この道へ 1 始まり

ときどき話が前後することや、「ある道のり」と
重複することは承知していただいて、
この書付を残させていただこうと思います。

ご縁の人たちにお会いしたとき、たまに訊かれる。
「この道にはどんなきっかけでですか。?」

「どんなきっかけ。?」

「お話するとなると長いので、
それはあなたとお会いしたと同じ位に不思議なことからです。」
って答えただろうか。

頭の中を整理して、今から先はしゃべれないけれど、
そして過去の一点から話始めて、時々はそこから過去になったり
未来になったりはするだろうけれど(一般的に)、
すこしずつこの伊路波村の景気付けにでも
なればとしゃべり続けることにさせていただく。

第一回は「この道へ」
現在71歳、土木学科をでて民間のT建設に就職。
最初の任地は富山県の小杉工区工事。
高速道路工事だった。

そこを2年で終了後、同じ富山の高岡市の県道工事や、
新潟県との境にある市振という町の県道工事の
いずれも清算業務にタッチした。
その間に結婚。

そして新しい任地である栃木県の宇都宮市に向かう。
工事は日光宇都宮高速道路工事。
石那田という小さな町での工事区間だった。

宇都宮で長女が生まれた。
たくさんのことが学生時代、その前、その後を通じてあった。
ひとつひとつを語れば、だれの人生でもそうであるように
膨大な語り言葉が必要だ。(ある道のりで)

でも今は「この道へ」のワケを整理して言葉にするとき。
いろんなことは今となってはすべて用意されていたこととしか言えない。
ちょっと回り道かもしれないけれど、、
以前のテレビ番組「オーラの泉」の特集で、ジャズシンガーの
綾戸ちえさんが言っていたことに同じ感じ。

「大変な想いでアメリカから戻ってきて、
いろんなことがあったけど、みんなみんなあったから
ここにいれるんや。そやからみんな必要だったってことや。
そう思うたらどんな人も大事で大事でーーー、ほんまに今はそう思うわ。」

それでその高速道路工事を終わって、名古屋の実家の家業の
関係で、T建設を退社して、Yという建築板金の材料販売の
問屋に就職した。

けれど経営権をめぐって紛争が起こり、裁判に巻き込まれることになった。
もともと争いが苦手なものだから、義父を説得して、本家である
私たちがY会社をでることにした。裁判は示談となった。

わずか2年とすこし経験しただけで、新しい会社を設立することになった。
それが今の会社の株式会社山善である。
30歳になる少し前だった。
ゼロからの出発。

義父はもともと経理畑だから営業はほんとに一から始める
必要があった。
前の会社から二人の方に会社に来てもらった。
一人の方には「死ぬまで一緒ですよ。」って言われた。
その方は現在77歳。現役です。
営業をやらせたらおそらくこの国でも1-2の人材だと思う。
あと2-3年は働いてくださると言われている。

そして1978年夏に名古屋市中川区の地で開業。
その年の暮れ、胃潰瘍で20日間の入院生活を経験した。
それから10年が経過し、40歳の時に社長にしていただく。

そしてバブルの絶頂期からその崩壊を迎える。
それまでの私の顔はどんなだったんだろう。
会社を訪問される方のお顔は一様に厳しく
緊張した様子。
そして笑顔がない。
そうみんな私そのものだったんだ。

そんなこととはまったく気づかない、まさに仕事に完璧を
要求する厳しい人間だったのは間違いない。
大きくなるんだ。
計画もなくそう思うだけの守銭奴だったのだろうか。

しかしその頃、将来にむけてどんなことをすればいいのだろう。
漠然とそんなことを思うようになっていた自分を知る。

そしていつものように事務所のデスクから道路を何気なく眺めると、
そこにはその頃の最高級車「シーマ」に乗り込む
隣のアパートの住民の若い人の姿があった。
突然にひらめいた。

「あの人は何のために生きているんだろう。
車のために生きているんだろうか。
ぼくはどんなふうに生きればいいんだろう。」

その時大きな声が頭に響いた気がした。

「外に出なさい。!!」

その声が、その後の自分のもの凄い変化の旅のきっかけになるとは
その時はわかるはずもなかった。