「許すこと」   

気になる課題がみつかると、
言うべきか、言わざるべきか、
まだ迷う自分がいる。
言うなんてこと・・・、そんなに立派じゃない自分も
知っている。
それで気になりながらも、黙して語らない
自分流を通していると、夢にそのことがでてくる。
最近2度ほどそんな夢を見た。

しかしおかしいことに、そんな夢を見た翌朝、
そんなにひろくない会社の中で、みんながそのことの原因に
ついて話しあっている。
そしてこちらの堅い心は、やわらかくなるのだった。
そうさね、人間だもの、わざとするわけがない。
みんなが話し合うようにっていう、お告げかな。(笑)

自分の意にそぐわないところに出かけることがある。
まだ「義理」っていう守り感情が残っている。
そしてヤッパリ意にそぐわないことを見たり聴いたりする。
それで黙っていればいいのに、グチのように
口から言葉が出てくる。
そんな時いのちに恥ずかしい。
それよりまだそのことを望んでいる自分がいることを、
ただ知ればいいのに。

いろんなシーンを与えていただいて、意識のゆがみが
体に出てくる。からだにすまないと思う。
もしそれが自分からのものでなくて、
さまざまな人やものの集合意識が原因だとしたら、
それをかぶる自分がまだまだと感じる。

解放。
捨てよう、認めよう。
どんどん、どんどん生まれてくるものたちを、
許そう。

それしかできないから。

愛の実践ってなんだろう

他人様には決して言えない、みっともないことばかりして
生きてきた。だから他人様のことを、これっぽちも言えないはずなのに
言ってしまう、情けない自分です。

決して他言できないことを、一生身に携えて
生きていって、死んでいく多くの人々、というか
ほとんどの人々の荷物を、これっぽちも軽くして
あげることなんかできないことに気づきます。

まのーんが書いていた・・・、
「神との対話」を読んでも、九州のA喫茶に行っても、
滋賀のA村に行っても、プライナスで様々な体験をしても、感動した反面、実は本気で思ったのが、
「もう、やることひとつしかねえじゃん!!」
であった。
結局、愛を表現して生きてくしかないのだ。
ああ、それか・・・・。
やはりそれをやるしかないのか・・・。
たとえ技術や情報やスタイルや方便にどれだけ卓越しようと、
行為のはじめと終わりと最中に愛が満ちてないともうなにも味わえないのである。
・・・・・・・
・・・・・・・
———————————————-

愛の実践ってなんだろう。

日曜日、親戚のお墓を家族で訪ねた。
明治時代のの古い古いお墓を、
娘が、息子がタオルできれいにした。
お線香の煙の遠くから、先祖が近寄ってくる。
あの喜びが広がる。
待っていた人々。
その時ちょうどの家族の集い。
その日がちゃんとある。

韓国ドラマ「秋の童話」に嵌った。
全15話。山口百恵さんの「赤いシリーズ」の
模写ドラマだが、しだいに引き込まれていった。
一度も泣けないままに終わるのかなって
思ったけれど、14話で初めて大泣きした。
どんなこと。?
なるべくみんなのために自分を犠牲にした、
主人公の男性が本当のことばを相手に
告げる場面だ。
「サラゲ!! ウンソ!!」(愛してる ウンソ)の絶叫は
、「蝉時雨」で幾十年ののち想いを遂げた主人公の
心に通じているのだろうか。まったく状況は異なるけれど。
「オールイン」「チャングムの誓い」「秋の童話」と
ずいぶんの時間を純愛に捧げたつもり。(笑)
できないから、感じるんだろうか。

生きている限り、情念や業想念からの縛りから抜け出ることは
できないのかも知れない。
でも人は必死に抜け出ることを求める。
すべては、みずからの執着から生まれでたものだろうか。
なるべくは流れる映像のようにこの世を見つめる
観客でありたい。

タカオの話から
四苦八苦 4*9=36 8*9=72
36+72=108 ?(笑)

「ハグ」

今朝4時30分、貴央の出勤より少し後で
家を出ようとすると、まだパソコンの前で
起きていたマミが玄関迄出てきてくれて、
「ハグ」してくれた。
めずらしいので、ビックリした。
嬉しかった。
なにか感じることがあったのだろう。
ママは寝床だった。(笑)
10時に家に戻ったら、マミがおじいちゃんとおばあちゃんと
話し合って、涙ぐんでいた。
僕も泣けてきた。
立派になったと思う。
親ばかでいい。
ありがとうございます

