随想 伊路波村から84~高野山の秋 ~出逢い・縁~

平成13年11月6日夜、
愛知県豊橋市で用事が済んだ時刻が午後10時20分。
それから高野山へ向かう。約5時間はかかるだろう。

新郎Kさんと新婦Nさんの結婚式が翌7日に高野山で行われる。
その場に立ち会うためだった。

「さて、車中の長い時間をどうしよう。」と思ったとき、
ありがとう実験を思いついた。

小林正観さんの著書「幸せの宇宙構造」のなかにあったのだ。
「ありがとうを無感情に言っていても、1万回位言ったところで、
涙が出てくる。

その後、心から感謝のうちにありがとうが言えるようになる。」
いっそ、「ありがとう」より「ありがとうございます」でいこうかと決めた。
1分間で約50回言える。幸い人も聞いていない。チャンスだ。

豊橋にむかう車中で、1時間半。
そして高野山への道中で3時間半。
合計5時間「ありがとうございます」を唱えてみた。

後で計算してみたら、丁度1万回位のところで(約3時間半)眼から涙がにじんできた。
そして何もかもに感謝の気持ちで言えるようになった。

名阪道を数珠つなぎで走るトラックの運転手さん、
道路、樹々、山、そして風。月。つぎつぎに御縁ある人々の顔が浮かぶ。
人生の数々の出逢いの人びとが。

橋本市を過ぎ、運転手をも酔わせる20km程のグネグネの山道。
高野山にむけて、歩いたであろう、多くの人びとの想いがかぶさる。

敵も味方もなく、長い時間を人びとは高野にむけて歩いた。
恐ろしいほどの静寂が山中に横たわる。行き交う車も皆無。
戦国の武将たちや歴史上の英雄が死んだら
高野山へ葬ってくれと願ったその高野山。

弘法大師が開いたこの地に生かされた時間の
すべての想いを捨てて,敵、味方を越えてここに眠る人びと。
日本人って何だろうと不思議な国民性を想う。

走り続け、唱え続けて、7日午前3時20分。

浪切不動尊(空海が唐より持ち帰った仏像)を安置する南院前に到着。
不思議に疲れも眠気も感じない自分を知った。
素晴らしい体験だった。

午前6時、護摩焚きが始まる。きれいな炎が、
そして太鼓の音が参加者の眼と心に語りかける。

挙式は、Kさんの師匠M氏の仲立ちで行われた。
4畳半の小さな仏堂の中で、お二人は結婚の誓いを立てられた。
「お二人の行く末に幸いあれ」と念じていた。

高野山奥院を仏僧であるKさんが案内してくださった。
奥院の正面に向かって一番近いところ左側が天皇家ゆかりの御廟。

そして右側が近衛家の墓。その後方に、
何と元首相の池田勇人さんのお墓があった。

Kさんは言った。「池田さんは、大師信仰の深いお方だった。
病に冒されたとき、四国霊場八十八ヵ所を逆打ち(逆に巡ること)して、
病が治った。
そしてその後、常に数珠を
身につけながら仕事をし、首相にもなられたのです。」

昼の食事会の時刻となった。
料亭「花菱」の料理はとてもおいしかった。

またそして何より、集った御縁の人々の会話は天国の会食のようだった。
Kさんの師匠M氏は、来年より高野山の慣習によって
「身代大師」(弘法大師の身代り)を1年間お努めになる予定だとか。

M氏の書庫は、図書館のようだった。少し開いた扉から、
「小林秀雄全集」が微笑んでいた。

そんなM氏にたずねてみた。「今までで一番感じた方は誰ですか?」
M氏は、「それは、岡本太郎さんです。」と答えて、
「どこが感じたのですか?」の問いに、
「著者の紹介文を少し著書に書いてくださったので、
後日御礼を申し上げたら、ポカンとしていたからです。」(?)

