ある道のり~いのちの実相 16 真理への道 2~

「奇跡の道」の自己学習ではとてもシンプルなことを言っています。
「あらゆる人を赦すこと。
そして否定的想念を持ってしまった自分をも同時に赦すこと。
さらにそのことをなかったこととすること。」

娘は学習する同志として両親を選びました。
私は娘を同じように選びました。
赦すことを学ぶためです。

娘に関してだけでなく、人生では多くのできごとに遭遇しました。
そのたびにさまざまな想念をいだきました。

もっとも悩ましたのは誇りについてでした。
でもよくよく考えてみれば誇りとは「自他がある」と考えるから、
汚されたと思うと怒りが出てきます。

それどころかあらゆる想念は「自他がある」と思うから発生します。
まずやっかいな、このこびりついた自我というか個我の粉砕が
大切になります。
でも大変に困難です。

まずは決心しなくてはなりません。
徹底的に我は全我だと思い、いのちはひとつだと思うこと。
そして赦し続ける行為によって、次第にこの堅い自我の殻が粉砕され、
いつか永遠の体験ができるようです。

それを望んでも難しいのですが、実践し続けるしか体験にいたる方法は
なさそうです。

それを助けるのが、毎日出会う人々です。
もっとも教えているのが家族、同僚、友人、恋人などの
特別な関係の人たちです。

近すぎて、そのことに気づきにくいものですが。
私たちの普通考える「現実」と「実相」とでは相容れることはありません。
実相では現実がわからないからです。

それでも誰でも「実相」から離れてあるものは一人もいませんし
一物もありません。

真実であるないに関わらず、「実相」のみが真理であり
「現実」は幻想なのです。

それを確信するためには、体験以外にはないのでしょうか。
そしてそれはどのように訪れるのでしょうか。
一度の体験は自我への戻りを阻止するものとなるのでしょうか。

ずっと以前、20年くらい前になります。
通勤途中の朝のできごとです。

家の前の信号交差点を渡ろうとしていました。
反対側からそれと分かる無宿の方。

「兄ちゃん、なにか食い物ねえかい。?」
兄ちゃんと呼ばれて嬉しかったのですが
「食べるものですか。持ってないですねえ・・・。」と冷たく答えて
すれ違いました。10歩ほど進んでから

「あの人はイエスかも知れない。」と突然思いました。そして
「食べ物ないけど、お金で何か食べ物買ってもらおう。」と心で思い行動しました。

その方は500円玉を受け取りながらも無言ですぐに行ってしまわれました。
「ああ よかった。もし何もしなかったらきっとずっとこの時のことを
思い出す。ああよかった・・・。」と心で喜びました。

このようなことは一度だけでしたが、人にはできるだけ
親切にしようと思いました。

小さいときに自分が受けた多くの他人様からの愛ある想念が
行為の源となっていることをしみじみ思います。

そのことがいいこととか悪いこととか判断せずに、なるべく親切でありたい。
そう思います。

まだまだ書くこともできない、自分の弱さや、自分の醜さを
教えるさまざまな出来事にあいました。

そのたびに、愕然としながらも、小さな自分を見ながらも、
できるだけのことはしよう、赦そうと決意し自分がもし相手だったら、
してほしいようにしようと思い、行動してきました。

他人さまがもし聞いたら「狂ってるんじゃないの。」と言われそうなことも
すべて赦してきました。

それは全部、自分のことだったんです。
心底そう思います。

自分のこと以外はこの世にはないと思うのです。
出来事やお人を赦し赦し赦しまくりました。

そのたびにこの幻想である「現実」も加速して変化してきています。
劇的にです。

人間は死なない。

だから娘も死なないし、生まれてもいないのです。

全我である自分そのものの命として、すべては永遠に「あり」ます。

これからどれくらい、この世界を体験するのかはわかりません。
ただ目の前の「現実」がいかに激しくなろうとも、いつも
平安であることができますように。

そして縁ある方たちとの出会いの中で、少しでも共に学び
赦しあえる同志でありますように、祈らざるをえません。

ひとついのちを共有する世界の人たち、ものたち。
「現実」でお会いできたすばらしい方たちにいつも感謝しています。

皆様に絶えざる、平安と大喜悦が常在することをお祈りします。

天音天画 191215

EPSON MFP image
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まつの みどりに いのちが やどる あひやどる

