再録 ダビデ王朝の行方と天皇家 「日本とユダヤのハーモニー」から

ダビデ王朝の行方と天皇家

紀元前7世紀、北イスラエル王国が滅び、南ユダ王国も崩壊の危機に直面していた頃、イスラエルの民は離散し、その多くは大陸を東方へと移動しました。そして長い年月をかけ、中には世代を超えて最終的に日本列島まで到達した民も少なからず存在したと考えられます。北イスラエル王国から逃避し、大勢の民がアジア大陸を徒歩で東方へと民族移動する最中、隣国の南ユダ王国においても国家の脱出を目論んだ人々がいました。北イスラエル王国の崩壊を目の当たりにし、敵国との軍事力の差は歴然としていたことから、南ユダ王国も直に滅亡することを悟った国家の宗教リーダー達です。そのグループのリーダーが、旧約聖書に登場する預言者イザヤです。

南ユダ王国の危機を予知したイザヤは、アジア大陸の東方、はるか彼方に浮かぶ「海の島々」に希望が託されていることを、神から与えられた言葉から確信しました。そしてダビデ王朝は限りなく存続することが聖書に書き記されていたことから、神の象徴である神宝と共に王族の継承者を守り、一同を安全な場所に移動することを目論んだのではないでしょうか。そして新天地にて新しい国家を創生するために、選ばれた民と共に国家の脱出を図ったのです。イザヤの一行が目指した目的地は「海の島々」であり、それはアジア大陸の東方に浮かぶ日本の島々でした。

先行して国家を脱出した北イスラエル王国の民が陸地を歩きながら東方に移動したのに対し、イザヤの一行は船を用いてアジア大陸の南岸を航海したと考えられます。何故なら、最終目的地が島であり、そこには船がなければ到達できないことを事前に知っていたからです。イザヤはヒゼキヤ王の側近としてエルサレム神殿で祈りを捧げ、王宮と常に行き来をしていたことから、王に仕える船乗りの集団とも面識があり、船舶にアクセスする手段を心得ていました。また、イザヤ自身は王系の出自であったと考えられ[1] 、幼い頃から様々な教育を受けていただけでなく、高度の航海技術も理解していたことでしょう。よって船で移動したイザヤのグループは、陸地を徒歩で先行して離散した北イスラエル王国の民よりも早く、日本列島に到達することができました。そして数年かけて航海を続け、最終的に日本列島に到達した後、国生みと言われる列島の調査が行われました。こうして日本の創始に関わる神々、すなわち古代イスラエルの民による日本国の歴史が始まったのです。

イザヤと共に船に乗り同行したのは、南ユダ王国の王族や祭司レビ族が中心であったと想定されます。預言者イザヤは当時、南ユダ王国において国王に仕え、エルサレム神殿を自由に出入りして祈ることができた宗教的指導者であっただけでなく、自身が王系一族の出自でした。よって限られた人数しか搭乗できない船団をまとめるにあたり、当然ながら南ユダ王国の王系の人々とユダ族と、そして神宝を司ることが任されていたレビ族の人員を中心に構成したことでしょう。そのイザヤのグループが、イスラエルからの日本列島に到達した初代の渡来者であり、国家の創始に関わったと考えられます。そして王系に属する子が初代渡来者の中から誕生し、その子孫から日本皇室の初代天皇となった神武天皇が生まれ、即位したと推測することにより、歴史のパズルが紐解けてきます。

海上から眺める淡路島
海上から眺める淡路島
もし、預言者イザヤがイスラエルからの初代渡来者として王系一族と共に日本に渡来したとするならば、イザヤ自身も王系の出自であることから、初代渡来者の中心的存在は、イスラエル12部族の中のユダ族であった可能性が高いと言えるでしょう。そして皇室の歴史につながる国生みが淡路島から始まり、そこから歴史が動き、初代神武天皇に至るまで子孫の流れが継承されたとするならば、天皇家の出自はユダ族と考えられます。南ユダ王国で栄えたダビデ王朝の王はユダ族の出自でなければならず、初代渡来者の一行もユダ族の人々で占められていたからです。

ダビデ王朝の存続を目論んだイザヤは、東方にある「海の島々」で新しい国家を創始するべく、神宝を携えるレビ族、王系一族を中心とするユダ族の人々と共に船で旅立ちました。それが日本皇室の原点であり、そこには神の選民なるイスラエル血統の中でも、ダビデ王朝を継承するユダ族の存在がありました。さらに掘り下げて、その根拠に結び付く要素を8つの視点に分けて考察します。
1.不滅のダビデ王朝はいずこに!

イスラエルの歴史は、いつの日も、神との約束と契約を土台にした信仰のうえに成り立っていました。中でも神から最も注目され、愛された僕がダビデ王です。そのひたむきで純粋な思いが神の目にとまり、熱い信仰故に、王の子孫は永遠に栄えることが約束されたのです。旧約聖書の詩編89には、「わたしはあなたの子孫をとこしえに堅くし、あなたの王座を建てて、よろずよに至らせる」[2]、そしてゼカリヤ書には、「ダビデの家は神のように、彼らに先だつ主の使いのようになる」[3]と書かれています。これらの聖書の言葉を神の約束として受け止めたイスラエルの民は、ダビデ王朝が末永く継承され、その子孫はいつの世でも続くことを固く信じてきました。