こんなM氏はすべての話題を肩のこらないジョークでかわしながら、
雑談の中で多くの教えを下さった。

素晴らしい御庭と御堂。宿泊室。
そして密やかなおもてなしの心を感じさせる南院。

この日お祝いの気持ちからか、参加者の宿泊費一切を無料にされた
南院御住職Uさまの「慈」のこころに感じ。

新婦Nさんのご両親がすでにこの世にみえないことを案じ、
健在のご自分のご両親を式に呼ばなかったKさんの「悲」のやさしい想いを感じ。

「良かったね」「良かったね」を連発する参加者のYさんやIさんの「喜」の共感に歓び。

あるままに謙虚に今を生きる「捨」の「身代大師」M氏に学んだ一日であった。

「慈悲喜捨」Kさん、Nさんおめでとう。そして、ありがとうございます。

高野は歓びに満ちていた。

随想 伊路波村から85~ポックリさん 031212

名古屋市の東南に八事興正寺というお寺がある。
通称ポックリさん。

昨夜、友人でもあり同業者の社長でもあるMさんの
お母さんの通夜のため、車で葬儀場へ向かう道の途中、
そばを通って、思い出していたことがある。

11/7 は家内の誕生日。その数日後 ハンケチの入った
タンスの引き出しを開けた。

そこに 一通の封筒。表書きはM子さんへ。
家内にあてた おばあちゃんの字。

なにげに 中を見てみた。

中には数枚の福沢諭吉さんと おばあちゃんからの便箋。

「いつも 家のことや会社のこと そして子供たちの世話など
たくさん 世話をかけて ありがとう。
いまのところ私たちは 身体の面倒をかけずに済んでいて、
安心しています。
これからも 迷惑かけないように ポックリいくように
八事に毎月おまいりに行きます。
からだに気をつけて 頑張ってください。
少ないけれど、 なんでもいいからこれを 自分の好きなことに使ってください。」

82歳と78歳のおじいちゃんおばあちゃんコンビは健在だ。
母親の実の娘を思う 気持ちが伝わってきた。

養子となって もうすぐ26年がたつ。
実の父母との関係の期間にもうすぐならぶことになる。

丁度26年前 おじいちゃんの先代の意思を継続するために、
新しい会社がスタートした。
だから ふらふらの事実上の3代目。

この26年間で絶頂と大谷間を経験することになった。
その間本業にいそしむ間は ほとんど事業に口をはさまず、
お金の心配をまったくかけずに、事業に邁進させてくださった
おじいちゃん。

娘や孫には口うるさく映るらしいが大事な時には、いかんなくフィクサーぶりを発揮してきたおばあちゃん。

たいした病気もせず、ここまでふたりで元気に生きてきた。

世の中の変化とともに 事業家にとっては 事業の舵取りが
楽しくも難しい問題となった。

そしてふくらんだ全てのものを 健全にしぼませ、健康体となって、
新しい企業として再出発をすることが、事業家の命題となった。

結果として残された負債は 事業家の責任によって零にすること。
この当たり前のことが できていない世の中なのだ。

そのツケはこの国の人々が 負うことになる。

「意識のネットワーク」などは 父母にとってはまったく関心のないこと。
それよりなにより 健康で安心して 家族みんなが仲良く、きちんと
生活して欲しい。そしてひ孫の顔を 見れるなら見たい。
それが老父母の ささやかな願いなのだろう。

この8年 会社は0かマイナスを繰り返した。
累積した負債は会社のためにはもちろん少ないにこしたことはない。

今年 個人的な会社への貸付金の一部を 放棄することにした。
そのことをすでに退役していて 債権者でもある老父母に告げた。

その数日後 父母から 話があるといわれた。
茶の間で おじいちゃんが おずおずと語る。
「この前聞いたことだけど、私たちの貸付金全部
もういいよ。 お前たちは若いのだから そのままに
しておけばいい。」

なにか仕事のことで 意見があるのだろうとばかり思っていたので、
ポカンとすると同時に、申し訳ない気持ちで一杯になった。

「ありがとう。 お客さんも 社員さんも 救われます。
新しい企業のかたちは もう見えつつある。
きっと安心してもらえる時が来るからね。」

そういうだけで せいイッパイだった。

実は時代はいままでの企業のあり方を 欲していないかもしれない。
そして利益と成長と安定が企業の大方針だったのだが、
むしろ与え合いが基本になり いのちに共鳴する企業だけが
存在を認められるかのように感じる。

