「自我は、全世界を得て自分の魂を失う方法を
教えようとしている。聖霊が教えることは、あなたは
自分の魂を失うことはできないということ、そして
世界には得られるものは何もないということである」
まったく反対に思えてしまいますね。
その逆の考えがトリックみたいには
なかなか思えないですね。
“神の使者から奇跡の道へ その52~自我は、全世界を得て自分の魂を失う・・” の続きを読む
再生大和 霞の中にて活動する
「自我は、全世界を得て自分の魂を失う方法を
教えようとしている。聖霊が教えることは、あなたは
自分の魂を失うことはできないということ、そして
世界には得られるものは何もないということである」
まったく反対に思えてしまいますね。
その逆の考えがトリックみたいには
なかなか思えないですね。
“神の使者から奇跡の道へ その52~自我は、全世界を得て自分の魂を失う・・” の続きを読む
「あなたには愛と恐れという二つの感情があるだけ。
一方は不変だが永遠なるものから、永遠なるものへと
差し出されて、それは延長されていく。
与えられるたびに増加する。」
恐れから、他への攻撃が起こりますその攻撃によって
罪悪感が増長しますね。
その罪悪感とは一度もなかった分離への
確信に導こうとするもの。
かなり手ごわいですね。
分離していなければ、確実に永遠ですね。
分離していると思うので自然に裁いて攻撃する。
一つならば攻撃は不可能ですから。
差し出すものは愛だけとすると、
愛は永遠ですから、永遠から永遠へと
差し出されてどんどん延長していきますね。
さらにそれは与えられれば与えられるほど
増えていきます。
癒せば癒されるからです。
「あなたには愛と恐れという二つの感情があるだけ。
一方は不変だが永遠なるものから、永遠なるものへと
差し出されて、それは延長されていく。
与えられるたびに増加する。」
http://tenmei999.blogspot.com/2021/03/2258202132.html
仙台天命塾の名づけ親は立花大敬さんです。私は大敬さんの文章が好きで、毎日のようにその言葉に触れています。
最近のお言葉をワンディーメッセージのブログから幾つか選んで紹介します。
http://aosorahiroba.jugem.jp/
「私は、世間の人のようには、すっきりした人生を歩んで行けませんでした。ウロウロ、オロオロ、右へ行ったり、左に行ったり、あるいは前進、また後退と、よく分からない、道なき道を歩んで来たように思います。時には心を傷つけ、心のびっこをひきながらも、何とか歩いてきました。
でも、ふりかえってみると、一度も生活に困ったことがないのです。三度の御飯が付いてまわってきました。イノチは、そうできているんだ。生きている以上、生かされるんだと、しみじみそう思います。」
「肉体は自我の象徴であり、
自我は分離の象徴である」
今朝届いていたメールがあります。
奈良の「真の教育のための学校」の主宰者である
Tさんからです。
昨年暮れからの気づきというか覚醒の体験の
お話でした。
毎日毎日というか、毎瞬毎瞬が瞑想のような
ときを過ごす方です。
実相への感覚の体験を、言葉ではきっと表現が
困難でしょうけれど、言葉での表現を
されていました。
“神の使者から奇跡の道へ その54~肉体は自我の象徴であり、自我は・・・” の続きを読む
「愛は幻想ではない、事実である。幻滅が可能なところには、
愛ではなく、憎悪があったのである」
兄弟、夫婦、恋人、親友などのこの世における
さまざまな種類の特別な愛とはなにか。
とても心に引っかかっていました。
兄弟も夫婦も恋人も親友も、互いに離れ離れに
なるまでずっと、そして離れ離れになってもなお、
受容し赦しあうことができれば、
それは全的な愛といえるのかもしれませんが、
たいていは何らかの憎悪をもちながら関係を
保つ場合や、憎悪をもって別れなくては
ならない場合もあります。
「憎悪こそがまさしく幻想であり、変化しうるものは
元より愛ではなかった。」
愛は全的で変化するものではなく、変化する愛は
存在しませんね。
ところが特別な愛と呼ばれる関係では、愛と言いながら
憎悪がその影に隠れています。
そして憎悪が生まれるということは、愛が変化する
ということですから、変化する愛は幻想ですね。
幻想の愛と実相の愛はその影に憎悪があるのか
または全的であるのかでわかります。
または変化するのか変化しないものなのかでも。
ですからもちろん「愛が勝つ」なんていうものもなく。
憎悪を影に持つ愛のみが「愛の勝利」などというものを
気にかけますね。
平安は決して特別な愛のような幻想からもたらされることなく、
実相の愛、変化しない愛のみからもたらされるようです。
「愛は幻想ではない、事実である。幻滅が可能なところには、
愛ではなく、憎悪があったのである」
「特別な憎悪の関係に目を向けることを
恐れてはならない。それを見ることから
自由がもたらされるから」
特別な愛にはその影に憎悪が隠れているようであって、
そのような関係の中では、愛の真の意味が隠されており、
そうした関係は、憎悪を軽減しつつも、手放さずに
おくためにのみ形成されるようですね。
ようするに特別な関係とは、その影にある憎悪を
真っすぐに見て、本当の愛とは何かを
知るためにあると考えてよさそうです。
それでも人間はなかなか特別な関係をそのようには
考えることはできません。
感情がない人間とみなされそうで恐怖でしょうか。
でもたとえようもない「愛」に触れたときには
その恐怖が吹っ飛ぶのかも知れませんね。
“神の使者から奇跡の道へ その56~特別な憎悪の関係に目を・・・” の続きを読む
「分離とは、ただ自分自身を知らないでいようという決断」
まさか他と分離していないことを信じる人が
幾人いるのか考えますと、この問題は
問題にもなりませんね。
普通は自分自身ってなんだろうとは
考えもしないからです。
本当の自分とは何かを探求している人にとっては
とても大切なこの「分離」に関することでしょうか。
もし初めから決して分離はなかったのだと
人生の目的をこの「分離感をなくすこと」に置く人には、
全ての関係でもある、特別な愛の関係は、
分離の中に愛を持ち込もうとする試みにすぎないと
すぐに気づくことでしょう。
“神の使者から奇跡の道へ その57~分離とは、ただ自分自身を知らない・・” の続きを読む