ダビデ王のルーツはイスラエルのユダ族です。創世記49章に、「つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく」[4]と書かれているとおり、イスラエルの王、裁き司がユダ族から出るということが、イスラエルでは古くから信じられてきました。その言葉のとおりダビデ王はユダ族の出自として国王となり、在任中、国家は大きな祝福を受けました。ダビデ王は国家の礎を築いただけでなく、その子息のソロモン王が、神の命に従ってエルサレム神殿を建造したのです。それら偉大な功績の数々を振り返ってみても、ダビデ王の家系こそ、正に神から祝福された王族であり、神の言葉どおりにダビデを王とするイスラエル建国の約束が成就したことがわかります。

神を信じる多くのイスラエルの民にとって、神の言葉は絶対であり、王系一族の祝福が末永く継続するという神の約束とダビデ王朝に対する敬意の念は、計り知れないほど深いものでした。それ故、ダビデ王に与えられた、子孫への王座の継承がとこしえに続く、という約束は重要視され、イスラエルの民はいつの日も王権の存続を信じて生き抜いてきたのです。つまるところ、神の約束は必ず成就すると信じていた民にとっては、例え国家が侵略されて崩壊したとしても、ダビデ王朝は不死鳥のようによみがえり、持続するという確信があったのです。

北イスラエル王国が崩壊し、南ユダ王国も滅亡の危機に直面していた時、ダビデ王の子孫が密かに国を脱出し、世界のどこかに移住してダビデ王朝を守り続けていたとするならば、それは正にユダヤ英知の結晶であり、奇跡の復興とも言えるでしょう。ユダ族の血統を継ぐダビデ王朝の遷都とも言える一大事が目論まれ、ダビデ王朝の灯は絶えることなく、世界のどこかで輝き続けていたと考えること自体、想像を絶します。しかし、このような奇跡の連続がイスラエルの歴史です。そのダビデ王朝の新しい都とは、地理的、政治的、宗教的見地からして、イスラエルの東方に限られていました。それは「海の島々」[5]と告げられていたことから、ダビデ王朝の行き先として可能性が残されているのは世界中どこを見渡しても日本しかないようです。
2.奇跡を成し遂げるユダヤの英知

神の約束を確信した国家のリーダーや権力者の中には、ダビデ王朝の存続を実現するために、あらゆる手段をもって尽力した人達がいたはずです。そして時にはそのゆるぎなき強い信仰心故に、大胆な行動も辞さず、歴史の流れを変えてきたのではないでしょうか。古代に限らず、人類の長い歴史において、ユダヤ人はその優れた英知故に、エポックメーキングな出来事の多くに深く関わってきました。著名なユダヤ人の中には、モーゼ、イエスキリストをはじめ、近代においてはカール・マルクス、アインシュタイン、ロスチャイルド、そして昨今では、映画界においてはスピルバーグ氏、経済界ではジョージ・ソロス氏、そして今や、世界を動かしているGAFAをリードするFacebookのマーク・ザッカーバーグ氏、Google創業者のラリー・ペイジ氏などが名を連ねています。いつの時代でも、これらユダヤ系の識者は想像を絶する大胆な働きをし、人類の歴史に大きな影響を与えてきました。

古代のイスラエル史においても、ヒゼキヤ王の時代、常識では考えられないような政治的工作がユダヤ系の識者、預言者らによって練られた可能性があります。神を愛するイスラエルの民が、約束されたダビデ王朝が滅び行くのをそのまま見過ごしにするとは考えられません。それ故、南ユダ王国が滅びることがヒゼキヤ王の時代に予言された際、何かしら回避策が練られたはずです。そしてダビデ王朝の灯が絶えることなく、後世に継承されるように考えられた結末が、ダビデ王朝の東方遷都です。

従来の国家が滅びても王朝を継続するためには、都の場所を変えてでも、新天地に王権を樹立するしかありません。そのためユダヤの計り知れぬ英知をもって、神が示す新天地に向かい、そこでダビデ王朝を守り続けるために新たなる都を造成することを目論むというとてつもない構想が生まれ、王系一族の国家脱出と、それに伴うユダヤ王朝の遷都が計画されたのです。新天地へ向けての脱出計画は、国家の存続に必要不可欠な神宝の移設をも必要とすることから綿密な計画が必要であり、公にすることなく国を去るために、ごく少数の国王関係者にしか知らされることはありませんでした。神宝を外敵から守護するためにはひたすら情報を隠蔽し、どこへ行くかさえも知られないまま歴史のオブラートに包む必要があったからです。

そして脱出計画は奇想天外な策略をもって実行に移されたようです。その結果、北イスラエル王国が崩壊し、南ユダ王国が壊滅しかけていた直後、日本列島では神々とも呼ばれる皇族の先代により、日本国家の歴史が始まりました。ユダヤ系の識者の英知とたゆまぬ努力により、ダビデ王朝を担う一族が古代イスラエルの南ユダ王国を脱出したと想定するならば、その一行が向かった旅先は自然と日本列島に紐づけられます。その根拠は旧約聖書の歴史書と預言書の記述内容に基づきます。だからこそイスラエルと日本、そしてダビデ王朝と日本の皇室には、多くの類似点があるのではないでしょうか。

古代、イスラエルと日本はどうやらダビデ王朝の存続というテーマによって繋がっていたようです。計り知れぬ英知をもつユダ系の天才らが英知を結集して計画し、暗黙のうちに実行に移したからこそ、歴史に記録が残されないまま奇跡の遷都が成し遂げられたのではないでしょうか。もし、ダビデ王朝を担う王系一族が日本列島に渡来し、それが皇族の歴史の始まり、しいては日本国創始の原点になったとするならば、天皇家は元来ダビデ王朝を継承する一族としてユダ族の出自であった可能性が高くなります。
3. 国家脱出後の目的地は「海の島々」

