疲 労

「疲労した状態とは 霊がない状態」

よく疲労とか痛みとかは酸欠と言われます。

「疲れた 疲れた」と連呼される方は
「愛がたらん 愛がたらん」と言って
愛を求めているのかも知れませんが。

霊がない。とは?

たいて霊はエネルギーで物質に対するのは肉です。

「霊肉一体何故」は知花先生の講話です。

肉が車だったら、霊は運転手。
霊の運転手が下りたら、車である肉は抜け殻です。

その抜け殻が完全に抜け殻になるのが死体と言われる状態です。

それまでは肉体の痛みも「疲れた」も
霊がないまたは不足の状態ですね。
ようするに霊はエネルギーであり、原因であり、
「愛」であり、神であるのだから、それがないまたは
不足なのは活き活きしていない状態です。

それを助長するのが「自我」です。

「自我」は霊の喜びを恐れているのです。

霊には闇はありえませんから。

自我って・・

人間は自我があって存在を保っているようなものですね。
この世のですが。

自我は個性かも知れず、だれかに個性って何?って
聞いたら。
「欠けていること」と言われました。

「確かに」と変に納得しました。

欠けているから、目の前のことをいろいろと
判断して、裁いていくのが毎瞬の個性の作業ですね。

ところが
「自我は裁きなしには生き残れず
裁きがなくなれば退けられる」

ので、裁くことをやめればやめるほど自我が後退していきます。
そして個性(欠点)も薄くなっていくのでしょうか。

「自我とはありのままの自分としてでなく
自分が望む通りの存在としての自分自身を
知覚しようという間違った心による試み」

ややこしいですが、そうしたら欲望が自我。?

やはりこの世には自我のない人は一人もいませんね。

この世界に生きている「あなた」とは誰だろうか

個は地上の様々な場所に生かされて、
さまざまな体験をします。

それは一人一人全部異なります。

また感受性も異なっていて、例えば歌とか、音楽、
劇、映画なども感じるポイントそれぞれが異なります。

人間が創った数々の音、映像は人間が
ほんとうに作ったのでしょうか。

何ゆえか分らぬ心の震えを感動と呼びます。
その感動も体験に重なる人間の感情的なものと、
理由のない感動と二つあります。

その理由のない感動にこそ、根源からの
光が感じられるのです。

「ヨイトマケの歌」が人生では最初の感動でした。
そして「仰げば尊し」の斉唱の中学の卒業式でも感動しました。

大人になっては数限りなく歌や映画や劇や
テレビでも感動しました。

でも訳の分からない感動というか震えは
数が少ないものです。

「感情のない感動」とは進化と、鏑射寺の中村公隆山主は
おっしゃいました。

声、音、映像。

プライナス(歌手)、小林五月さん(ピアニスト)、堀田さち子さん(シャンソン)
加藤えい子さん(シャンソン)ミネハハ(歌手)宗 美佐さん(歌手、ピアニスト)
伊藤 晶子さん(歌手)、あと最近のお知り合いのHさんやRさんはいずれも歌手です。

声、音に心が共振するのです。
意味もなく。、

そのような体験はおそらくどなたにでもあることと
感じさせます。

そしてそれはすべての方々に異なった体験として
与えられるかのようです。

扉へ導く光でしょうか。

すべてのお出会いに深い感謝をささげます。

この世界に生きている「あなた」とは誰でしょうか。

「霊は永続性とゆるぎない実存の智識をあなたに
差し出す。これについての啓示を体験したものなら誰でも、
二度と再び自我を完全に信じることは出来なくなる。」

持続する真の豊かさの感覚を持つ者だけが
真に寛大になれると申します。

真の豊かさの感覚とはなんでしょうか。

この世界に遍満していながらも
この世界では感じることがむつかしいものなのかもしれません。

けれど一旦心が決めさえすれば・・・。

創造があなたの源であり あなたの唯一の真の機能

人間は誰でもどんなことを考えてもいいという
自由意思を与えられている。

右に行こうと思って左に行く人はいない。
(たまにいるかも)

そして思うことを考えたように行うことも
できる。思った通りになるは真理。

自由が隷属だと考えている者は病んでいる。

30歳で再び会社を組織し事業を再興できてから
ずっと考えていた自由意思。
いつでも「これではない」。

そして40年というこの世の時間を
経過して、これこれ、という領域に入っている。

「これではない」と感じながら、それを続ける
苦しさは、はかない努力のように感じる。
むしろ生命への冒涜の感すらある。

私とは誰か。

私は物質を生み出し、蓄えこの世の豊かさを
享受するために生まれて来たのか。
それを創造というのか。

それとも私は真の創造をするために生まれ出たのか。

真の創造とはなにか。

分離が起こる前までは何も欠けていなかった。
必要というものは全く存在していなかった。

では何を創造するのか。

「喜び」と「平安」と「慈しみ」の回復が
真の創造なのだろうか。

天の道はごく単純かもしれない。

肉体を癒すことは不可能

静岡の河野さんのところには、明日死ぬかもしれない人からの
電話もかかります。ベッドで瀕死の状態の方からもです。
そして寿命が延長されたりもします。

河野さんは
「みんな天にお任せ ワハッハッ!!」と
魂の底から笑えと鼓舞します。

これが魂の底からでなく、ただの疑念の内に
言った場合は、何度ももっと魂の底からと
繰り返します。

そしてすべてをあきらめ手放し、魂が
叫んだ時に、肉は変化します。

生長の家の創始者谷口雅春氏は著書「生命の実相」の
中で幾度もやめる者に鼓舞します。
「病の床をたたんで立て!!」

信じたものは瞬時に病が治ります。

「肉体を癒すことは不可能です」

肉体を生じさせた原因は、神の子(あなた)が
抱いた赦そうとしない思いだからです。

肉が肉を癒せないように、物質は肉を癒すことは
また不可能ともいえます。

決心は心が決めるのです。

患者自身が作り上げた概念が「自己」

金沢のビジネスホテルの一室。

故七田真さんとの二次会の場で
いつもどおり酔っていたのですが、先生の近くに
にじり寄って、だれにも聞こえない小さな声で

「先生、この世には自分しかいないんですよね。」

そうすると先生も小さな声で、
「その通りです。・・・」

間髪入れずにお答えになった方は体験上では
もう御一方。それは「ありがとうおじさん」です。

やっぱり二人だけの時にそれとなく質問
「この世には自分しかいないんですよねえ。」

「そう・・・。ちょっとさびしいけれどね。(笑)」

即答なんでした。

でも普通はそんな質問するほうがあたまがおかしいはずですが、
お答えになるお人もお人です。(笑)

「患者自身が作り上げた概念が 自己」

自己と言ったとたんに「患者」ですから
患う者、正気じゃないものとなります。

何故でしょうか。

「自己」と言ったとたんに分離をするからでしょうか。
この世に誰もいなくて自分一人だとしたら、
自分という概念もありません。

自分はすべてとなります。

ですから
「他人の誤りを攻撃するなら、あなたは自分自身を
傷つけることになる。」 のかも知れません。

でも誤りだと感じる自身の心は、天からの贈り物だとも感じます。

七田 真先生も、ありがとうおじさんも分離感の薄い存在でした。

「恐れの中に生きる者は 誰も本当に生きてはいない。」

お二人を見習って、しっかり生きなければと思います。