神の使者から奇跡の道へ その42~平安と理解は一対をなしている。それは・・・

「平安と理解は一対をなしている。それは
互いに原因と結果をなしている」

平安と理解?

何の理解でしょうか。
理解にもいろいろあって、きっとこの世的な
理解ではないのでしょう。

しかも理解していることが原因で平安という結果を得、
またいつも平安であれば、そのことが原因で
理解しているという結果となる。

となると「理解」とはこの世の真実である
「実相」のことでしょうか。

わかっていれば目の前にいかなることが起きても
常に心は「平安」であり、逆にいつも心が「平安」であれば
それは「実相」を理解しているということですね。

ならば「実相」を理解しない手はないですね。
生きていながらいつも「平安」な心でいられるのですから。

ですから自分が何も知らないということを常に
覚えていて、一切を学ぼうとする意欲を持った者は
そのことを学ぶのでしょう。

そしてもし自分がいかなる種類の恐れからも
完全に自由であり(平安)、自分と出会う人々や
自分を思う人々までもが、自分の完全なる「平安」を
共にするのならば、そのときこそ真のレッスンを
学んだと確信していいと言われるようです。

ただ今の今の意識は決断次第で変更可能ですが、
時空を超えてしまった体験の中での意識は
なかなかやっかいですね。
そのことがもたらす理解不能な目の前の世界さえも、
人の一生の中で理解不能なことなんですが、
それさえもなかったことにしないと、無限に同時に
起きていることがらへの真の理解は困難ですね。

なにもかもを「なかったことにする」しかありませんね。

今出す意識は無限にまで広がりますから。

「平安と理解は一対をなしている。それは
互いに原因と結果をなしている」