ヒゼキヤ王の時代、預言者イザヤには多くのメッセージが神から与えられました。その内容の多くは、北イスラエル王国と同様に、南ユダ王国も滅びの道に至るというものでした。しかも大切なエルサレム神殿が外敵によって踏みにじられ、破壊されることまでイザヤは知ってしまったのです。神の言葉を絶対視したイザヤにとって、国家を失うだけでなく、聖なる神殿が破壊されるということは人生の一大事でした。それは自らが仕えているヒゼキヤ王の後継者が途絶え、ダビデ王朝が終焉するだけでなく、神の象徴である聖櫃とも呼ばれる契約の箱が外敵により汚されてしまうことを意味していたからです。もはや一刻の猶予も許されない状況でした。

幸いにもイザヤに対しては、国家の崩壊だけでなく、その後の新天地における祝福と恵みの預言も与えられました。それはイザヤ書24章に記載されています。

עַל-כֵּן בָּאֻרִים, כַּבְּדוּ יְהוָה
ְּאִיֵּי הַיָּם, שֵׁם יְהוָה אֱלֹהֵי יִשְׂרָאֵל

それゆえ、光の中で(火の中、東方で)神に栄光を掲げよ!
海の島々にて、神の名、イスラエルの神に![6]
イザヤ書24章 新天地における祝福と恵みの預言

神からイザヤに対して明確に与えられた言葉でしたが、その意味は不可解であったに違いありません。まず、神に栄光を捧げる聖地が東方の海にあるのか、という疑問が生じます。イスラエルから見ると、国の西側にしか海が存在しないにも関わらず、あたかも東方の海で神を崇めることが告げられたからです。אֻרִים(erim)という言葉の原形はאורという「火」「光」を意味するヘブライ語です。この言葉は太陽が昇る東方を示唆することもあり、בָּאֻרִים (baerim)は「光の中で、東方で」という意味になります。しかし現実問題として東方には広大なアジア大陸が広がり、そこから敵国が攻め入ってくるという危機にユダ王国も直面していた時でした。よって、東方の地で神を祀るということは考えづらかったに違いありません。

さらに不思議なことにבְּאִיֵּי הַיָּם (beiyei hayam)いう言葉が与えられたのです。日本語訳では「海の島々の中で」「海の島々にて」となり、それらの島々が光の方向、東方にあるというのです。イスラエル周辺には西方にしか海がないことから、これまで多くの聖書学者はこの箇所の翻訳に戸惑い、「海沿いの国々」として曖昧にしたり、本来の意味である「海の島々」とは全く違う「西の島々」と訳したりしました。イスラエル西方の地中海には島々と呼べるような列島は存在せず、原語では東方を示唆していたことから明らかな誤訳ですが、そう考えるしか術がなかったようです。

しかしながら、イザヤはアジア大陸の東方には島々があることに気付いていました。古くからタルシシ船は地中海からアジア大陸の南岸を東西に行き来し、様々な貿易に携わってきました。よって旧約聖書にもタルシシ船の記録は散見され[7]、船舶の情報は国王にも報告されていたのです。イザヤは聖書に父親の名前が併記されていることから王系の血統を継ぐ一族であり、国王のアドバイザーとなる預言者でした。また、イザヤの父アモツはヒゼキヤ王より3代前ウジヤ王(別名アザリヤ王)の兄弟であり、ヨシュア王の子であったという説[8]もあり、いずれにしても王系一族であったイザヤも、船舶に関する情報を知る立場にあったと考えられます。よってイザヤは、国家の滅亡が迫ってきた際、聖櫃を携えて王系一族と共に旅立つ目的地は、当初から新天地となる東方の島々であることを悟っていたことでしょう。

こうしてイザヤは東の島々に向かうために船団を準備し、聖櫃を持ち出して担ぐことが唯一許されているレビ族と、ダビデ王朝の血統を受け継ぐ王系ユダ族の子孫らと共に船に乗り込んだのです。船で移動できる人数は限られていたため、国家のリーダー格や識者を中心に船団のメンバーが選ばれました。そしてアジア大陸の南岸を東方に向けて航海し続け、日本列島まで到達したと考えられます。南ユダ王国が崩壊し始めた最中、日本に渡来したイザヤの一行とダビデ王朝を継承する王族の子孫により国生みが行われ、日本国と天皇家の歴史が始まったと推測されます。それ故、国家の創始にあたり活躍した人々の多くはイスラエル南ユダ王国の出であり、その流れを汲む天皇は、ユダ族の出自であったと想定されるのです。
4. 日本に持ち運ばれた聖櫃

「契約の箱」と宝蔵された「3種の神器」
「契約の箱」と宝蔵された「3種の神器」
エジプトで奴隷になっていた時代、イスラエルの民はモーゼのリーダーシップにより無事にエジプトを脱出し、約束の地へと向かいました。その旅路の途中、神はモーゼを通じて神が共におられる象徴となる、聖なるあかしの箱、聖櫃を作ることを命じました(出エジプト記25章[9])。その箱は「契約の箱」とも呼ばれています。その箱の中には十戒が刻み込まれた石の板が宝蔵され、神の奇跡の象徴となるアロンの杖とマンナの壷も添えられました。そして聖櫃の上には羽を広げたケルビムと呼ばれる金の鶏が向かい合わせに設置されたのです。この聖櫃は当初、神の命によって作られた幕屋と呼ばれる四角のテント内の至聖所に置かれました。

