神の使者から奇跡の道へ その70~肉体は赦すことはできない

「肉体は赦すことはできない」

そうですね。
肉体は決心できませんね。
あたりまえですが。

すべては人間の最大の能力である
自由な心で決めるんですよね。
そしてだれでもが持っている自由な心。

もし、もしですが、肉体が幻想だとしたら
どうでしょうか。?
肉体が幻だとしたら、何か不自由があるのでしょうか。
何かに怒ったり、恐れたり、悲しんだりなんて
意味ないですよね。

ところが自分が怒っているときにはいつでも
自我の「祝福」を受けた特別な関係を作り出します。
肉体が、それだけがあなただと叫ぶ自我さんの勝利です。

全ての怒りは誰かに罪悪感(分離感)を感じ
させようとする試みのようです。

そしてすべての恐れは自我さんの知覚であって
それ以外の何ものでもないですね。
だから自我に、あんたなんかには従わないと宣言しても、
自我はあなたを殺すことは出来ませんね。

肉体はただあなたの目的に忠実に仕えるだけ。
そう、自我に従わないものを自我はころすことは出来ません。

「死の魅力が、愛の真の魅力に屈するとき、
死に対する恐れは去るだろう」

「肉体は赦すことはできない」

「祈り」

おかげさまで生まれださせていただいた
自分と言う存在が、いかなる使命を
持っているのかも知れず、
ここまで歩いてまいりました。

この混迷する世の中で今心に浮かぶことを
書き留めようと思いました。

今回の君の使命だが・・・
「スパイ大作戦」のきまり文句です。

さて、使命とは偏った考え、願いか。?
それともらしさとも呼べる癖という強烈な自我か。?

その癖をずっと持って人生を歩かされます。

癖。
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神の使者から奇跡の道へ その71~死に対する恐れがなければ・・

「死に対する恐れがなければ、あなたには何が
見えるのだろうか。もし死があなたにとって魅力を
もたないものだったなら、
あなたは何を感じ、何を考えるのだろうか」

死が魅力って変な言い方ですね。
でも恐れているってことは確かに魅力ですね。

あなたは何を思うのでしょう。

あなたを創造した「父」なんでしょうか。?
何で生まれて来たのか、創造した父に
聞いてみたいですか。?

でも父と子は離れたことがない。
だから融合があなたを分離の外へと
呼び出すことを決して認めないという
自我さんとの約束は、父との記憶がまったく
忘れ去られたかに見える、重度の記憶喪失。

自分が赦していない者たちを恐れ、
その恐れを傍らにしていては
決して「愛」に到達することはできないよう。

愛に向けて目を上げれば世界は自分を
すっかり見捨てるだろうと思えてしり込みする。
でも実際には自分が世界から永遠に立ち去るだけのようです。

もっと遊びたいのに。!
ちょっと寂しすぎ・・・。
お声が聞こえそうです。

なんてね。(笑)

「死に対する恐れがなければ、あなたには何が
見えるのだろうか。もし死があなたにとって魅力を
もたないものだったなら、
あなたは何を感じ、何を考えるのだろうか」

「そう簡単には止めない」 奥の院通信 2/9

 少なくとも2000年前から続けている儀式殺人、もし止めていれば今に続くユダヤ問題はない。儀式殺人をウィキペディアで調べると、いきなり「血の中傷」と出る。儀式殺人とは出てこない。
 最初から、事実ではない「中傷」なのである。しかし、これはユダヤ人にとっては、「割礼」とともに、一番重要な宗教上の儀式である。

 ユダヤ人はこの儀式殺人を行うので、それが露見するたびに復讐として、あるいは懲らしめとして虐殺され、追い出されてきたのである。しかし、どんなに酷い目に遭ってもこの儀式は止めないで来たので、ここに来て止めることなどあり得ない。しかも、彼らはこれを迫害されたと歴史に残した。

 儀式殺人に必要な子供の血液を調達するために、彼らは子供を誘拐する。そして、そのあと血の抜かれた子供の遺体は、埋葬が禁じられているので、どこかに捨てる。他方、いなくなった子供を探し、大騒動になり、時にその遺体が発見される。血が抜かれているので、遺体は真っ白である。

 だから、発見された時点で、これはユダヤの仕業とすぐ分かるので、犯人とその関係者が捕まえられ、殺されるが、時にはその土地からユダヤ人は追い出される。

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「死はすぐそこに」 自分で自分を自分する 2/9から

今回は「いっぷくからありがとう」さんの2021年02月04日の記事を紹介します。

死はすぐそこに

ここ数年、地球の波動が上がっているためか、

・覚醒した・・という方

・地球に来た目的を思い出した方

が急激に増えているようです。

出来れば、その思い出した英知を自分のためだけではなく、人々の幸せのために使っていただけたら、世の中は、もっと幸せになれるかもしれません。

2500年前の梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と同じです。2500年前、ブッダが悟りを開いた時、自分が覚った真理を説いても、欲望に支配された人々は理解できないだろうと、一人安楽な悟りの世界に安住してしまおうと、ブッダが思っていた時、梵天(ブラフマン)が現れて、人々の幸せのために、悟った法を説くよう要請しました。この梵天の要請を「梵天勧請」といいます。

