二冊の本

時を同じにして二冊の本との出会いがありました。
一冊目は、はがき道の坂田道信さんからのご紹介でした。
「若き友への人生論」 森 信三著 
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森信三先生が若い方へ、人生の生き方の指針を
わかりやすく表しています。
そのご本の中の「死と永生について」の一文、
「われわれの生命は、この肉体の死後といえども、その個別性を
失わぬと見るか否かの別であって、この点については、ひとり宗派によって
異なるのみならず、・・・・・・・・・かくしてこの最終の一点に関しては、
われわれは軽々しくこれをあげつらうことをひかえるべきであろうが・・・・」
について箇条書きを友人にお見せした後、受けた質問の
回答をもって、この本の解説とさせていただきます。
そのところは、生前や死後に、現実にある時と
同じように、個別性はあるかどうかの、森信三さんの
見解を述べています。
それで結論的に森さんは、個別性については
軽々しく論ずることでなく、そうだけれども
各個人としては、しっかりとした確固たる地点、
ようするにこうだという結論を求めなさいと言って見えるのです。
個人的な今までの体験や経験に照らしますと、
各個人は一人ひとりそれぞれが指紋とおなじように、まったく異なる
個性をもってこの現実世界に現れます。
そして何故まったく異なる個性かがわかりません。
ただ個性というものが、人間として欠けている事ということでしたら、
この現実世界で肉体を持って生かされる意味がわかります。
その個性(自我)の解消と言えるのかもわかりません。
すなわち個性があると言うことは、生まれる前も、そして普通は
永久の生命と言われるのですが、肉体を脱いだあとも
個別性はあるといえるのでしょうか。
個別性はあっても一人ひとりの「生命」はひとつです。
たった一つの生命を生かされながら、すなわち本源と繋がりながら
個別性を生きるのが人間と言えるのでしょうか。
例外とされそうな、生まれてすぐに肉体をぬぐ幼い子供などは
それではどうなのだと言われそうですが、その場合はそのような
幼い子供の肉体の死が影響を与える周りの親や縁者の
考え方によるといえます。
どのように生かされるのかをつかむのは、いつも自分でしょうか。
どんなことをつかんでも自由に任されています。
松はプラス、梅はマイナス、そして竹は0です。
宇宙はいつも0に定まっています。
他の一冊は この伊路波村の「伊路波」を指文字でくださった
ペンネーム日之出秀夫さんの「ずっと気がつかないお蔭様があるごめんなさい」
という100ページの詩文です。
<作品への思い>
生きることに迷い、悩み、先が見えなくなったときにふと
立ち止まって目を向けたい、明日を生きる希望となって、
背中をそっと押すような言葉になればと思います。
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生きている意味を求めて、そしてこの世界の存在の意味を求め、
探求の人生を歩む著者が紆余曲折の人生を、いのちの響きに
忠実に霊と肉の調和を目指すことになったようです。
深い言葉群が、深い気づきを与えることでしょう。
89ページです。
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肉体とのお別れがとても多い近年ですが、ことに家族や
親しかった友人とのお別れは悲しいと言うよりは、わかっていても
別れていかなくてはならない無常を感じます。
3月2日、肉体の飯島さんとの別れがありました。
縁者の方に案内され、一群の人々は古民家のままの
かやぶきの母屋の一室に横たわる飯島さんにお別れを
しに向かいました。
玄関の広い土間で靴を脱ぎながら、もういのちの響きを
感じてそれへの応答を止めることができない嗚咽を
もらしていました。
順番が来て、まだ生きているかのような真っ黒い髪を
なぜながら、ありがとうと飯島さんに叫んでしまいました。
以前、「ありがとう」の言葉に「結局はそれだけだね。」と
言って見えた飯島さんが応答してました。
別れ際に一言だけ伝えたい言葉がある。
人は、「ありがとう」を伝える出逢いを求めて、
生まれて来たのかもしれない。
重い言葉と感じさせました。
4月からアマゾンで上梓予定のようです。
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