いのちの実相  3

旧サッポロビールの工場跡地(現在のイオン)近くに
JR中央線が通っていて、大きな道路に鉄橋がかかっています。
今から50数年前は、まだその橋脚に人が上っていけました。
小学生である私たちは、近くの鶴舞公園での遊びの行き帰りにその橋脚に
よじ登っては飛び降りたりして肝試ししました。
どうしてだかわかりませんが、そんなある日、サッポロビールの
長い長い塀を見て思ったのです。
「城のような家を建てる」
小さな子供の夢だったのかもしれません。
自宅は子供が増えて、家が手狭になったので、お風呂や部屋を改装して
まだ2~3年しかたっていなかったのですが、家を壊してビルを
建てるんだと、突然に強く思いました。
恐る恐るですが父に相談したら「それはいい!」でした。
男二人の同意は強いエネルギーとなり、女性群は仕方ない感じでした。
1987年に貸し事務所用と自宅用のビルが完成しました。
8階建ての8階の自宅ベランダからの町の眺めを見下ろしたとき
突然に「これが城?」とビルは小さいけれど幼い頃の夢が蘇り、
達成感に満たされました。とても幸せでした。
私が39歳、娘は中学校に入学する年齢となっていました。
そしてその5年後、17歳の正月に娘は発病したのでした。


建築関係の会社の経営者になって10年が経過し、
自宅を磐石にするためにビルを建て、
仕事仕事で家庭を振り返ることもせず、子供のことはすべて
家内に任せていました。
一体私は何をしていたのでしょう。
まだ精神的な病を隠す傾向にあった社会風潮では
病院にかかることすら、ためらわれました。
そして学業としては、やめればその後の経歴に
傷がつくので、なんとしても高校卒業だけはとの思いが強かったのです。
病院にかかりましたが、好転せず、学校は休みがちでした。
夏休みまでがんばったようですが、もう学業は断念し自主退学となりました。
17歳の夏のこの年から、彼女の長い長い22年間の旅が始まったのです。
そして娘の上がり下がりする心の動きを見つめる私の心に
大きな衝撃が走りました。
仕事をし、大きな会社にしてもっと、利益を上げて日本一になりたい。
そんなことしか頭にない、がちがちの亡者だった私でした。
「なぜ?なぜ自分の子供がこんなふうになるんだろう。
人間ってなんだろう。いったい本当のことってなんなんだろう。」
お昼休み、会社の窓から外を見ていました。
まだ路上駐車が認められていた時代、高級車の日産シーマが
とまっていました。そしてその車の持ち主が現れて乗り込みました。
お隣の木造のアパートの若者でした。
その時直感しました。「あの人、車のために生きている。」
拝金主義の、プライドがちがちの心に一筋の光が差し込んだようでした。
「外に出なさい!」太い声が聞こえた気がしました。
すぐに郵便局からの封書が届けられて、その中に商工会議所主催の
勉強会の案内がありました。
3ヶ月間毎週開催の勉強会でした。
外に出て、他の業界の人と共に学ぶことなど考えもしなかったのですが
その太い声はこのこと?と直感し、恐れながらも参加の申し込みをしたのです。
この日から私の旅も始まりました。
今思えば、すべて娘のおかげでした。