梵天勧請 左:梵天(ブラフマン)中:ブッダ 右:帝釈天(インドラ)

さて今日は、27歳でガンで亡くなった若い女性の手紙をご紹介します。死が目前に迫った時、私たちは何を思うのか?死は、私たちに平等に必ずやってきます。そしてそれはいつ来るのか誰にも分かりません。健康で、朝「行ってきます」と笑顔で出かけた人が、突然帰らぬ人となるかもしれません。

では、ご紹介します。

<転載開始> 転載元 

26歳という若さで、死と向き合い始めるというのは少し珍しいことかもしれません。多くの人はこのことに目を背けて生きているからです。

毎日は、当たり前のように過ぎていきます。まるでそれがずっと続くかのように。私もいつか歳を重ね、シワができ、白髪になることを想像していました。たくさんの子どもに囲まれ、愛に溢れた家庭を築くことをいつも考えていました。でも人生は儚く、貴重で、予想できないものです。毎日を生きることは、与えられた権利ではなく、贈り物なのです。

私は27歳です。まだこの人生を終わらせたくない。私は今とても幸せだからです。でも、もう私にはコントロールすることはできません。私はただみんなに、些細なことを、あまり心配しないで欲しいのです。

 そして覚えておいて下さい。最後にはみんな同じ運命が待っているということを。

だからあなたの時間を、価値のある素晴らしいと感じることに使って欲しいのです。

嫌だと思うことはしなくていいのです。

些細なことには寛大な心でいてください。

もちろんイライラすることはあると思いますが、ずっと引きずらないでください。
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神の使者から奇跡の道へ その72~肉体を通して楽しみを・・

「肉体を通して楽しみを求めるなら、苦痛を
見出さずには済まない。肉体とは苦痛への招待」

おいしい食べ物、おいしいですよね。
快楽。快楽ですよね。
でもその果てに待っているのは苦痛ですと。

その苦痛への招待をワクワク待ち受けている自分。
ああ なんて儚い夢でしょうか。

そんな普通はワクワクすることに融合や
癒しや平安はないと言われている感じです。

また、そのようなことを遥かに超えるものを
知らずして、肉体を終えることもまた
儚いことかも知れません。

「肉体が融合することが可能だと信じている間は、
あなたは罪悪を魅力的なものと感じ、
罪は貴重なものだと信じるだろう」

肉体は決して融合は出来ないということでしょうか。
通常の感覚ではない言葉です。

それこそ私たちは一度も分離はしていないと、
常に思い続けることができたとき、
いつもいつも融合と平安に満たされた、
癒された状態でいられるのかも知れません。

赦すには困難な大問題が目前に現れたあと、
そのお相手の兄弟とともに自他ともに
赦し赦された時感じるもの。
それは問題が大きければ大きいほど
大きな永遠の平安を感じることができるのでしょうか。

「永遠なるものは永久に親切であり、無限の
忍耐をもち、全に愛に満ち溢れている」

「肉体を通して楽しみを求めるなら、苦痛を
見出さずには済まない。肉体とは苦痛への招待」

「2千年前に起きたことが今また」 奥の院通信 2/7

2千年前に起きたことが今また

 当時の奥の院(ユダヤ人たち)は、イエスをローマ軍に処刑させようと必死であった。この当時のパレスティナはローマの属州であった。イエスは、ユダヤ人たちの動きを全て知っていた。彼はゲッセマネの園で祈っていた。そこへ、ローマ軍兵士たちがイエスを捕らえにやって来た。

 イエスは、シオンの長老団の前に連れてこられると、次のように言った。

 「私が、毎日神殿でおまえたちといたとき、おまえたちは、私に手をかけなかった。だが、今はおまえたちの時間、おまえたちは闇の力である。」と。

 イエスは3度も裁判にかけられた。パレスチナには3つの臨時権力があったからである。ローマ人の支配は、ユダヤ人のヘロデ王とローマ総督ポンティウス・ピラトによって行われたが、パレスチナの実際の権力は、ユダヤ人律法学者たちの敵対する二つの集団によって行使されていた。一つは、大祭司アナニアに率いられ、ローマ人が後押しした。もう一つは、大祭司カヤパに率いられ、ユダヤ人が後押しした。イエスは3つの勢力の前で、それぞれ裁判にかけられた。

 『新約聖書』は「マルコ伝」の中で、イエスがユダヤのサンヘドリン(最高法院=奥の院)の裁判長カヤパの前に、引き出された時の模様を描いている。

 大祭司たちとユダヤ法院全体がイエスを死刑にするため、イエスに不利な証言を求めたが、何一つ見つけられなかった。大勢の証人が、イエスに不利な偽証をしたが、彼らの証言は全然一致しなかったからである。ユダヤ人は途方もない嘘つきであって、彼らの嘘は互いに矛盾していた。だから、どれもこれも、確かな証拠としては、使い物にならなかったのである。
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