自分には愛という言葉はとても遠くて
なんだか恥ずかしい言葉なんですが、
1997年に肉体を脱いだマザー・テレサには
とてもぴったりの言葉です。


この土曜日、文庫本になった本が、著者の五十嵐薫さんから送られてきました。
「インド心の旅」を主催しおそらく日本人で
もっともマザー・テレサさんと親交が篤く、
マザーの帰天の日にもインドのコルカタのマザーハウスにいて
遺体に立ち会った方です。
実際に彼が経験した話ばかりなので、読むものの心に
深く刻まれる言葉群です。
インド心の旅に五十嵐さんにご案内いただいた時期には
すでにマザーはこの世にはみえず、マザーハウスの一番後ろの
いつもマザーが座っていた場所にはマザーの人形がありました。
You did it to me.
(あなたが私にしてくれた)
マザーが講演の冒頭に決まって話す五本の指の
この言葉が胸に迫ってきます。
通常忘れがちな大切なことを教えてくださる本だと感じます。
人として生まれて・・・
この数週間の間に、たくさんの方々から
私設飲み会のお声がかかりました。
久しぶりの方、近くの方、久しく断絶していた方、
学区の方などからです。
それで短期間にたくさんのアルコールをいただいたので、
肉体(心臓)が悲鳴を上げていました。
それでこの2日間本当に幾年かぶりにアルコールを口にしませんでした。
すると夕食がとてもたくさんの量になります。
なのにいつもは眠くなるのですが、眠くもならないのです。
今朝午前2時、急に目が醒めまして、何故だか机に向かい
紺色のブックカバーに包まれた本を取り出していました。
森信三先生の「修身教授録」でした。
なにげなく最初のページを開きます。
先生が40歳の頃教員志望の学生に行った講義の
記録です。
一番遅筆の生徒を窓際の前の席に座らせて記録をお願いしました。
そしてその生徒の記録のスピードに合わせて講義を行われました。
昭和12~3年の頃のことです。
戦前の修身といえば何か古臭く感じるのかもしれませんが、
その「修身教授録」にある言葉群は、まぎれもなく現代の
そして未来の人々に行き方の原点を示すものと感じます。
人間の年齢に関わらずです。
第一節は講義をする生徒に向けてのメッセージです。
何故先生と生徒は出会ったのか、そして何故この講義が
開かれたのか。 必然の出逢いを真剣にゆっくりと説いていきます。
講義が終了し、必然という言葉に合点のいかない生徒が
先生に質問します。
「先生私には先生との出逢いが必然とは思えないのですが。」
先生は答えます。
「まあそう思っても一向にかまわないですよ。
諸君たちはまだ若い、私のような年齢になれば
人間の出逢いが必然だと気が付くことでしょうし、
またそのように思ってこれからの人生を生きるか、または思わないで
生きるかでは人生の意義が大きく異なるとおもいますが。」
というようなことをおっしゃって静かに教室を退室されます。
生徒はうわさに聞いていた以上にしっかりとした
重みのある講義に魂を打たれるものが多いようでした。
第二節は「人として生まれて」でした。
私達の周りを見渡せば、雑草だけでもものすごい種類になります。
また動物の種類をあわせると膨大な種類になります。
なのに何故私達は人として生まれたのでしょうか。
誰でも人生一度は人間として生まれたのは何故なのだろうと
疑問を持ち、さまざまな考えをめぐらせます。
しかし人生を経験していくうちにそのような考えは次第に
遠のいていきます。
そして人生のさまざまな雑事に翻弄され、真に人間として
生まれた意義について深く考えることもなく人生を終えます。
人間ならば絶えず自分が人として生まれた意義を心のうちに
秘めながら人生のさまざまな事柄に対処していきたいものと
思います。
文章が少し違っているかもしれませんが、一気に読み進む重い言葉群です。
そして第三節は「この国に生まれて」です。
世界にたくさんの国がある中で、この大和の国に
生まれたというのは何故なのでしょう。
今に至る、親や先祖、そして遠い民族の連綿として
続く血脈が私達の中に流れていることを知らねばならない。
思い出せと言うかのように深夜の心に響きます。
「修身教授録」忘れずに読み進みたい本です。
今回で6度目くらいになりました。
再びの始まりです。
人はどこにいるのか
世界が平和になったらほんとうに自分は平和なんでしょうか。
自分が平和であることと世界が平和であることとは
どんな関係があるんでしょうか。
自分の見ている世界は自分の意識の現れといわれます。
でしたら自分の心しだいで平和かどうかが決まります。
平和だけでなく幸せ感もそうです。
満足感もそう。
世界がどうであろうと、ほかの人がどうであろうと
ようは自分の心しだいです。
そんなこと言ったって、どこかの国が攻めてきたらそんなこと
言っていられないよ、と人はいいます。
攻めてくることを見る人と、見ない人がいます。
見る人の意識と見ない人の意識がちがうようです。
会社や学校で意地悪な人がいて自分をいじめると
悲しんでいる人がたくさんいると聞きます。
意地悪な人はほんとうにいるんでしょうか。
意地悪な人ってどこにいるんでしょうか。
やってみるしかないですね。
やってみて、自分が体験したことしか確信が持てないように
人間はできています。
人からの話はそれこそ嘘っぽいですね。
ほとんどの方は偉い人の話とか、他の人の体験話を
信じて確信したかのように話します。
自分がしたこと以外は、というかそれもですが
すべては幻想と思っていいようです。
ほんとうに意識しただけの現実を自分が見ているとしたら、
その確信を得たら、もう意識を自分流に持っていくしかないですね。