幕屋と聖櫃は、荒野を旅するイスラエルの民と共に移動しました。そして2本の長い棒の上に常に置かれている聖櫃はイスラエル民族の規約に従い、白い衣をまとったレビ族の祭司によってのみ担がれ、移動されたのです。ダビデ王の時代では、約束の地エルサレムに近づいた際、神が共におられる象徴である聖櫃に王の熱い想いが注がれ、ダビデ王は喜びのあまり歌い踊りまくりました(サムエル記下[10])。聖櫃が担がれて移動する際には、人々の歓喜と踊りがあり、何の恥じらいもなく神を称えながら大声で叫び、お祭りをするという習わしの始まりです。そして聖櫃はしばらくの間、ダビデの町、シオンに安置されることになりました。

その後、ダビデ王の後継者であるソロモン王の時代、2本の棒に載せられた聖櫃は新たに建立されたエルサレム神殿まで運ばれ、その中の至聖所に収蔵されました。聖櫃はモーゼの時代から常にイスラエルのリーダーと共にあり、ダビデ王の時代からは常に聖櫃が納められた神殿に隣接する王宮に国王は居住していたのです。いつの日も、聖櫃はイスラエルのリーダーと共にあり、聖櫃と王とは、切っても切れない深い関係がありました。それはイスラエル国家が南北に分裂した後も変わることなく、ソロモン王の時代以降も聖櫃は常に神殿に宝蔵され、王のそばに置かれていました。

それ故、エルサレム神殿が破壊されるということが予知された際、イザヤはその聖櫃を守るため、至聖所から聖櫃をとりだして移動することを目論み、国から脱出する計画を立てたのではないでしょうか。そしてダビデ王朝の存続を担う次世代の子孫をも一緒に旅することを決めたと考えられます。聖櫃が異邦人ら外敵によって踏みにじられるようなことがあってはならないからです。そしてヒゼキヤ王の時代以降、聖櫃の記述が聖書には見当たらなくなります。と同時にヒゼキヤ王に仕えていた預言者イザヤに関する記述もなくなります。つまりイザヤも聖櫃とともに歴史から姿を消してしまったのです。

ヒゼキヤ王の時代以降、神殿から聖櫃がなくなっていることは聖書の記述から察することができます。ヒゼキヤ王の子、マナセ王の時代では前代ヒゼキヤ王の時代とはうって変わり、神殿は荒廃しきっていました。神殿が荒らされ、その中にバアルの祭壇が築かれ、アシラの彫像も作られただけでなく、魔術が行われ、子供が焼かれて葬られるという悪事が横行したのです(列王記下21章[11])。そして孫のヨシヤ王の時代になり、はじめて荒れ果てた宮の補修が行われ、かろうじて「律法の書」が見つかったことが記録されています(同22章[12])。これらの記述から、ヒゼキヤ王の時代にエルサレム神殿から聖櫃が持ち出され、至聖所には神宝がなくなっていたことがわかります。聖櫃が無くなり、至聖所がもぬけの殻となってしまったことから、そこに人々が出入りし、淫行が行われてしまったのです。

天岩戸神社の御神幸祭
天岩戸神社の御神幸祭
聖櫃、契約の箱はどこに持ち運ばれてしまったのでしょうか。聖櫃の特徴は、まずそれが神の象徴となる聖なる箱であること、そして2本の棒に載せられていることが挙げられます。その聖櫃は金箔で塗られ、箱の上には2匹の金の鶏が向かい合わせに置かれていました。また、移動の際には大勢でその棒を担ぐだけでなく、時には歓喜の声をあげて神を祭り、称えることが常でした。これは正に、日本の神輿の原形と言えます。その類似点はあまりに多いだけでなく、世界をくまなく見渡しても、これほどまでに類似した宗教的行事を古代より執り行ってきた国は日本しかありません。

神輿の文化とは、古代より日本の文化に土着し、神を祀るためのお祭り行事として、誰もが親しんできたものです。これら類似点を振り返るならば、神輿のルーツは聖櫃にあったとほぼ断定できるだけでなく、それは、聖櫃が日本まで持ち込まれた可能性が極めて高いことを意味します。

もし、聖櫃がエルサレム神殿から船で運ばれて日本に持ち込まれたとするならば、ダビデ王朝の後継者らも、おそらく聖櫃と共に日本に渡来してきたことでしょう。何故なら、聖櫃の存在はダビデ王朝の証でもあり、聖櫃のそばにはいつも王の存在があったからです。日本の祭行事、神輿のルーツがもし、イスラエルの聖櫃、契約の箱にあったとするならば、古代、ダビデ王朝の子孫が聖櫃と一緒に日本へ渡来し、国家の創始に関わった可能性が見えてきます。それは皇族のルーツがダビデ王朝にあり、ユダ族であったことを意味します。
5. 系図が証する伊弉諾尊とイザヤの関係

日本にはイスラエルの文化との類似点が多くあることが古くから指摘されており、中でも系図の存在は重要です。日本の系図も古代まで遡るものがあり、断片的なものとしては日本書紀に記載されている伊弉諾尊に関する家系の記述が最古のひとつと考えられます。また、ギネス記録によると、およそ2500年あまりの歴史をもつ中国の「孔子家系図」が人類最長の家系図として認定されています。さらには6000年もの人類の歴史とイスラエルの人脈を網羅した家系の記述が聖書にも存在し、アダムとイブの時代から始まったとされる人類の子孫の流れが、こと細かに記録されています。これらの資料からも、皇室とダビデ王朝の関わりが見えてきます。