あひ たけの たけの ひとふし ふたふし まっすぐと

ちからを かさねて てんに むかひて せをのばす

なこそ しれ うめとは やねの したの ははごころ

かおり けだかく あひかもす うめの はな

かんげつや しんにょを うつす ますかがみ

こうこうと りんりんと ひかりを はなつ ふゆのそら

さむさに まけず あおあおと みどり いろこく

ねもつよく いのちを はやす まつに たけ

はる つげどりを まちながら いろよく かほる

うめのはな しょう ちく ばひの いわいうた

あらたまの としの はじめに みる ゆめは

わの ことはじめ なりはじめ つくり はじめる

あめつち ひとなり せつげつか しんぎ たひなり

さんみ ひつみ みとみを かさねて たねつくり

ひとつ ひとなり ひとのよは いちでは たたぬ

ふたつ よりそひ たがひを たてて おやくを

になひて しゃかいに ごほうし あひの みち

つとめて あかるく のびのびと てあしを のばし

こころを ひらき うつわを ととのへ しんきを

いただき たねと なる なりはじめ めざめれば

えんそふ のわ はいて すうて ひとこきゅふ

めを みはり つくり はじめる このじだひ

かのえ ねのとし うるふ どし わわわ

みつわ いつつわ しっぽう かた しめし

わをつなぐ この てんめひき れいわのき

令和元年 12月15日 午前8時45分

ある道のり~いのちの実相 15 真理への道 1~

「奇跡の道」の自己学習へと導いたのは
友人からの発信による「神の使者」という本でした。

神の・・・という本は多く、過去幾冊も読みました。
またそのような本かなと思い読み進みましたが、
そこには思いもよらぬことが書いてあったのです。

まずその本の帯には
「自分という幻を捨てたとき 宇宙は消え去り 神という(現実)が現れる」
この文章を理解するにはなんとすればいいのでしょう。

自分は幻。?(ちゃんと体があるでしょう)
自分を捨てれば、宇宙が消える。?(自分を捨てるってどういうこと?
宇宙は消えるものなの。?)
神という(現実)?(現実が今で神は幻想でしょう)

まず現実はいつもあるとほとんど無意識に感じているのに、
私たちの感じている現実はなくて、すべて神なのか。
そして自分は幻なのか。

幻の自分を捨てれば 宇宙という現実は消えるのか。
普通では理解できないこの帯の意味。

しかし、読み進むうちに、長い間の疑問が解けていくことが
心地よく、以前の体験の意味がしだいにわかってきたのでした。

天は不変、地は無常。そしてその間に人はいます。
わたしたちは無常であるこの地上でのできごとを「現実」ととらえ、
信じてまったく疑うことをしていません。

そして無常であるがゆえに、さまざまな意識で心は満たされ
その心さえ定まることがありません。

でも、もしこの地上にて、この「現実」にて起きていることが
何の意味もない幻想のようなことだとしたらどうでしょうか。
またさらに自分が自分であって、この肉体が自分だとも
信じて疑っていません。

でも、もしこの肉体が幻想であって、自分はただ肉体を自分だと
信じているだけだとしたらどうでしょうか。

もしそうであれば、私たちが不安や恐怖、悲しみや怒りをいだいた
最大の自我である「自分を肉体と思うこと」から開放され
あらゆる不安、恐怖、悲しみ、怒りから開放されます。

でもなかなかそうとは思えない。
理想的な説法にしか聞こえません。
しかしもう一度、そのことが真理であって、私たちの常識が間違いだったら
どうでしょうか。
まさに体験のイメージはそのように伝えていたのですから。

