人をとがめていながら 自分はとがめずにいる この無智

このように真理について数々の言葉を
拾い始めますと、現象のことがらについて
成功とか失敗とか、効率とか不効率とか
などのことは「どちらでもよいこと」になってしまいます。

人間は自由意思を持っていて何を思ってもよいです。
ですが真の「自由」とは自分自身の本源を知り
それを把握することだとすると、この世の自由と
実相の自由の差がはっきりとしてきます。

「裁かないこと 裁かれるから」

いつも日常にあっては常にだれかを裁く癖が出てきます。
それは簡単には、自分を裁いていることになるので。
裁かれることに必然的になるのでしょう。

どこにも分離がないと知れば、
わたしのものも、あなたのものもなく
所有という概念すら消えていきます。

明日は今日の愛ある行為によってすでに解決済です。

自分という人を伝える他人という存在。
どうして教えられていることを裁くことができるのでしょうか。

相手という自分なのに。

関係とは常に目的をもったもの 来る者は誰でも送られてきた者

来る者とは人間だけではありませんね。

来るものはさまざまでしょうか。
そして人さまざまにそれは異なります。
その人専用に送られて、贈られてきたもの。
ギフトですね。

嬉しい楽しいことばかりでなく、
いやなことも、つらいことも含めて。
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世界の覚者たちの夢

富山大学の寮の近くに小さな人が一人通れるくらいの
木のゲートがある。
そこをあけてしばらく小高い丘のような道を上がっていくと
小さな神社がある。

その緩い坂を上りながら正観さんは言った。
「この小高い山の中にね、壷があってね。
それを掘り出そうと、いろいろ考えているの。」
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時のない無限性との融合

「私は世界中に友達がいて、世界中を旅した。
そしてあらゆることを学んで、
最先端のロケット博士とも言われた。

この世界で知らないことはないくらいと思った。
けれど私の知っていることは0に等しいんだよ。」

糸川先生は何をおっしゃりたかったんでしょう。
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