まず、聖書の記述に含まれる系図に注目してみました。キリスト教、イスラム教、そしてユダヤ教にとって、信仰の父として崇められているアブラハムの存在は大きく、いずれもアブラハムを族長として称え、その家系を最重要視しています。それ故、イエス・キリストの時代に至ってもアブラハムの系図に重きを置く姿勢は変わらず、新約聖書の「マタイによる福音書」ではイエス・キリストの系図を詳しく記すにあたり、アブラハムの名前が真っ先に登場します。福音書は、「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」[13]という言葉から始まっているとおりです。

時代を遡れば旧約聖書の創世記においても、系図の記述が随所にみられます。創世記第5章には「アダムの系図」[14]が記載され、アダム以降の子孫の流れが一目でわかるようになっています。そして洪水が生じ、ノアの時代に移り変わった以降も系図は重要視され、創世記第10章では、「ノアの子セム、ハム、ヤペテの系図」[15]をもって、人類の歴史が新たに始まったことが記されています。ノアの子孫の中からは、とりわけ「セムの系図」[16]に熱い視線が注がれました。何故なら、セム族の血統からアブラハムが生まれ、アブラハムの孫にあたるヤコブがイスラエル建国の父として12人の子供をもち、そこからイスラエルの12部族が派出したからです。こうしてイスラエルの家系では、先祖代々特に父系が重要視されながら、部族ごとに系図が大切に記録され続けてきたのです。

イスラエルにて系図が重要視されてきた理由は、神の選民としての血統を守るためでした。神が祝福された民族と家系を守り、人々が不信仰の道に誘惑されないよう他民族との混血さえも極力避けて、純粋な血統を維持することがイスラエル民族の証とされたのです。古代より、綿密な系図が部族ごとにすべて記録され、世代を通じて保管されてきたという事例は、世界を見渡してもイスラエル以外には殆ど存在しません。何故なら、文字の文化と教養だけでなく、その大切さを絶対視する宗教心と自国民族のプライド、民族の運命的な歴史観がなければ、何千年もの間、居住地を移動しながらも、家系の記録を温存することなど不可能だからです。だからこそ、南北のイスラエル国家が崩壊し、多くの民がアジア大陸を東方へと移動してイスラエル民族の大移動がおきた際も、イスラエル民族は離散した地域において、自国民の文化を大切にすることを忘れませんでした。イスラエルの英知と神の選民としてのプライド故に、自国民の系図が代々に渡り、大事に綴られ続けてきたのです。

かくして北イスラエル王国の民だけでなく、南ユダ王国の民も含むイスラエル民族は、国家の壊滅と同時にアジア大陸を東方へと移動し続け、多くは中国大陸まで到達したことでしょう。イスラエルの民が離散した軌跡と、それに伴うイスラエル系集落の存在は、今日、イスラエルの調査団アミシャーブによるリサーチにより、徐々に明らかにされています。詳細についてはイスラエル国立アリエル大学で教鞭をとり、国家のアドバイザリーとして活躍されたアビグドール・シャハン教授が執筆された「失われた十部族の足跡」[17]にまとめられています。

アジア大陸全般に古代イスラエルの文化の影響力が広まっていく最中、中国でも系図の重要性が再認識されたのではないでしょうか。その一例が、今日注目されている「孔子家系図」です。2500年もの歴史を遡る「孔子家系図」の原点となる孔子の存在は、イスラエルの民がアジア大陸を中国に向けて移動した直後の時代と重なります。当時、孔子を含む中国の知識者が、どの程度イスラエルを含む西アジア文化の影響を受けていたかは定かではありません。また、孔子自身が優れた教養と知識、文才に富んでいただけに、もしかするとユダヤ、イスラエル系の出自に関わる血統の持ち主であったかもしれません。いずれにしても、中国大陸ではイスラエルからの渡来者が急増した直後、「孔子家系図」が記録され、歴史にその名を残すまでになりました。「孔子家系図」の背景にはイスラエルが重要視する系図の文化が潜んでいるかもしれず、中国大陸の文化も西アジアからの英知に支えられ、彩られていた可能性があります。

孔子が生まれる1世紀ほど前、島々からなる日本の地において皇歴がスタートします。諸説はあるものの、日本書紀の記述に基づき、初代神武天皇の即位による天皇家の始まりを起源前660年頃とするならば、それは北イスラエル王国が滅びてから60年あまり経った時であり、南ユダ王国においてはヒゼキヤ王が崩御した後、国家が滅び始めた頃と一致します。それ故、もしヒゼキヤ王の末期にイザヤの一行がイスラエルの地を脱出し、日本列島に渡来した後、王系一族の子孫が成長し、日本の初代天皇として即位したと想定するならば、歴史の流れが見事につながります。

日本においても天皇の血統は代々、最重要視され、その系図は詳細まで日本書紀や古事記などの史書に記録されてきました。日本の建国史においても当初から系図が重要視され、記録されていることは注目に値します。それは系図を重要視する大陸の文化が背景にあることの証と考えられ、イスラエルの英知と文才の結晶とも言えます。これらの系図から、伊弉諾尊の生い立ちと皇族のルーツの謎を紐解くことができます。

