ある道のり33~いのちの実相 16 真理への道 2~

「奇跡の道」の自己学習ではとてもシンプルなことを言っています。
「あらゆる人を赦すこと。
そして否定的想念を持ってしまった自分をも同時に赦すこと。
さらにそのことをなかったこととすること。」

娘は学習する同志として両親を選びました。
私は娘を同じように選びました。
赦すことを学ぶためです。

娘に関してだけでなく、人生では多くのできごとに遭遇しました。
そのたびにさまざまな想念をいだきました。

もっとも悩ましたのは誇りについてでした。
でもよくよく考えてみれば誇りとは「自他がある」と考えるから、
汚されたと思うと怒りが出てきます。

それどころかあらゆる想念は「自他がある」と思うから発生します。
まずやっかいな、このこびりついた自我というか個我の粉砕が
大切になります。
でも大変に困難です。

まずは決心しなくてはなりません。
徹底的に我は全我だと思い、いのちはひとつだと思うこと。
そして赦し続ける行為によって、次第にこの堅い自我の殻が粉砕され、
いつか永遠の体験ができるようです。

それを望んでも難しいのですが、実践し続けるしか体験にいたる方法は
なさそうです。

それを助けるのが、毎日出会う人々です。
もっとも教えているのが家族、同僚、友人、恋人などの
特別な関係の人たちです。

近すぎて、そのことに気づきにくいものですが。
私たちの普通考える「現実」と「実相」とでは相容れることはありません。
実相では現実がわからないからです。

それでも誰でも「実相」から離れてあるものは一人もいませんし
一物もありません。

真実であるないに関わらず、「実相」のみが真理であり
「現実」は幻想なのです。

それを確信するためには、体験以外にはないのでしょうか。
そしてそれはどのように訪れるのでしょうか。
一度の体験は自我への戻りを阻止するものとなるのでしょうか。

ずっと以前、20年くらい前になります。
通勤途中の朝のできごとです。

家の前の信号交差点を渡ろうとしていました。
反対側からそれと分かる無宿の方。

「兄ちゃん、なにか食い物ねえかい。?」
兄ちゃんと呼ばれて嬉しかったのですが
「食べるものですか。持ってないですねえ・・・。」と冷たく答えて
すれ違いました。10歩ほど進んでから

「あの人はイエスかも知れない。」と突然思いました。そして
「食べ物ないけど、お金で何か食べ物買ってもらおう。」と心で思い行動しました。

その方は500円玉を受け取りながらも無言ですぐに行ってしまわれました。
「ああ よかった。もし何もしなかったらきっとずっとこの時のことを
思い出す。ああよかった・・・。」と心で喜びました。

このようなことは一度だけでしたが、人にはできるだけ
親切にしようと思いました。

小さいときに自分が受けた多くの他人様からの愛ある想念が
行為の源となっていることをしみじみ思います。

そのことがいいこととか悪いこととか判断せずに、なるべく親切でありたい。
そう思います。

まだまだ書くこともできない、自分の弱さや、自分の醜さを
教えるさまざまな出来事にあいました。

そのたびに、愕然としながらも、小さな自分を見ながらも、
できるだけのことはしよう、赦そうと決意し自分がもし相手だったら、
してほしいようにしようと思い、行動してきました。

他人さまがもし聞いたら「狂ってるんじゃないの。」と言われそうなことも
すべて赦してきました。

それは全部、自分のことだったんです。
心底そう思います。

自分のこと以外はこの世にはないと思うのです。
出来事やお人を赦し赦し赦しまくりました。

そのたびにこの幻想である「現実」も加速して変化してきています。
劇的にです。

人間は死なない。

だから娘も死なないし、生まれてもいないのです。

全我である自分そのものの命として、すべては永遠に「あり」ます。

これからどれくらい、この世界を体験するのかはわかりません。
ただ目の前の「現実」がいかに激しくなろうとも、いつも
平安であることができますように。

そして縁ある方たちとの出会いの中で、少しでも共に学び
赦しあえる同志でありますように、祈らざるをえません。

ひとついのちを共有する世界の人たち、ものたち。
「現実」でお会いできたすばらしい方たちにいつも感謝しています。

皆様に絶えざる、平安と大喜悦が常在することをお祈りします。