作日自宅に広島県尾道市在住の友人
M女史から「尾道しまなみ新聞」が
送られてまいりました。3000部発行の
無料の新聞で有志の発行によります。
2023年4月発行の第20号は同じ尾道市に
住まいする川原作太郎さまの特集です。
偉人森信三先生の三賢弟のうちのお一人です。
後のお二方は亡き寺田一清先生そして先日
他界された坂田道信先生です。
ご健在は川原作太郎さまのみとなりました。
若き日の坂田先生が敬愛する森信三先生に
始めて会いに広島向原から宝塚へと50CCの
バイクで走り、先生の家を捜しあて、ガラリと戸を
引いて家の中へとお声をかけますと、
森先生が現れてたまたま中にみえた寺田様、
川原様を共に呼び、
「ここにもいたよ。。」とつぶやかれたとか。
時は流れ、愛知県阿久比町にあった森先生の
お墓を名古屋市緑区に移動されたのは坂田先生に
よりました。
そのお墓開きの日、ご縁ある方々が全国から
「ナゴヤキャッスル」に集い、自然食のランチを
共にさせていただきました。
坂田先生の司会によって挨拶を促された
川原様は短い挨拶をされました。
森信三先生の述懐です。
「森信三先生にお会いした時に、先生は
よくおっしゃいました。
経営者とは孤独なものだよ。・・・」
短いご挨拶のこの一言で、恥ずかしながら
眼から涙が伝っていました。
集いが終わり名古屋駅へのお見送りに
坂田先生、川原様が同乗くださいました。
車中川原様は坂田先生へお言葉をかけられます。
「坂田さん! 寺田さんは森先生の本をたくさん
世の中に出された。坂田さんははがき道の実践で
先生に報いている。わしゃ何にもやっとらん。。」
坂田先生は答えました、
「何を言う、あんたはあんたでええ。
あんたは立派に生きとる!」
坂田先生のやさしさが運転席にも伝わりました。
今回の新聞の特集の主である川原様は、
お父上の家業である漁業を引き継がれたあと、
一般の会社に勤め、今は詩人として、詩集や
歴史書などを出版されています。
他界された坂田先生のお話
「川原さんは漁師やってから、陸に上がって
普通の会社に入ったんじゃ。
その会社員の頃、毎朝3時に会社に行って、会社の
周りを掃除するんじゃ、その範囲がだんだん
広がっていった。
それから家に帰って、何にも言わんでまた会社に
来ることを会社に居るうちには誰にも知られずに
やった人なんじゃ。」
陰徳実践の鏡のような方が川原様でした。
新聞から二つの詩をご紹介させていただきます。
川原様 ありがとうございます。
そしてM様に感謝申し上げます。
ただひとつ
運命が良いとか悪いとか言うけれど
与えられたものであるならば
どんなにつらく悲しいことであったとしても
受け入れてゆくしかない
すべての生命は
あらゆる苦に耐えているのだ
自分が一番いいところを受け持って
どうするぞ
いいところは人に譲り
つらく苦しく悲しくて
弱いところ小さいところを 受け持つのだ
運命より大事なものが
この世にはきっとあるはずだ
いつの時代でも揺るがぬものを
ただ一つのものを求めて
生きてゆくのだ
昔も今も偉人と言われた人たちは
与えられた運命から逃げず
苦しい試練の中を生き抜いた
人には
それぞれ役割があり
すべてが大事で
すべてが必要なのだ
ただ一つの役割を
果たして
ただ一度の生を
終わりたい
芙美子 帰っておいでよ
書くもの 書くもの全く売れず
貧しさのどん底で 死ぬに死なれず
生きていれば 腹は減る
もう二日なんにも食べてはいない
階下の住人が 銭湯に行っている間に
下へ 降りて 味噌汁を盗んで啜る
ああ ついに ここまで落ちたか
涙がポロポロ ポロポロこぼれる
いつかは米屋で 糠をもらって来て
お湯をかけて 食べたこともあった
ただ 一度でいいから
焼いたパンに ジャムを付けて
腹いっぱい 食べてみたい
ああ カネが欲しい カネが欲しい
カネさえ あれば
家賃も払える めしも食える
東京は 冷たい雨が降っている
寒い風も 吹いている
旅のふるさと 尾道へ帰ろう
女学生時代を過ごした あの町へ
赤い帆柱の 船が見えた
潮の香のする あの町へ
芙美子 帰っておいでよ
潮の香のする この町へ
少女の月日を過ごした
この町へ
芙美子は銅像になって、
今では尾道の旧住居近くに帰っている。
そして坂田先生!!
ご縁をありがとうございました!!