神世七代の系図
神世七代の系図
国生みの父、伊弉諾尊はイスラエルの南ユダ王国から渡来した生粋のユダヤ人であり、預言者イザヤ当人だったことは、日本書紀に記されている伊弉諾尊の系図から理解することができます。伊弉諾尊に関わる日本書紀の系図によると、国生みに携わった伊弉諾尊は神世7代にあたり、その父となる神世6代は面足尊です[18]。この親子の系図こそ、伊弉諾尊がイザヤであったことを裏付ける資料と考えられます。まず、伊弉諾尊の「イザナ」は、その発音が「イザヤ」に近く、「ナギ」はヘブライ語で「君主」とも解釈できることから、「イザナギ」の意味はヘブライ語で「君主イザヤ」となり、伊弉諾とイザヤが同一人物であった可能性が見えてきます。それを裏付ける系図が、父親の名前です。聖書には、預言者イザヤが「アモツの子」であると記されています[19]。対する日本書記には、伊弉諾尊の父は、面足尊(オモツ)と記載されています。その名はイザヤの父「アモツ」に発音が酷似していることから父親は同一人物のことを示していると考えられます。よって、伊弉諾尊は預言者イザヤと考えられます。

もし、イスラエルの王系一族であるイザヤが今から2600年以上も前、日本に渡来したことが事実ならば、日本書紀や古事記が何の根拠もなく創作された物語とは言えなくなります。記紀の内容はあくまで史実に基づき、それらを編纂しながら古代の渡来者を神話化しつつ、丁寧に書き記した歴史書として蘇ってくるのです。日本列島への船旅はあまりに遠く、台湾から八重山諸島を越え、特に石垣島から北方へ向かう航路は全く海の先が見えないことから、よほどの信仰と死をも覚悟する強い思いがなければ誰も旅立つことができない程、未知の世界だったのです。しかしながら、その船団のリーダーは、「海の島々」、太陽が昇る「東の島々」で神を崇めよ、という預言を書き留めたイザヤであったとするならば、神から守られているという絶対の信仰により、いかなる危険な船旅をも承知のうえで進み続けたことでしょう。その勇気と信仰があったからこそ、一同は淡路島まで到達し、国生みが始まったのではないでしょうか。古代の系図から伊弉諾尊とイザヤが同一人物である可能性に気が付くだけで、歴史の見方が一変します。
6.伊弉諾尊とイザヤの子孫の共通点

面足尊の子、伊弉諾尊が、アモツの子、イザヤと同一人物であったと仮定するならば、スサノオ、アマテラスの父親も、イスラエルから渡来した預言者イザヤであったことになります。イザヤ自身もダビデ王朝の王系一族であることから、スサノオやアマテラスはダビデ王朝生粋の後継者として日本の建国に携わったことになり、歴史の解釈が一変します。旧約聖書にはイザヤの子供についての記述もあることから、その内容を伊弉諾尊の子、スサノオのものと比較検証してみました。

旧約聖書によると、イザヤは預言者の女性と結ばれ、神から祝福された男の子が生まれます[20]。イザヤは伊弉諾尊だったとするならば、預言者の女性とは、伊弉冉尊ということになります。そしてイザヤに生まれた男の子には、国家が崩壊することを予見する「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」、「分捕りは早く、略奪は速やかにくる」[21]という意味をもつ名前が付けられました。赤子が成長する前に北イスラエル王国が崩壊するという預言により、速やかに略奪がおきて国が滅びる事態が間近に迫っていることをイザヤは思い知らされるのです。

ところが「分捕り」と「略奪」を象徴する男の子の名前が与えられたイザヤは、同時に、その子が世の光、救世主となることを知ります。「ひとりのみどりごがわたしたちの為に生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し平和は絶えることがない」[22]、と旧約聖書のイザヤ書に記載されています。すなわち、北イスラエル王国が崩壊するトリガーとなる男の子が、実は国家の救い主になる、という預言がイザヤに与えられたのです。これは伊弉諾尊の子であるスサノオの若き日の乱暴なイメージに結び付くだけでなく、その後、国土を守るために国家の救い主として重要な働きをなしたことからしても、その男の子、すなわちイザヤの子と、スサノオは同一人物であった可能性があります。

伊弉諾尊の子スサノオは、日本書紀では素戔嗚尊、古事記では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)と記載されています。特に後者にあてられた漢字の意味は、イザヤの子の名前の意味と共通点あるように見えます。「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」という子供の名はヘブライ語で「分捕りは早く、略奪は速やかにくる」であることから、その名前の意味に6つの漢字をあてるべく、古事記では名前の字が選別されたのではないでしょうか。そこには、国家の立て直しを早急に進めていくという思いが込められているようです。建速須佐之男(スサノオ)の「速」はそれを素早く実行、「須」はひたすら求め、「佐」は助け合う、そして「之」はイスラエルの軌跡、足跡を辿り進み、「男」君主として君臨する、という意味にとれます。「建」は国家の立て直し、

ユダヤ王朝の系図や記紀の記述から、様々な共通点を見出し、歴史の流れを見つめなおすと、ふと、イスラエルと古代日本の歴史が不思議とオーバーラップしていることがわかります。それは古代、多くのイスラエル系渡来者が日本に移住してきたことを示唆しているだけでなく、ダビデ王朝が日本皇室の歴史に引き継がれていた可能性を意味するのかもしれません。日本列島という大陸より離れた島国において古代、突如として知識と教養にあふれる民族、天孫降臨とも言われる王系一族により、国家の統治が始まったことは、もはや神話ではなく、アジア大陸史にそった現実の出来事だったようです。日本書紀に記載されている神代の系図と、聖書の歴史書や預言書に記載されている人脈の共通点に着眼するならば、そこにダビデ王朝が奇跡的に日本列島にて継承された可能性を見出すことができます。
7.ユダ族の家紋である獅子

