
赦すことを学ぶためです。
娘に関してだけでなく、人生では多くのできごとに遭遇しました。
そのたびにさまざまな想念をいだきました。
もっとも悩ましたのは誇りについてでした。
でもよくよく考えてみれば誇りとは「自他がある」と考えるから、
汚されたと思うと怒りが出てきます。
それどころかあらゆる想念は「自他がある」と思うから発生します。
まずやっかいな、このこびりついた自我というか個我の粉砕が
大切になります。
でも大変に困難です。
まずは決心しなくてはなりません。
徹底的に我は全我だと思い、いのちはひとつだと思うこと。
そして赦し続ける行為によって、次第にこの堅い自我の殻が粉砕され、
いつか永遠の体験ができるようです。
それを望んでも難しいのですが、実践し続けるしか体験にいたる方法は
なさそうです。
それを助けるのが、毎日出会う人々です。
もっとも教えているのが家族、同僚、友人、恋人などの
特別な関係の人たちです。
近すぎて、そのことに気づきにくいものですが。
私たちの普通考える「現実」と「実相」とでは相容れることはありません。
実相では現実がわからないからです。
それでも誰でも「実相」から離れてあるものは一人もいませんし
一物もありません。
真実であるないに関わらず、「実相」のみが真理であり
「現実」は幻想なのです。
それを確信するためには、体験以外にはないのでしょうか。
そしてそれはどのように訪れるのでしょうか。
一度の体験は自我への戻りを阻止するものとなるのでしょうか。
いのちの実相 20
「奇跡の道」の自己学習へと導いたのは
友人からの発信による「神の使者」という本でした。
神の・・・という本は多く、過去幾冊も読みました。
またそのような本かなと思い読み進みましたが、
そこには思いもよらぬことが書いてあったのです。
まずその本の帯には
「自分という幻を捨てたとき 宇宙は消え去り 神という(現実)が現れる」
この文章を理解するにはなんとすればいいのでしょう。
自分は幻。?(ちゃんと体があるでしょう)
自分を捨てれば、宇宙が消える。?(自分を捨てるってどういうこと?
宇宙は消えるものなの。?)
神という(現実)?(現実が今で神は幻想でしょう)
まず現実はいつもあるとほとんど無意識に感じているのに、
私たちの感じている現実はなくて、すべて神なのか。
そして自分は幻なのか。
幻の自分を捨てれば 宇宙という現実は消えるのか。
普通では理解できないこの帯の意味。
しかし、読み進むうちに、長い間の疑問が解けていくことが
心地よく、以前の体験の意味がしだいにわかってきたのでした。
天は不変、地は無常。そしてその間に人はいます。
わたしたちは無常であるこの地上でのできごとを「現実」ととらえ、
信じてまったく疑うことをしていません。
そして無常であるがゆえに、さまざまな意識で心は満たされ
その心さえ定まることがありません。
でも、もしこの地上にて、この「現実」にて起きていることが
何の意味もない幻想のようなことだとしたらどうでしょうか。
またさらに自分が自分であって、この肉体が自分だとも
信じて疑っていません。
でも、もしこの肉体が幻想であって、自分はただ肉体を自分だと
信じているだけだとしたらどうでしょうか。
もしそうであれば、私たちが不安や恐怖、悲しみや怒りをいだいた
最大の自我である「自分を肉体と思うこと」から開放され
あらゆる不安、恐怖、悲しみ、怒りから開放されます。
でもなかなかそうとは思えない。
理想的な説法にしか聞こえません。
しかしもう一度、そのことが真理であって、私たちの常識が間違いだったら
どうでしょうか。
まさに体験のイメージはそのように伝えていたのですから。