和顔と愛語
「われわれ人間は、いやしくもこの地上に不幸の人が存在する以上、自分の幸福に対して、どこか相すまぬという気持ちを忘れこと」だと思うのである。同時にかくは考えても、この地上の人類のすべてを一人残らず幸福にするということは、現実としては到底実現不可能という外ないであろう。
それ故われわれとしては、そうした思いは心中深く抱きながらも、その日常の実践としては、日々自分が直接に接する人々に対して、自己に可能な範囲において、親切を尽くすという外ないであろう、即ちその想念においては、地上に一人でも不幸な人間のある限り、われわれは自己の幸福感に浸りきることは許されぬといわねばならぬが、しかもこうした願いを心中深く抱きつつも、他面その日常の実践としては、日々自分が直接に接する範囲の人々に対してはその可能な範囲において、親切を尽くすべきであろう。
そしてその親切というには、さし当たっては古人もいったように、まず「和顔と愛語」から始めるのが良いであろう。実際この「和顔と愛語」とは、一文の資金をも要しないにも拘わらず、われわれ人間社会生活をいかに明るくするかは人々の予想以上に広大な力をもつというべきであろう。
かくして以上の帰結は、おそらくはかのキリストが「汝の隣人を愛せよ」といった真理の現代における領受といいうるかとも思うのである。即ちわたくしには、キリストが「汝ら広く人類を愛せよ」といわないで、その日々接触する「汝の隣人を愛せよ」といわれた処に、真に心から頭の下る思いがするのである。