ダビデ王の子、ソロモン王が建造したエルサレム神殿は、人類の歴史において最も荘厳な建立物であったに違いありません。今日では、神殿が破壊された後の城壁など、その一部しか見ることはできませんが、建物の詳細設計については旧約聖書に細かく記されています。注目はソロモン王が座する場所の様相です。列王記上によると、王座は金で覆われた象牙で作られ、「座席の両側には肘掛けがあり、その脇に二頭の獅子が立っていた」[23]のです。また、王座には6つの段があり、その「左右にも12頭の獅子が立っていた」[24]ことが記録されています。

ソロモン王が後継者となったダビデ王朝にとって、獅子の存在は重要でした。何故なら獅子はイスラエル12部族のひとつ、ユダ族の象徴であり、ダビデ王、ソロモン王はユダ族の出自だったからです。イスラエルの父となるヤコブの時代、それぞれの部族の使命、宿命についてヤコブが語ったことが創世記の最後に記載されています。そしてユダ族については、「ユダは獅子の子」[25]と明記され、かつ「王笏はユダから離れず統治の杖は足の間から離れない」[26]という将来についての使命が告げられたのです。これは、イスラエル国家の王がユダ族から生まれ、その王権は、とこしえまで続くことを意味します。それ故、ソロモン王の時代、神殿の王座にはユダ族の象徴となる獅子像が、その左右に飾られたのです。

今日、神社の参道やご拝殿の両わきに必ずと言ってよいほど建てられている一対の狛犬につては諸説があります。神社庁による解説では、「狛犬は高麗犬の意味で、獅子とともに一対になって置かれている」という説が取りあげられ、その起源は「渡来の信仰に基づくもの」[27]としています。また、ごく一般的には飛鳥時代から奈良時代にかけて、朝鮮半島を経由して大陸より持ち込まれたものであり、獅子の像が犬の姿に似ていることから高麗犬、または魔除けを意味する拒魔(コマ)の犬として、「狛犬」と呼ばれるようになったと考えらえています。そして狛犬は、「平安時代では皇居の建物の中で、扉や簾、敷物を押える道具の一つとして置かれていた」ものが、いつしか神社にも置かれ、神聖な境内を守る役割を担うようになったと、神道の権威である国学院大学の藤本教授は説明しています。[28]

明治神宮のホームページにも、狛犬の起源について丁寧な説明が見られます。狛犬の起源は古代オリエント・インドに遡り、獅子の像が「はるばるシルクロードを通って日本まで伝わってきた」[29]としています。「古代オリエント諸国では聖なるもの、神や王位の守護獣として百獣の王ライオンを用いる流行」があったことから、そこから派生してエジプトのピラミッドが作られ、その後、西欧の王室のマークになり、日本には前述のとおり中国から持ち込まれることになったと解説しています。また、古代インドでも仏陀の両脇には獅子の像が置かれることがあることから、それも狛犬のルーツではないかと想定されています。

ピラミッドのルーツと、神域を守るとされる古代オリエントの獅子が結び付くかどうかは定かではありません。確かなことは、狛犬の原形は大陸に由来する獅子であるということです。その獅子の大陸ルーツを辿るならば、古代オリエントの一角を担うイスラエルにおいて前21世紀頃、ヤコブの子であるユダ族のシンボルが獅子と示されたことが関連している可能性が高いと考えられます。何故なら、ユダ族の出であるソロモン王が建立したエルサレム神殿内には獅子像が置かれたことにより、ダビデ王朝とユダ族の関係が暗黙のうちに示されたからです。その後もし、ソロモン王の子孫であるダビデ王朝の末裔がイザヤと共に日本に渡来したとするならば、国家の創始に関わる神々を神社にて祀った際に、ユダ族の象徴となる獅子像を参道沿いに安置するのは当然のことではないでしょうか。

4万社以上ある八幡様の総本宮となる宇佐神宮
4万社以上ある八幡様の総本宮となる宇佐神宮
その獅子像、狛犬の安置を積極的に行ったのが、大陸系のユダヤ一族と考えられます。前1世紀前後、大陸の動乱を機に大勢の渡来者が朝鮮半島を経由して日本に渡来してきました。その中には優れた知識と才能にあふれた秦氏も存在しました。秦氏が全国に八幡神社を建立し、それら神社の拝殿に向かう参道脇にはいつしか、獅子像が建てられるようになったのです。八幡神社こそ名前が示すとおり、南ユダ王国のユダ族がそれら神社の建立に関わっていた証であったと考えられます。

ヘブライ語でユダ族はיהודה(yehuda)イェフダ、ヤフダと言い、ユダ族の血統を継ぐユダヤ人はיהודי(yehudi)、イェフディー、ヤフディー、と言います。日本語の「ヤワタ」は「ヤフダ」の発音と酷似していることからヘブライ語が訛ったものであり、元来、同一の言葉であったと考えられます。よって、ユダ族を意味する「ヤフダ」が八幡神社の「八幡」の語源であるとするならば、八幡神社のルーツにユダ族が関わっていたことになり、しいては国生みに関わった建国の父、神々がユダ族の出自であることになります。それ故、狛犬のルーツは古代イスラエルまで遡る、可能性が高いのです。

狛犬のルーツ、そして神道のルーツにイスラエルのダビデ王朝が絡んでいるとするならば、神道において祀られる天皇家の祖先は正に、イスラエルのユダ族であったことを意味することになります。狛犬の存在からも、天皇家のルーツがユダ族と結びついている可能性を見出すことができます。
8.最も繊細な文化を誇るイスラエルのユダ族

