いのちの実相 10

二度の自宅内での飛び降りも,何かを試すような感じがしていました。
幸いにも二度とも大した怪我もせずにいたのです。
ただやはりいずれも二ヶ月ほどの入院を余儀なくされました。
薬は増える一方です。
多剤処方で何がなにやらわからず、
まるで薬を食事のように服用しました。
娘の様子はもうとてもそれまでのようにアルバイトができるような
状態ではなくなっていました。
それでも何か自分で誰かの役に立ちたいと
切に願う娘は、かなわぬこととは言え「よくなったらまた働くよ」と
口癖のように言うのでした。
自分の存在を 何かで表したい一心だったのでしょう。
私はといえば、大震災の少し前の体験に魂が打たれ、
いまだにわからない旅を続けることになったのです。
ただすべてにそれまでの生き方から大きく変更をすることになります。
震災の1月17日から五日後の22日、毎月22日にうかがう神戸三田の
鏑射寺(かぶらいじ)への鉄道であるJR福知山線がその日に開通となりました。
震災の後なのですが、出かけることにしました。
震災後すぐのその地の風景を車窓から見ていました。
大きく傾いたビルディング、アパート、マンション。
ほとんどが青いシートで覆われた屋根の家々。
文明がこんなにもはかないものとは、と心底思いながら、
物質のはかなさを目に焼き付けました。
鏑射寺は瓦一枚もずれていませんでした。
一日前に震災を予知した中村公隆和尚は、震災の前日に
神戸近郊に住む檀家の方々に電話しその日中に神戸から
離れるように指示しました。
檀家の方々は一人のけが人も死人もなかったようです。
まことに不思議をここでも体験させられます。
未来が今にあったのです。

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いのちの実相 9

自分しかなくて また自分さえない 感覚でもなく
ただ そのことが私たちの現実感とはまったく
かけ離れた それでいて何にも変えがたいもの。
ただもう 嗚咽しかないもの。
そしてそれであればこの現実の何をもはるかに
超越し、しかも私たちの知るいかなるものとも比較することのできないもの。
まったく不変であって、しかしながらものすごく躍動し、ものすごく湧き出るもの。
そんなわけがわからない表現でしか言葉では言えないのですが。
自分はそこのそこに繋がっていて、しかもそこのそこそのもの。
さらに誰でもが、まったく同じなんだということ。
どんな方でも、まったく同じなんだということ。
未来がここにくること。そしてまた物質はないということが実感として
理解できる出来事にあいます。
それは皆様ご存知の長崎の「あんでるせん」という喫茶店でのさまざまなことです。

ここでは未来の出来事が今起きて、しかも物質が消滅し
本人しか知らない場所に瞬時に移動(テレポーテーション)します。
またバラバラになった金属がほぼもとの形に戻ります。
そして塑性であるプラスティック製のライターがねじりあめのようにまがります。
割れないのです。
さらに本人の姓名や生年月日さえ知られてしまいます。

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いのちの実相 8

時間の不思議や自分の生命のふしぎが目前に迫っていました。
先のセミナーでは父親に対する憎しみと母親への哀れみのふたつを
完膚なきまでに、自分の心から追い出した後に体験がありました。
父親と母親がキン斗雲(きんとんうん)に二人並んでしかも笑顔で
手を振っていました。そしてその雲は二人を乗せたまま
かなたへと消えていきました。
ああよかったと思いました。
そして二人は仲良しだったんだとも思ったのです。
二人はわたしのために演技をしてくださった。
わたしを強くするために、父は凄い仕打ちをしてくださった。
ふたりに、ありがとうと言いました。
その後外に久方ぶりに出ることを赦されました。
鳥の声、雲の流れ、そして柔らかな風。木々さえも
何か生き生きとしていました。
自分のそれまでの体験にはない外の感覚でした。
今その意味がわかります。
自分の意識が作り出したすべての風景でした。
硬い堅いエゴの一部がはがれたとき、その心で見る風景だったのです。
そしてよく言われる過去生があるかどうかはわからない。
ただ浮遊するおばけに意識がのっとられただけかもしれません。
そんな隙間のある、自分の心かもしれません。
時間が系列的なものではないことははっきりとしました。
そして自分とは何か。
ただ肉体だけではなくて、なにか連綿と続くいのちがあることは
わかりました。でもその意味を理解することはできないままでした。
そして、阪神大震災の年のはじめに、その圧倒的体験が突然におとずれたのです。

