いのちの実相 2

アルバイトは二つでした。
はじめは雪印ローリーの配達。
それをやめたら次はM新聞の配達でした。
ふたつのアルバイト中にとても心に残る思い出があります。
ひとつはローリーの配達で初めて一人で配達した朝の
できごとで店主の方の広いお心を感じました。
初めての日、ローリーを積んで少し自転車で行ったところで
転んでしまって、ローリーがグシャグシャになったのです。
店主の方が、泣きながら店に戻った私に最初にかけた言葉が
「まーちゃん 大丈夫だったか?怪我しなかったか?」だったのです。
もうひとつは新聞配達のお客様に受けたご恩です。
小さな心使いが人の心をやさしくさせることを知りました。
何より新聞配達を終えたある日の事故が一番の印象です。
いつものように松坂屋から家へのゆるやかな坂道を、
仕事を終えた軽やかな気持ちで自転車で下っていました。


まったく突然に、自転車から数メートルは前へ飛ばされ
息ができません。  もうこのまま死ぬのか思いました。
すると遠くから「ボク大丈夫?大丈夫?」と声が聞こえてきて、
ふっと我に返りました。 で「大丈夫です」と答えたのに、
まわりには誰もいません。 それより息ができたことのほうが
嬉しくて、死ななかったんだと単純に嬉しかったのです。
坂の上の方の来た道をみますと自転車が倒れていました。
ハンドルがグニャっとまわってましたが、電信柱でゴンゴンで
直りました。 どうも路上駐車してあった車にまともに
追突したようなのです。 でもその車のバックに傷もなし。?
どうしてぶつかったのかを思い出せなく、突然に事件だったのです。
?????でしたが、とにかく命があって息ができることの
心からの喜びを感じました。
中学校は名古屋でもっとも危険といわれたH中学校でした。
そこでは人間に対する差別に異常に抵抗する自分の心を
知りました。 不平等が赦せない自分を見ました。
生徒会に入り、先生やPTAにたった一人になるまで抵抗しました。
仲間は一人ひとりと去っていきました。 孤独感と自分の
執拗なまでの自我を知りました。
やっとのことで入った高校で娘の母となる家内に会いました。
私が高校二年生家内が一年生の春でした。
始めてあった日に、この人と一緒になると直感しました。
そしてその8年後結婚し、栃木県宇都宮市で娘は
生まれました。 
7ヶ月の早産でした。
1300Gと小さく、町の小さな産院ではケアできず、すぐに
宇都宮大学病院へ移送となりました。
私の車の後ろの席の箱に入った娘に始めてあいました。
真っ黒な目をして、こちらを見つめていました。
娘に最初に会った親は父親でした。
そして娘と母は一月間、離ればなれでした。
毎日毎日病院のガラスの向こうの娘に会いに行きました。
未熟児用のケアルームがそのガラスの向こうの部屋でした。
娘はいつも黒い目でこちらをじっと見つめるかのようでした。
一週間ほどたった日、先生から相談がありました。
「お子さんの酸素をこれからどうなさるか決めてください。
もし酸素をこのまま続けますと、目が見えなくなる可能性が
あります。酸素を今切れば失明のおそれはありませんが
生命にかかわることになるかもわかりませんが。」
この決断はむつかしいことでしたが、家内に相談することもせず
酸素を切ってくださるようにお願いしました。
目が見えたほうがと思いました。
一月の後、産後の家内は退院し、宇都宮大学にいた
娘も退院となりました。
家内は早産に至った原因を自分に課し、一生この子のために
何でもしよう、そしてできるだけのことをしようと決意したようでした。
平穏な時が流れ、家庭に幸せ感が溢れていました。
半年後、名古屋には家内と娘と、そして新しくおなかに宿った子とが
戻りました。 そしてその年の10月に会社を退職し、私も戻りました。
その後は仕事のことでたくさんのできことがありました。
また子供もあと二人授かりました。
お父さんは、精一杯働きました。
長女が幼稚園に入ったころ、ころんでも泣かないことに
気づきました。 そして幼稚園でも、一人で砂場で遊ぶような子でした。
小学校に通いだして幾度か、ランドセルの後ろや、Tシャツに
落書きがあるのを見ました。いじめられているなあと直感しました。
私は学校にはその頃ノータッチだったので家内が抗議したようでした。
中学校でも、ゆったりした性格と、人のうわさをしない
まっすぐで純真な性格から、やはり他人とはうまくいかないようでした。
それでも学業は良かったらしく、推薦で高校に入学し
最初のテストで一番になってしまったようでした。
それが彼女のプレッシャーになりました。
次第にどんどん成績が落ちていきましたが、先生からは
大きな期待を寄せられて、心が小さくなっていったようです。
そしてなんとか2年まで持ちこたえた後の正月に
私に直接娘が訴えたのでした。
大学病院の精神科での検診を受けることになったのは
その年の4月でした。