世界中のどこを見渡しても日本以上に繊細で巧み、かつこだわりの文化をもっている国は他にないと、多くの日本人は考えるのではないでしょうか。メソポタミアや古代エジプト文明が発展した地域からは遠く離れた海に浮かぶ島国でありながら、不思議と古代から優れた文化が日本列島では培われてきました。その最たる理由は、日本がシルクロードの最終地点であり、長い人類の歴史の中で多くの渡来者がアジア大陸から優れた大陸の文明を携えて日本列島まで旅してきたからに他なりません。海を渡ってまで東方に旅することが困難であった古代、何らかの政治力や高度な目的意識、経済力、宗教的価値観がなければ、船旅を実行することができなかったはずです。それ故、日本列島まで到達することができた古代の渡来者は一応に有力者であり、知識層の人々が大半を占めていたと想定されます。それらアジア大陸からの渡来者の貢献により、日本では古代から大陸の高度な文明と教養をベースにした、独特のきめ細かな列島文化が発展したと考えられます。

大陸からの渡来者の中でも、日本の歴史に最も大きな影響を与えたのが、西アジアのイスラエルから移住してきた人達です。紀元前8世紀から7世紀にかけて、北イスラエル王国が滅び、その後、南ユダ王国も破滅した後、多くのイスラエルの民は国を後にして東方へ向かいました。その中には、日本列島まで到達した人々も少なくありませんでした。そのイスラエルからの渡来者が建国の祖として国生みに携わったと考えられます。その旅団を構成し、最初に日本を訪れたのが預言者イザヤに導かれたユダ部族の一行であったと仮定するならば、島国でありながら繊細かつこだわりの文化が芽生えたルーツが見えてきます。

イスラエルの民は神から選ばれた選民として素晴らしい才能と知恵に富み、その12部族全てが優秀な民族であったと考えられます。中でもユダ族は卓越した存在であり、特に工芸や芸術においては抜きんでた存在でした。時代を遡るモーセの時代では、神の命により、幕屋と呼ばれる移動式テントや契約の箱と呼ばれる聖櫃、それに伴う様々な祭具を早急に作る必要があり、ユダ族の工芸人が神より名指しで呼ばれてその責務が与えられたのです。神がモーセに語ったことは明確でした。「見よ、わたしはユダ族のフルの孫、ウリの子ベツアルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての工芸をさせる」[30]この命令の結果、ユダ族が工芸を極める職人として特定されたのです。

制作すべき工芸品の詳細については旧約青書に書かれているとおり、内容は大変細かく指定され、すべて命じられたとおりに作りあげなければなりませんでした。そして幕屋や箱、燭台を含む祭具をはじめ、祭司が着る衣服までもすべて、決められた内容で作る必要がありました。そのためにユダ族の一員が職人として選ばれたのは、イスラエルの民の中でも、最も優れた工芸の才能に富む人であったからに他なりません。その後も職人業を磨き続けたユダ族の人々は、工芸や美術、織物など、美的感覚に関わることにおいては抜きんでた才能を発揮し、12部族の中でも一目置かれるようになりました。

国生みに携わったイスラエルの初代渡来者は、ダビデ王朝を継承することを目指した旅団であったことから、そのメンバーの中心はユダ族であったと想定されます。つまり、日本の国家は有史の始まりから、イスラエルの中でも最も巧みな工芸の業に富むユダ族の末裔により、列島固有の文化が培われていく土台ができあがっていったのです。そして日本の文化圏では至る所で古代より、聖なるものを心込めて作りあげるというユダ族の伝統が息吹き、その職人技は後世まで引き継がれてきました。こうして世界屈指の繊細さと優れた技巧を誇るこだわりの文化が日本で育まれてきたのです。

その優れた伝統工芸や製造技術などの高度な文化を携えた人々が西アジアより日本にまで渡来して国生みが行われた結果、日本列島の至る場所で人々が居住するようになり、そこに新たなる文化が開花し、培われていくことになります。日本の文化が今日、世界でも類をみない繊細さを誇り、あらゆることにこだわる職人気質が当たり前のこととして褒美され、世界最高峰の工芸品や陶器などが作られることを可能にした理由は、日本人の中に美学を愛するユダ族の血が流れているからに他なりません。それはイスラエルから渡来した初代のメンバーの多くがユダ族の出自であったことを意味するのではないでしょうか。そのユダ族こそダビデ王朝の血統を継ぐ人々であり、日本の皇室のルーツにもつながるのではないでしょうか。よって天皇家の祖先はイスラエルのユダ族である可能性を日本特有のきめ細かな文化からも推察することができます。

ユダ族の貢献は工芸品や芸術の文化だけに限りませんでした。ダビデ王の時代においては、王自身が楽器を演奏し、歌い、踊ることを得意としていたことがわかります。特に神を称える場面では、ダビデ王は一目もくれず大声で歌い叫び、踊り、時には竪琴も演奏しました。そのような信仰と音楽、踊りの融合がいつしか日本では祭の文化にとって代わりました。日本の祭りは多種多用であり、そこで担ぐ神輿をはじめ、様々な宗教儀式を伴い、きめ細かな伝統的しきたりが多数行われます。そのような繊細な祭事や儀式の背景にも、神を祀ることを最優先したユダ族の代表であるダビデの存在が際立ちます。そのルーツが日本にまで継承されたからこそ、今日でも日本は、世界で最も繊細な文化を有する国として、だれもがその恩恵を受けているのです。