そのことがあった日より以前にも、時々はそれまでの生き方を
振り返るようにはなっていた。
その日は44歳のある日だったが、年齢から来る人生への
感慨もあったのかもしれない。
39歳となったその5年前には、自宅を壊し8階だてのテナントビルも
建築した後だった。
その頃突然に町の高架高速道路が廃墟にみえたりした。
未来の子供がお母さんに訊いている。
高速道路を指差しながら、
「お母さん、あれなあに。?」
そんなイメージさえ浮かんだ。
わたしたちのやっている事柄、目指している物中心の
世界への漠然とした不安感があったのだろう。
だから「この道へ」のきっかけといえば、シーマのお兄ちゃんであり、
見えざる大きな声だったと言うしかない。
そしてその声を聞いた直後、郵便配達の方が商工会議所からの
封書を届けてくださった。
「コレか。!」と直感。
それは「那古野塾」という異業種の会員が集い勉強する塾の
ご案内だった。
成功する企業家の先輩のお話を聞く集い。
毎週続け3ヶ月で終了の予定。
だがまた迷った。
自分の業界だけのことしか知らず、異業種の人々と
交わったことすらない。
恥ずかしさと不安でいっぱいだったが、その見えざる声が
体を押したように感じ、申込書をファックスした。
自分にとっては革命的なできごとだった。
そして学びが始まる。
その3ヶ月の塾で一番に私を驚かせたのは、講師のお一人だった
今は亡き本多電子工業の本多会長さんのことばだった。
まるで親鸞聖人のような面持ちで、仏道の人を
感じさせるような圧倒的なカリスマ性をおもちだった。
彼は豊橋技術短期大学の初代学長だったとも聞いている。
その学校は今人気の「ツキを呼ぶ魔法の言葉」の五日市剛さんの
母校でもあるようだ。
講演後、私の隣の経営者が本多さんに質問。
「経営者にとってもっとも大切なことは何でしょうか。」
そうそうそれが一番訊きたいんだ。
心の中で同調する。
先生はすぐに答える。
「それは与えて与えて与え続けることです。」
こちらの頭の中は混乱、混乱。
ギブアンドテイクが当たり前、あわよくばテイクアンドテイクだ、
なんて考えていたこの頭では「ギブアンドギブ」はわかるはずもない。
そしてこの日から「ギブアンドギブ」の謎解きの旅が始まるのである。
つづく・・・