父親のいない家

記憶にあるうちには一度も父親と一つ屋根の下で
眠ったことのない体験の人生です。

家には学校から戻るともちろん誰もいない。
三歳下の妹がいたりはしますが、記憶にないです。

だからなんでも自分でやる癖がついて、
その頃共同炊事場の水道があるところで
お米をかしたり、洗濯板で洗濯をしたり、
また洗濯物を干したりしました。
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どこへ流れて

人間の心が何か沈んで行っているかのような
今の分離社会。
そして何か不可思議な世界。

子供たちの笑顔はマスクで隠れ、
大人たちの姿はいずれも同じ。
わずかに男女老若の区別ができるだけ。

でも目だけしか見えない、その目は
みんな素的です。

さて親しい親国の属国久しい大和の国は
どこへ行くのでしょうか。

私たちや私たちの祖先の源流はみな繋がって
今を生かされています。
それは世界そして宇宙。
その存在の中心はあなたです。

今から始まる大展開は、久しく世界をリードしてきた
国々の人々の逆転。
そして始まりのこの国の裏表がはっきりしてくるのでしょうか。
象徴存在も含めて。

鬼滅の刃よりもおもしろく興味ある時代に
共に生かされていることに感謝でいっぱいです。

どうぞ自分は自分でいてくださいね。

疲 労

「疲労した状態とは 霊がない状態」

よく疲労とか痛みとかは酸欠と言われます。

「疲れた 疲れた」と連呼される方は
「愛がたらん 愛がたらん」と言って
愛を求めているのかも知れませんが。

霊がない。とは?

たいて霊はエネルギーで物質に対するのは肉です。

「霊肉一体何故」は知花先生の講話です。

肉が車だったら、霊は運転手。
霊の運転手が下りたら、車である肉は抜け殻です。

その抜け殻が完全に抜け殻になるのが死体と言われる状態です。

それまでは肉体の痛みも「疲れた」も
霊がないまたは不足の状態ですね。
ようするに霊はエネルギーであり、原因であり、
「愛」であり、神であるのだから、それがないまたは
不足なのは活き活きしていない状態です。

それを助長するのが「自我」です。

「自我」は霊の喜びを恐れているのです。

霊には闇はありえませんから。

自我って・・

人間は自我があって存在を保っているようなものですね。
この世のですが。

自我は個性かも知れず、だれかに個性って何?って
聞いたら。
「欠けていること」と言われました。

「確かに」と変に納得しました。

欠けているから、目の前のことをいろいろと
判断して、裁いていくのが毎瞬の個性の作業ですね。

ところが
「自我は裁きなしには生き残れず
裁きがなくなれば退けられる」

ので、裁くことをやめればやめるほど自我が後退していきます。
そして個性(欠点)も薄くなっていくのでしょうか。

「自我とはありのままの自分としてでなく
自分が望む通りの存在としての自分自身を
知覚しようという間違った心による試み」

ややこしいですが、そうしたら欲望が自我。?

やはりこの世には自我のない人は一人もいませんね。