長女Sが今年6月18日の夜に息を引き取って、今生の人の一生を閉じました。
この世では40歳少し足らずの人生でした。
世に言う77日を8月6日に終えて忌明けとなりました。
彼女のことや自分のこと、また小さな時からのできごとを
すべてに差し支えのないことだけ(笑)を少しずつお話させていただきたく思います。
といっても 目に見えて感じることはすべては私のことかもしれませんが。
またただ今までの現実の人生で起きたことをお伝えすることで、
私の感じる「いのちの実相」を少しでもお伝えできればとても嬉しいです。
このブログは公開をしていないので、このブログを訪問くださる250名ほどの
お方たちと、私の人生を共有させていただくことをお許しください。
人ならば、誰でもその人しか体験できない、たった一つの人生を
送ることになります。あたりまえのことですが、 その人生の中でどうして自分だけ?と
思うようなことがらがどなたにでもあることでしょう。
娘は高校2年生の冬に精神が不調になりました。
わかったその日その時がその後の私の人生の大きな転換点となりました。
それは久しぶりの私の実家の親戚との旅行中にわかりました。
愛知県三河蒲郡にある竹島をみんなで歩いて一周したあと
浮かない表情の娘に大丈夫?と声をかけました。
「お父さん 私きのうもぜんぜん眠ってないし、3日間まったく
眠ってないの。景色がぜんぶ灰色に見えてちっともきれいじゃないの。」
と訴えてきました。
異常と直感しました。
そして長い長い幻の旅が始まりました。
娘が亡くなったことで、今の私の心に、長い間疑問であった「いのちの実相」に
ついての確信が生まれました。
その確信は娘がくれたプレゼントとなりました。
娘への感謝をこめて、ものがたります。
26歳のとき、私は養子として山田家に来ました。
4年間ほど勤めた建設会社を退職し名古屋に戻りました。
本家の森本家の母は大反対でした。
せっかく入った会社をやめて、名古屋で養子だなんて許すことが
できなかったのでしょう。
母には「大企業には代わりはいくらでもいるけれど
山田家には自分しかだめなんだから」と話しました。
長女長男が名古屋に戻った頃にはいました。
その後次女三女が出現しました。
私には実の父と一緒の家で眠った記憶がないです。
小さなころから父母は絶縁状態で別居していました。
父は何度か籍を抜こうと試みましたが、そのつど母にみつかり
元にもどすことになりました。
母は離婚だけは避けたい、四人の子供たちのために、と思っていたようです。
私は次男、下には妹が一人、上には姉とその上の長男がありました。
母はとてもやさしくて働き者です。
記憶の中では、怒ったところを見たことがありません。
でもプライドは高かったのか、貧乏なのに幼稚園に入れてもらいました。
そして四日目「おかあちゃん幼稚園にいじめっ子がいるから、行くのいや!」
といいましたら「そしたらやめたらいいよ」でした。
小学校3年生から6年生の間、一回に500円の生活費を
父の家に受け取りに行くのが私の仕事になりました。
(もう父母はすでに亡くなって、30年にもなりますので
追悼のお話とさせてください)
名古屋の広小路通りはメインストリートです。
そこを通る路面電車にのって東新町から西行き大門までの夜の仕事です。
毎回500円をいただければ とても嬉しい仕事なのですが
ほとんど3回か4回に一度しかいただけなかったのです。
週に2度のこの集金の日が とてもいやでした。
居留守をつかわれたりするのが みえみえでした。
そんな時いるとわかっていても玄関前で2時間も
待ったこともありました。
でも500円をもらえた日は、まるで雲の上に乗っているかのように嬉しくて
家に飛ぶようにして戻りました。
そしてまた家にいる姉や母へ報告したあと喜ぶ顔を見るのが
もらえた以上に嬉しかったのです。
それに引き換え、もらえなかった日は悲しかったです。
そのことをみんなに報告するのが悲しかったのです。
でもそんな夜の小さな旅ではとても記憶に残ることもありました。
電車の乗車賃は片道13円です。往復券だと25円、一円のお徳です。
いつも25円を母からもらって出かけます。
車掌さんから往復券を買って乗り込み、大門で降りるときに
緑色の往復券の真ん中の切り込みに沿ってきれいに半分にして
渡します。 帰りその半分をなくしてしまうことがありました。
もちろん25円しかもらってないのでお金はありません。
車掌さんに 「落としました」というと「今度覚えていたらまた払ってね」と
おっしゃるだけでした。こんなことが3度ほどありました。
切符を落としたらいけないと、ポケットの中で握り締めていると
かえってどこかへ行ってしまうようでした。
一度は電車で眠ってしまって終点で起こされました。
車掌さんは「電車は僕の駅の近くまで回送するので乗っていっていいよ。」
と送ってくれました。
でももう一度は怖そうな車掌さんだったので、それも言えなくて、
終点の覚王山まで眠ってしまい、歩いて一時間ほどの道を戻ったこともあります。
他人様の情けに比べて なんて実の親は・・・と子供心に思ってしまったようです。
小さな心にともしてくださった他人様の灯火がすばらしい思い出となりました。
小三から小六のこの時期を越えると、500円がものすごく小さな額に
思える時代に入ってきて、もうこの私にとって苦難の仕事は自然になくなりました。
母の稼ぎが大きくなってきたのです。
そして私もアルバイトをするようにもなっていました。