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奥の院・ディープステートが今盛んに火を付けて、その火を大火にもっていこうと煽っているウクライナに、以前、史上最大の殺人鬼が生まれた。およそ100年前の話であるが、彼はユダヤ人で、その名をラザール・カガノビッチという。
彼は間接的なものも含めれば、2000万人のロシア人を殺害した。個人的にも、少なくとも36000人の処刑命令に署名している。来る日も来る日も、ロシア人を殺した。ウクライナに生まれたユダヤ人であるが、ウクライナ人も200万人殺害している。
彼は常にスターリンに寄り添った。スターリンも彼を側近として使い、あらゆる権限を与えた。
1922年、スターリンはソ連共産党書記長に就任したが、その時、彼はユダヤ人のカガノビッチを移動させ、共産党の書記局、組織局の長に就け、1924年には、党の中央委員会のメンバーとなり、1925年から28年までウクライナの第一書記を務めた。
1930年にはソヴィエト政治局のメンバーとなり、モスクワ市政府の第一書記となった。1935年までこの地位にあり、モスクワ省政府第一書記も務めた。ソ連共産党内でトントン拍子に出世した。どんなに残忍なことをしても、全てスターリンのせいにできた。
彼はその間、スターリンの経済政策の多くを実行し、監督もした。その政策の中に農業の集団化があり、これを徹底的に実施した。農民は土地を取り上げられ、農産物は徹底的に徴発され、遂にウクライナで大飢饉が発生した。道ばたに餓死者が転がっている状況になっても放置した。この時の死者は200万人を超えた。
1932年から33年にかけて、ホロモドールとして知られる大飢饉を引き起こし、200万人から300万人の死者を出した。平和時としては史上最大の惨事であった。
この期間中、カガノビッチは自分自身で穀物の徴発を監督した。同様の政策が中央アジアのカザフスタン、クバン地方、クリミア、ボルガ低地帯その他のソ連邦各地で実施された。そしてソ連邦各地での惨害が発生し大量死となった。
1957年、非ユダヤ人のニキータ・フルシチョフが党中央大会において、カガノビッチは任期中ロシア人2000万人を殺害したと糺弾した。それに対して彼はその事を否定しなかった。事実であったことを暗に認めている。しかし、ここで彼はフルシチョフに「あんたの手も血に染まっている」と反論している。
ここでフルシチョフは「それは違う、私はあんたの命令に従っただけだ。カガノビッチが大量殺人計画を立案し、その実行を命令したのだ」と反論している。因みに、この両者ともに、ウクライナ出身である。一方はユダヤ人(アシュケナジー)、他方は非ユダヤ人である。
1953年3月、スターリンが死去すると、カガノビッチは共産党を追放され、後ろ盾を失ってモスクワでの年金生活を送り、1991年のソ連崩壊直前に自然死している。さすが、奥の院・ディープステートから課された役目を果たした功績であろうか、最後まで安穏な生活を送り、天寿を全うしている。
通常は、人を殺めたら殺人罪で処罰される。多くを殺したら死刑である。ところがその数が膨大であれば処罰されない。大量殺人は、多くの場合、奥の院・ディープステートの命令なり指示でなされるからである。そうでない場合は、きっちり処刑される。その上に、汚名が永久に残される。例えば、東京裁判での、いわゆるA級戦犯として処刑された人たちである。ただ、この場合、日本人もこれに呼応して、彼らをあしざまに言って悦に入っているのは実に悲しいことである。
また、その殺した数がもっと多くなると、逆に英雄扱いとなる。隣にいた毛沢東がそのいい例であろう。カガノビッチの場合、悪かったのはスターリンとされた。カガノビッチ本人はそっとスターリンの陰で、非難されないで無事であった。そして彼の名は歴史から消された。今起きているウクライナ紛争でも、彼の名前は出てこない。
ただ、後になって2010年1月13日、キエフ上訴裁判所は、死後裁判であるが、カガノビッチがホロドモール飢餓期間において、ウクライナ人に対するジェノサイドを引き起こした犯罪者であったと有罪判決を下している。しかし、メディアはこれを完全に無視した。奥の院・ディープステートには悪人はいないと言うことなのであろう。