「祈るしかない」

世界の遠くにおきた自然の猛威で
いのちを亡くした多くの人々に対して、
私はこの日本という国に、今いのちをいただいてあるということに
感謝して、ただただ人々のことを祈るしかありません。
人生でおかした数々のことがらと、縁づいた人々にも、
お別れした多くのいのちにも、
今ここに元気であることに感謝して、
ただただ祈るしかないのです。
ありがとうございます

秋の一日

故人とのお別れのときが来た。
もう立派な跡継ぎの板金店さんの息子さんが
棺の亡骸に大声を出しておおいかぶさった。
「おとうさーーん!!」
そして二人の小学生、まだ低学年の男の子が、
横たわるおじいちゃんの顔を見ながら、
おいおいと泣きじゃくっている。
おにいちゃんが、大声で、
「おじいちゃん! ありがとう!」って叫ぶ。
おじいちゃんが大好きだったんだね。
幼いお二人が、死と正面から向かい会う様子を
ずっと見ていた。
出棺の時がくるまで。

“秋の一日” の続きを読む

スエさん

「スエさん、死んじゃったよーーー!」といってボロボロ涙を
こぼす父。
「俺がかわりに行けばよかったんだわ。」
しゃくりあげている。
「めずらしいね。」といって家内と顔を見合す。
10月1日、土曜日に帰宅直後の出来事。
スエさんは、町内のステーキハウスの社長さん。
年はたしか75歳にはまだ1-2歳あったと思う。
急な報せにちょっとビックリ。
スエさんの奥さんの方が、病気がちで、
スエさんは看病もっぱらの日々。
とても陽気で、町内でも人気者だったから。

“スエさん” の続きを読む

動かない物

旅に出て、平原の風にそよぐすすきを見る。
そこに立つ木を見る。
そして動かぬ巨石を見る。
木の枝や葉は風に揺らされるし、
もちろん植物も揺らされる。
でも石は風に吹かれるだけで、
ずっとそこにある。
私が死んでもそこにある。
そんなことが悲しくて、
涙ぐんだ秋の夕方もあった。
だけれども、よく考えた、つまらんことかも
しれないけれど。
この世に回転していないものはない。
原子一個から、地球や、巨大銀河系まで。
そして無限宇宙でさえ。
だから同じ場所、同じ空間はない。
巨石だって、動いているんだ。
地球に乗って、一緒に旅しているんだ。
そう考えたら、気が楽になった。
石がかわいそうでなくなった。
人間の勝手な思い込みは続く。

個性の光が集う 「ねおやまと」

平成17年9月10日。
名古屋でブログ人が集まった。
名古屋クラウンホテルで集いをし、
食事会をし、プライナスに演奏をお願いし、
夜中まで別室で話をしあった。
ブログを書く人も、書かないけれど集いに
興味ある人も一緒に語り合った。
技術であたらしいソーシャルネットを創造する人あきもさんは
この日のために、みなさん用にCDにブログを紹介したり、
無料で更新もしてくれるアンチウィルスソフトの
導入方法を紹介してくださった。
(ねおやまとコンテンツ第一号、ご希望の方に無料進呈です)

“個性の光が集う 「ねおやまと」” の続きを読む

「私の中の灯」

「アーナンダよ、これからは他に頼ることをやめよ、
みずからの内の灯をたよりとせよ」
ありがとうおじさんの言葉はまさに、釈迦が
弟子でありいとこであった、アーナンダに
さとした言葉そのもののように感じる。
松陰が獄中にあったとき、松陰は
夜空をながめながら、その朝、獄中寺子屋で聞いた
星座の名を、つぎつぎに当てる。
黙って聞いていた土井女子はふと地に咲く花に
目をやりながら、こうつぶやく。
「松陰先生。あれも知っているコレも知っているという
知識も大切ですけれど、このような花を見て
きれいだなと感じる心はもっと大切かも知れませんね。」
松陰は愕然として、己の非を悟ったという。
感じる心を鈍らせるもの、それは人間のもつ欲望なのだろうか。

“「私の中の灯」” の続きを読む

末っ子

昨日の25日、台風が接近する午前に
末っ子娘がオランダへ旅立った。
欧州一ヶ月間の旅立ちの日。
一人旅だけれど、現地には各地に
ともだちがいるようだ。
身長167センチ、体重48キロだから、やせている。
それなのに、長男に借りた大きなリュックを背に、
小さなリュックを前に、子供を抱えるような姿は
倒れそうにみえる。
細い腕。
この子の小さい時は、驚くような事件ばかり。
親戚の家の2階へ,知らないうちに階段を
あがって、のぼりきってしまった、ハイハイあかちゃん。

“末っ子” の続きを読む