人間は「過去」他に与えた愛ある想念の分だけ赦す事ができるし、
「過去」他から与えられた愛ある想念の分だけ赦す事ができると
「奇跡の道」では語っています。

「過去」はなく「未来」もない、今にすべてがある。
今までよく耳にする言葉でした。

「過去」与えたり、与えられたりした愛ある想念とはなんでしょう。
もし時間の概念や、空間(地)の概念が無に等しいとしたら。
「過去」は何故認識されるのでしょう。

そして「未来」というものに希望や恐れを何ゆえ抱くのでしょうか。
私たちが「過去」や「未来」をあるものとして認識するわけはなんなのでしょう。

さまざまな疑問の答えが「奇跡の道」の学習によってもたらされます。
まさに長く信じて疑わなかったことがらが、たしかにあの時吹き飛んだのです。
もしかしたら、私たちはひとつのいのちなのかもしれない。

そう思わざるを得ない出来事は圧倒的で、「神の使者」は
そのことの説明に過ぎない。

疑問をはさむことはしごく当然だけれど、だとしたらあの体験を
どのようにこの「現実」の言葉で説明できるのだろうか。

この世にそれを説明できる言葉がないとしたら、その体験こそが真の現実では
ないのだろうか。

学習を続ける日々は、今までの人生での多くの激しい出来事のすべてに、
自我がどのように対処してきたかを次第に思い出させるのでした。

ある道のり~いのちの実相 14 別れと出会い~

「レベル4です。余命3ヶ月です。化学療法が必要です。」
医師の方の決まり文句がありました。

もちろん抗がん剤治療をお断りし、なんとか自然療法で治癒できないかと
思い、さまざまな情報を集めました。

とりあえず、がんの摘出手術は生命に関わるほどだったので
していただくことにしました。
暮れの12月になっていました。
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ある道のり~いのちの実相 13 精神から肉体へ~

H先生は差し出された「念書」を念入りに読みました。
念書には、セカンドオピニオンのことは一切触れず、
以前の処方で効果が著しくあったものとして薬の名前を上げました。
気分調整剤としてのリーマスとデパケン
向精神薬としてのジプレキサとリスパダール
そして睡眠剤としての候補です。

先生は快諾してくださいました。
誠意を尽くして念書をしたためたこともありましたが、
何よりそれ以前の一年間の服薬と症状の月ごとの報告が
承認の理由となったようでした。
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ある道のり~いのちの実相 12 生気への道 3~

セカンドオピニオンは、患者にとって一人の医師だけでなく
他の医師の意見も聞くことで、何か新たな解決法を見つけていくものです。

でも話は知っていたものの、そのような言葉が自分の
深層心理から聞こえてこようとは、思いもよりませんでした。

午前3時必死でパソコンでの検索を始めます。
「精神科 セカンドオピニオン」
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いり塩でも大丈夫

焼き塩水について、以前から炒り塩でもいいと
お聞きしていました。

エタノールを購入したり、それを塩につけて燃やしたりする
手間が省けるので、実際にどうか実験です。

ちゃんと入り塩の水溶液はペーハー8.9の強アルカリと
なりました。焼き塩水と同じです。

焼き塩水はほぼ無料でできる、エネルギー吸引の方法です。
もっと多用してもいいかもと感じさせます。

ちょっと飲み過ぎで胃が泣いているとき、
焼き塩水を飲みますと、ほぼ瞬間でとても楽になります。

ボールの水に焼き塩またはいり塩を少し入れて、野菜をつけて
15分~30分ほどで野菜がイキイキします。

いり塩の場合でも、ためておくことでペーハー値がさがります。
およそ3時間でかなり下がるので、
また使うときは再度炒る必要があります。

ある道のり~いのちの実相 11 生気への道 2~

2006年6月6日以来、人生は娘一色となりました。
いやその前の2月の飛び降り以来といってもいいでしょう。

親の責任とかというような義務を飛び越えています。
人は何故ここに生まれるのか。
そしてさまざまなことを何故体験するのか。
結局はわからないので、わかりませんと言うしかない。
でも分からないがゆえに少しでも機嫌よく生きようじゃないか、
それがこれまでの結論です。
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