光文書 (ヒカリモンジョ) Vol.800+30+101 後鳥羽上皇

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光文書
(ヒカリモンジョ)

Vol.800+30+101
後鳥羽上皇
この二千二十四年の九月八日に、日本刀の中に封じられていた、後鳥羽上皇が解放されるという事象が、多くの参加者のいたセミナーの会場で、生じ、多くの会員の方が、その刀の持つ波動情報を共有することになったので、今回は、その報告です。
日本史において、後鳥羽上皇というのは、西暦千百八十四年に天皇に即位したとされています。しかし、時は、源平合戦の世で、京を逃れた安徳天皇が、三種の神器を持ったまま、平氏の軍と共におられたのです。

安徳天皇が、三種の神器と共に、壇ノ浦の海に入水されたのは西暦の千百八十五年の四月二十五日とされています。後鳥羽上皇は、三種の神器を持たぬ天皇だったのです。
三種の神器のうちの「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)と「八咫鏡」(やたのかがみ)は、後に源氏方によって回収されたとされていますが、「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)は、今も海の底です。
このことが、後鳥羽上皇を、日本刀に対する異常ともいえる情熱を向ける人物にしたとも考えられますが、後に御番鍛冶(ごばんかじ)制を設け、全国から「水無瀬宮」(みなせぐう)に呼び、一ヶ月交代で、刀を打たせたといいます。
ここで作られた日本刀が、「菊作」(きくさく)、「菊御作」(きくごさく)といわれて、ごく少数が現代まで、伝えられています。
後鳥羽上皇が出なければ、日本刀が、これほどまでの美術品としての価値を日本中に認められることもなかったといっても過言ではないのです。

さて、その後鳥羽上皇のたましいが、私のもとに来るために乗っていた太刀なのですが、銘は貞綱であったということだけ記しておきます。
日本刀は武士のたましいといわれてきましたが、天皇のたましいを宿した日本刀もあったという話です。
今回の報告の本題は、後鳥羽上皇が、その後、承久の乱を起こし、隠岐島へ流された後、その地で崩御されますが、そのたましいは怨霊、または祟り神としてある時期、活動し、その後、剣神界の神によって、その貞綱の太刀に封じられていたという情報の重大性についてです。
日本の天皇は、アマテラス天皇として続いてきたと多くの日本人が思い込んでいるかも知れませんが、少なくとも、後鳥羽上皇のたましいは、剣神界、たぶんタケミカヅチのワケミタマであったという情報が、ここに隠されています。
この日本の秘密を隠す場所としての隠岐島という場所が、もともと、出雲族の勢力圏であったということ、日本刀の主原料の玉鋼の産地も、中国地方という出雲族のエリアだということも、この歴史の秘密にリンクしています。
ここにも、日本の秘密が隠されていて、鉄という金属を生み出すのが、この物質宇宙の目的のひとつという知識と重なることで、金属にも精神的波動が宿るということを、人間界に知らせるタイミングが、いま、この時である理由も見えてくるのです。
今回、後鳥羽上皇のデータが表に出たことで、源平の時代から、元寇の時代への日本史の背後にあった、平安京の貴族文化から鎌倉幕府への権力の移転の秘密も開示されはじめるのかもしれません。
いうまでもありませんが、後鳥羽上皇は日本刀だけでなく、和歌においても多大な貢献をされた方で、文武両道を極めた帝として、ある意味、シンボル的な存在だったのです。それでも、武家の時代のはじまりという時代のエネルギーに流され、朝廷の権力が衰退することを阻止することはできず、この流れは、その後の日本の歴史の流れを決定付けることになります。
それが終わったのが、明治維新というものだったのですが、それは千九百四十五年八月十五日の対米敗戦への道でした。その後、長く続いたアメリカの属州としての日本の時代が、来る二千二十五年の八月十五日に終わることになっています。この時代の転換期に合わせて、剣神界が保持してきた後鳥羽上皇のたましいが、復活されて、どのような役割を担うのかは、まだ、分りませんが、そこには、日本の来るべきリーダーの資質として、文武両道に秀でたものという意味が込められているはずです。日本の近未来には、武に対する備えが求められています。
神紀四年(二千二十四年)九月十二日 積哲夫 記