自分が嬉しいように、喜ぶように。
それはきっとみんなが嬉しくて喜ぶことと
同じかもしれませんね。
気づいて行動することの連続から、
真理が見えてくるかもしれませんね。
ほかの人から言われて動くのでなくて、
自ら動き続けることが大切でしょうか。
「出した意識が返ってくる」が真理です。
信じないでくださいね。(笑)
谷神(こくしん)
真理は勉強したり理解したりするものでなくて、
気づくことなんですね。
個人が気づかなくても、厳然として
いつも真理の中にあるわけです。
だからなんだかいつも集中して一つことに
今を生きている人そのものですね。
それも楽しくて楽しくて仕方ない人は
すでに真理に生かされていますね。
そこに善悪や正邪の判断はありません。
欲って言葉って 昔神様は谷に住むって言う
伝えがあって、だから神谷さんっていうのかと
変に納得したことがありました。
だけど神様はあるっていうか、形がなくて
一つし かないようなので、それはなんだろうって
思ったら、飯島さんに会ってそれは真理法則のことと
納得しました。
だったら欲って言葉がわかります。
谷が欠けている。
谷は神様の住むところだから、いいかえれば、
神様は住むわけないので、真理そのものが谷。
真理そのものが欠けた生き方が「欲」ですね。
真理とは分離感のない「元一つの源」が私達の
ふるさとと、気づいて生きることですね。
現実と思われる世界のどんな欲望も、元一つの源を
感じることに比較すれば、比較しようのないちっぽけなことでしょうか。
車の運転中に「そこ」にはいった飯島さんは、
「目にワイパーがいるよ」って言いました。
激しい慟哭と涙は、何にもかえがたい感慨のようです。
先日のテネモスミーティングのGさんもそうでしたね。
「いつも喜んでいなさい。」
イエスさんがほほえんでいます。
ここにあるもの
「あるヨギの自叙伝」の著者バラマハンサ・ヨガナンダの
師の著書を奨められて読みました。
学びには導く師が必要と言う、いつものインドヨガの
慣わしにはちょっと?でしたが、少ない言葉の中に
この世の真理が見え隠れしていました。
まず世界は言葉があって 始まります。
そして時間があって、変化を象徴しています。
空間があって分離を現します。
そしてすべてのすべてのもと、源の無限エネルギーである
宇宙原子があります。
その4つがそろって現象の世界を認めます。
そしてそれは幻想です。
ですがこの幻想が私たちを導きます。
それは気づきへとです。
何の気づきでしょうか。
私たちは源から離れていることはないという気づきです。
それを学ぶために幻想の現実世界があります。
素敵なご縁が導きます。
やっと会えた人たちに感謝の毎日です。
肉体が時間という変化を表す単位を気にし出す頃、
懐かしい出会いの終焉が近ずいてきます。
分離がない様に、普遍を求めなさいと
常に言い聞かせて毎日が過ぎていきます。
源は一つです。
そして無限です。
無限の霊か有限の肉体か。
真に自分しか存在しないのか。
道探しのたびは続きます。
憶念
「誰も自分の本当の心を知る者はいない。」
それは憶念だからと言い残して飯島さんは
去って行きました。
憶念とは。
自然世界が生まれる元の宇宙原子の世界のことです。
恒常的に0の天然世界で今ももちろんあります。
それを知れば変化してやまない自然世界のいかなるものをも
比較できないほどの深淵で計り知れないふるえを
よぶ感慨があります。
この現実の世では分かり得ないものです。
そのものを感じていただきたい。
それもすべての方にです。
チャンスは常にあって、誰もが可能です。
求めるものは得られます。
信じる者は 救われます。
テネモスさんでの5月7日
幾度もテネモスホールで公演なさった北九州の
宗美佐さんのコンサートが5月7日にテネモスさんでありました。
ソプラノ歌手 宗美佐さんのライブ & 自然が教える生命研究会世話人 城雄二(しろ ゆうじ)氏その他テネモス関係者による講話を開催します。
というふれこみでした。
午後一時に始まりました。
自然人宗美佐さんの声がノーマイクでホールに響きました。
時々何かを思い浮かべるような宗さんでした。
フィナーレの大音声にホールが揺れ動き
心は無になりました。
城雄二さんは以前大学の先生でした。
だから軽妙に真理を伝えます。
飯島さんの飛行機がなぜ飛ぶのかのお話に
ずっと求めていた真理を見た気がしたと言われました。
それからたくさんのご縁のお方のお話が
ありました。
私も呼ばれました。
ちょっとどうしようかと思いましたが、数々の言葉が
口から出てまいりました。
テネモスさんに17年くらい通わせていただいて、
一番心が震えた飯島さんのお話。
そして何より飯島さんのご両親に授かった
お二人のこどもさんがすべて逆縁で他界された事実。
その事実をしっかりと受け止めるだけの偉大さが
ご両親にはあったこと。
ほんとうに偉大なことをなされた飯島さんとそのご家族。
人には言えないつらい時代を一緒にすごした奥さん。
どんなに大変だったことでしょう。
今ありがとうと、改めてお伝えさせていただきます。
6月4日のテネモスミーティング名古屋の日には、
飯島さんのそばで三年間みっちりと鍛えられたスリランカの
マデュカさんが日本人よりうまい日本語で理路整然と
学んだことを伝えてくださることと思います。
そして釘本さんや、宗さんも参加してくださるようです。
みんなでまた「まるえい」さんにも出向きます。
なつかしい再会の縁があります。
二冊の本
時を同じにして二冊の本との出会いがありました。
一冊目は、はがき道の坂田道信さんからのご紹介でした。
「若き友への人生論」 森 信三著


