
「破壊は真実ではないというそれだけの理由により
死は生命(いのち)に譲歩する」
破壊は世の中では当たり前に起きていることなのに、
それが真実ではないとは。?
時空間も物質も真実だととらえて離さないのが
「自我」です。
すなわちそれが真実であり、いつかは人間は
死ぬのだという確信が「自我」の切り札です。
だからありもしない病に侵され、ウイルスに
怯えます。
“神の使者から奇跡の道へ その41~破壊は真実ではないというそれだけの理由により・・・” の続きを読む

再生大和 霞の中にて活動する

「破壊は真実ではないというそれだけの理由により
死は生命(いのち)に譲歩する」
破壊は世の中では当たり前に起きていることなのに、
それが真実ではないとは。?
時空間も物質も真実だととらえて離さないのが
「自我」です。
すなわちそれが真実であり、いつかは人間は
死ぬのだという確信が「自我」の切り札です。
だからありもしない病に侵され、ウイルスに
怯えます。
“神の使者から奇跡の道へ その41~破壊は真実ではないというそれだけの理由により・・・” の続きを読む

「与えることは受け取ること。それは生命が
元一つであり、自分が自分になしたことだから」
誰かがいて差し出す。
差し出すものは「愛」。
それを受け取る誰かがいいる。
受け取るものも「愛」。
差し出すものと、受け取るものは
一つ。
“神の使者から奇跡の道へ その43~与えることは受け取ること。それは・・” の続きを読む

「実相世界とは、この世界の唯一の目的は
赦しだと見られている心の状態である」
何のために世界はあるのでしょうか。
その世界の目的は「赦し」とは
どのようなことなんでしょうか。
赦しとは、癒しであり救済とあります。
癒しというとすぐに肉体の?心の?と
疑問です。
“神の使者から奇跡の道へ その44~実相世界とは、この世界の唯一の目的は・・” の続きを読む

「あなたがそれを不当な贈り物とみなしている
間は、それはあなたが「赦そう」としている
罪悪を支持するものとならざるを得ない。
正当でない赦しは攻撃である」
ようするに「赦したるわーー」とやけになって
いること。?
赦したるわーー(名古屋弁)は不当だなって
心の中に残っていることですね。
“神の使者から奇跡の道へ その45~あなたがそれを不当な贈り物とみなしている・・・” の続きを読む

「実相世界でさえ、それが持つ目的は依然として
創造と永遠には及ばないものである」
目的は癒しと救済と聞きました。
いわば「分離感をなくすこと」です。
それでもなお創造ということ、すなわち
「愛」の創造ですが、それと「永遠」とには
遠く及ばないとはいかなることでしょうか。
実相世界は言葉という物質では表現できません。
すべてを離れ、忘れ、捨て去ったあとに
訪れるもの。
永遠にして不変、そして無限なるもの。
そして言葉にできないもの。
。。
「実相世界でさえ、それが持つ目的は依然として
創造と永遠には及ばないものである」

「赦しとは、もとより起ってはいないことを
知覚しないことにより、実在しないものに対して
適切に応答するようにと、あなたに求めるだけ」
もとより起っていないとは、起っていると
思っている普通な考えでは無理無理ですね。
まずこれは起っていないことだと心から
思えるのかを試されますね。
それができないと、やはりこれは、この知覚は
真実だと普通に思います。
“神の使者から奇跡の道へ その47~赦しとは、もとより起ってはいないことを・・・” の続きを読む
http://tenmei999.blogspot.com/2021/03/2264202138.html
アメーバ式生活法
(本文)
これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究盡(きうじん)と同生し、同参するゆゑにしかあるなり。得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。
(講義)
『これにところあり、みち通達せる』というのは、いのちが『行』と『法』というあり方を実現している時ということです。つまり、おシャカさまのように人生を歩めている時、ということです。
その時、その人にはどんな風景が立ち現われているのか。パーッと視界が広がって、何もかも見通しになって、計算通り行動できるようになるのでしょうか。道元さんはそうならないとおっしゃるわけです。
『しらるるきはのしるからざる』ようになると書いておられます。これは、『知らるる極きわの著しるからざる(ハッキリしない)』という意味で、つまり、何にも分からん、何にも見えない、聞こえない、ただ次々やってくる出会いに反応しているだけだというのです。
ここを、私は『アメーバ式生活法』と名づけています。アメーバには眼もないし、耳もないし、頭もありませんね。ただ触覚だけがあって、体に触れてきたものに対して反応して生きてゆくだけですね。
つまり、『法』と『行』になり切れるようになれば、頭や眼や耳をフル回転させて、すべてをまず見通せるようになって、パチパチそろばんをはじいてから行動を決定する、なんていう必要はなくなるのです。
ただ、わがいのちに触れてきたモノゴトだけを処理してゆけばいいんですね。
“「現成公案2」2021.3.8 自分で自分を自分する” の続きを読む