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いのちの実相 11

「30歳を過ぎれば、おさまりますよ。」
当初発病時の医師の方の言葉が一筋の明かりではありました。
娘が31歳を迎える2006年になっていました。
私は娘の病気については、ほとんど家内に任せきりでした。
というか、そのことから逃げていたように思います。
ただ医師の方との相談とか、入院時とかには積極的に関わりました。
眠れなくなり、わけがわからないことを口にしだし、まったく眠れずに
発狂寸前になる。  いつものパターンが今回も繰り返されました。
そして入院です。
しかし今回はいつものN大学病院に空きがなく、その紹介を
いただいて民間のS病院に入りました。
30歳になりましたが、望みがあったはずの快復にまったくメドがたちません。
もうこれは積極的に娘に関わり、これからの娘の人生を娘が
なんとか一人立ちできるようにと、行動に出ることにしました。
ただ行動と言っても、毎日毎日病院に見舞いに出かけ、
本人の状態を記憶しながら、少しでもやさしく接し、
快復を願うのみでした。
まだ薬についてはまったくの無知で研究しようとも
思わなかったのです。
医師の方に任せ切りです。
一月ほどが経過しました。
いつもの入院時では、一か月を過ぎる頃には、ずいぶんと落ち着きます。
ですが今回はまったく気持ちが持ち上がらずにいました。
毎日の面会室では、恐怖のため「怖い怖い」を連発しました。
しばらくしますと父親との一時外出が許可されました。
そんな日には、二人で鶴舞公園に行きました。
一時間ほどの外出時間ですが、その間に幾度も逃げようとします。
きっと病院に帰るのが恐怖だったのでしょう。
しかし決まりですから、そんなことがあっても病院に戻るしかありません。
そして年が改まり2月になりました。
3ヶ月ほどの入院期間を経て、それでも家庭外泊の許可が出ました。
私たち家族はとても喜んで、金曜日からの二泊三日の家庭での
久々の団欒を迎えました。
ただ過去幾度かの家庭外泊の時のようなやすらいだ様子は
今回は見受けられなかったのです。
そして病院に戻らなくてはならない日曜日の朝、そのことは起きました。

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いのちの実相  6

塾は終了しました。
その塾で知り合った方たちとの交流は22年経過した今でも
続いています。 塾のOB会もできました。
また「井の中の蛙」状態だった私ですが、その塾の塾生の方からの
勧誘で新しい異業種交流会にも参加するようになりました。
50歳までの5年間の貴重なる学びとなりました。
生活が一変しました。
実際的な仕事は、すべて社員の方に任せ、まず自分の能力開発と
新しい何かを始める糸口探しが始まりました。
仕事中心の生活を変え、間口を大きくしてすべての方から学びたいと
強く思うようになりました。
それまでの自分にとっては、まったくの大変化でした。
1.心を変えたい。
2.人間とは何かを知りたい。
その二つが願いでした。
その時代まで続いていた夜遊びにはだんだん興味が薄れていきました。
でもその夜遊びの中で人生の転機が待っていようとは・・・。
何か心の勉強をしたい。
その頃はやっていた能力開発セミナーはいくつもありました。
その中でもふたつに絞っていて、誰か紹介者を探していました。
経験のある紹介者がいないと参加ができないシステムになっていたのです。
紹介者を探す毎日でしたが、ある夜遊びのスナックでポロっともらした
言葉に同業者の社長さんが反応しました。
「そこだったらボクが紹介しますよ。凄いですよ!人間のオーラが見えますよ。!」
酔っ払ってはいたけれど、完璧に渡りに船状態でした。
(もうひとつのセミナーはその後事件となったセミナーでした。
後に何かに守られていることに感謝しました。)
その晩は嬉しくて嬉しくて何かが大変化する予兆を感じ取っている
自分を見ていました。

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いのちの実相 7

商工会議所主催のN塾が終了し、そのOB会が発足しました。
ある日のその会合の後、世話人のKさんと友人のIさんと共に
居酒屋にいました。そこでの会話の中で、私は世話人のKさんに
このように言いました。
「人間ってなんでしょうか。本当のことってなんでしょうか。
わからないから知りたい、学びたいと思っています。」
酔っていました。
それまでの私とはまったく異なり、すべてに積極的で
気が向いたことならなんでもやりたい、頼まれたことは
「はい喜んで!」に変わっていたのです。
Kさんは「そうか、そんなら今度おもしろい会合があるので
そこにいりゃ~」と名古屋弁でこたえました。
なんでも拒否しなくなっていたので、二つ返事でした。
ワクワクしていました。

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いのちの実相 5

娘の発病がきっかけとなり、 それまでの人生に疑問を感じた私に届いた
勉強会の誘いのままに申し込みをしました。
生き方、経営の仕方が知りたい。
どうして普通に生きていて、娘があのような病になってしまうのか。
なぜそれが私たちの娘なのか。
私は4人の子供たちに勉強を、しなさいと言ったことは一度も
ありません。また学校の通知表を持ってきた時は、成績のことには
一切触れず、通知表の後ろの先生の文章を読み、何かみんなのために
できたことや、すこしでも成長したことを大げさにほめました。
それが本音でしたから。
気がつけば、母が私にしていたようにしていたのでした。

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いのちの実相 4

「30歳くらいになれば落ち着きますよ。」
大学病院の先生は言いました。
30歳まで13年・・・・・・長いなあ。が正直な思いです。
それから後、2006年のあのできごとが起きるまでの14年間に
娘は13回もの入退院を繰り返します。
ほぼ一年に一度の入院生活を1~2ヶ月送りました。
それでもなお主に娘の係りは家内でした。
私は避けるかのように、娘のことから逃げていました。
入院が近くなる前は決まって眠れなくなり、精神が高揚し
わけのわからない言葉を繰り返します。
もう 人間を超えた姿を見て理解できない不安と
逃げ場のない絶望感に満ちていました。
それでも入院中にたまに家に戻る家庭外泊が
赦されたときは、いつも緩やかな症状に戻っていて
希望の光が差しました。

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