森信三先生が若い方へ、人生の生き方の指針を
わかりやすく表しています。
そのご本の中の「死と永生について」の一文、
「われわれの生命は、この肉体の死後といえども、その個別性を
失わぬと見るか否かの別であって、この点については、ひとり宗派によって
異なるのみならず、・・・・・・・・・かくしてこの最終の一点に関しては、
われわれは軽々しくこれをあげつらうことをひかえるべきであろうが・・・・」
について箇条書きを友人にお見せした後、受けた質問の
回答をもって、この本の解説とさせていただきます。
そのところは、生前や死後に、現実にある時と
同じように、個別性はあるかどうかの、森信三さんの
見解を述べています。
それで結論的に森さんは、個別性については
軽々しく論ずることでなく、そうだけれども
各個人としては、しっかりとした確固たる地点、
ようするにこうだという結論を求めなさいと言って見えるのです。
個人的な今までの体験や経験に照らしますと、
各個人は一人ひとりそれぞれが指紋とおなじように、まったく異なる
個性をもってこの現実世界に現れます。
そして何故まったく異なる個性かがわかりません。
ただ個性というものが、人間として欠けている事ということでしたら、
この現実世界で肉体を持って生かされる意味がわかります。
その個性(自我)の解消と言えるのかもわかりません。
すなわち個性があると言うことは、生まれる前も、そして普通は
永久の生命と言われるのですが、肉体を脱いだあとも
個別性はあるといえるのでしょうか。
個別性はあっても一人ひとりの「生命」はひとつです。
たった一つの生命を生かされながら、すなわち本源と繋がりながら
個別性を生きるのが人間と言えるのでしょうか。
例外とされそうな、生まれてすぐに肉体をぬぐ幼い子供などは
それではどうなのだと言われそうですが、その場合はそのような
幼い子供の肉体の死が影響を与える周りの親や縁者の
考え方によるといえます。
どのように生かされるのかをつかむのは、いつも自分でしょうか。
どんなことをつかんでも自由に任されています。
松はプラス、梅はマイナス、そして竹は0です。
宇宙はいつも0に定まっています。
他の一冊は この伊路波村の「伊路波」を指文字でくださった
ペンネーム日之出秀夫さんの「ずっと気がつかないお蔭様があるごめんなさい」
という100ページの詩文です。
<作品への思い>
生きることに迷い、悩み、先が見えなくなったときにふと
立ち止まって目を向けたい、明日を生きる希望となって、
背中をそっと押すような言葉になればと思います。

生きている意味を求めて、そしてこの世界の存在の意味を求め、
探求の人生を歩む著者が紆余曲折の人生を、いのちの響きに
忠実に霊と肉の調和を目指すことになったようです。
深い言葉群が、深い気づきを与えることでしょう。
89ページです。

肉体とのお別れがとても多い近年ですが、ことに家族や
親しかった友人とのお別れは悲しいと言うよりは、わかっていても
別れていかなくてはならない無常を感じます。
3月2日、肉体の飯島さんとの別れがありました。
縁者の方に案内され、一群の人々は古民家のままの
かやぶきの母屋の一室に横たわる飯島さんにお別れを
しに向かいました。
玄関の広い土間で靴を脱ぎながら、もういのちの響きを
感じてそれへの応答を止めることができない嗚咽を
もらしていました。
順番が来て、まだ生きているかのような真っ黒い髪を
なぜながら、ありがとうと飯島さんに叫んでしまいました。
以前、「ありがとう」の言葉に「結局はそれだけだね。」と
言って見えた飯島さんが応答してました。
別れ際に一言だけ伝えたい言葉がある。
人は、「ありがとう」を伝える出逢いを求めて、
生まれて来たのかもしれない。
重い言葉と感じさせました。
4月からアマゾンで上梓予定のようです。

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