私たちが どんな時も輝いてあること。
そして老父母に迷惑をかけず 安心して暮らせる空間を
保つこと。 そんなことが人生の終盤を迎えた父母に
たいする ご恩返しであり 親孝行なのだろうか。

ポックりさんの急な坂道。

支えあって生きてきた父母が、ほっと息つく場所かも知れない。

随想 伊路波村から86~日本人のこころ ~五木寛之さんのお話から~

名古屋商工会議所創立120周年記念講演会。
作家の五木寛之さんが講演者だった。
500人の聴衆の前から3分の1程の真ん中に座った。
聴衆はほとんどが今を生きる経営者の男性の方たち。
後頭部がかなり薄くなっていて、まるでお月様がいっぱいのようだった。
チラホラと五木ファンの女性がみえる。
「蓮如」「大河の一滴」等で、現在話題の五木さん。
最近は、お寺とか、集会所でもお話しをされるらしい。
以前とはとても変化しているようだった。

演題は、「日本人のこころ」。近著と題名が同じだ。
四日市のUさんが、「五木さんのお話いいですよ。」と言ってみえた。
それだけに、久しぶりの講演会に心が躍っている。

お話しは、経済状況に苦しむ経営者という戦士にとって、
おそらく、ずっしりと重いものだったろう。
「暗愁」という明治以来、昭和初期の永井荷風まで、
頻繁にもてはやされたこの日本語。今は、死語となっている。

人は、誰でもがいいようのないやるせなさにいつか襲われる。
こつこつと働いて、2~3の工場を持つ立派な経営者。
美しい妻とかわいい子供たち。そして恵まれた生活と、
経営者としての自信に溢れている。何も不満がない。
「幸せだなあ俺は。」と日々思っていたこの経営者が
ある朝突然にこの「暗愁」という暗い虫に襲われる。

あんなに美しいと思っていた妻を見て、何故こんな女と一緒にいるんだろう。
子供たちなんかちっとも可愛くない。ウルサイだけだ。
この豊かさなんか一体何の意味があるんだ。

自分が信じて歩いてきた道のすべてのものが
意味なく思われるこの「暗い虫」。
人間はだれでもいつかはこの「暗い虫」に襲われる・・・。

ここまで聴いて、左斜め前の女性が泣き崩れた。
共感がこちらの胸にも伝わる。
まさに現状の人たちをやさしく包み込むかのような言葉だ。

韓国の言葉に、「恨息」(ハンスン)という言葉があるらしい。
「恨」とは、世にいう恨みという意味ではない。
それぞれの国のもつ歴史。そして、祖先のすべての想いが「恨」。
それをフーッと吐くため息。それが、「恨息」(ハンスン)。

「暗い虫」に襲われて、「暗愁」の気になったら、
何も思わず力を抜いて、「恨息」するがいい。
私たちには、誰でもそんな時があるのだから。
そんな時、もがくのはやめよう。と五木さんはおっしゃった。

日本は、現在のデフレも経済危機も同じようなことを歴史上で経験し、
いずれの時も乗り越えてきた。
ただ、歴史上経験のない現象が現在、ひとつあらわれている。
それは、年間3万3000人という自殺者がいるという事実だ。
交通事故死者10000人弱。
あの15年間におよぶベトナム戦争の米兵の死者数が、
5万人強。それに比べて、3万3000人という自殺者を何戦争と呼んだらいいのか。

五木さんの知人の若い方が、ある日五木邸を訪れた。
「先生。僕、いったいどうなるんだろう。今の社会はどうなるんだろう。」と語り、
東京の中央線での車中のできごとの話となった。

電車はゴトンという音をして、停車した。
しばらくして、車内アナウンス。
「事故のため、現在停車しておりますが、只今上半身を除去しました。
下半身の除去が済むまで、今しばらくお待ちください。」

アナウンスを聴いて、車内のほとんどの人が一斉に同じ行動をとった。
みんな腕時計をみたのである。
そういう自分も確かに腕時計をみていた。
あとで、そのことに気づいた。そして思った。
「俺はいったい何なんだ。自殺者のことを祈ることもなく。
日常の普通のこととして、みんなと同じように何ごともないような行動をとる。
この日本社会は何なんだ。日本人のこころはどこへいってしまったんだろう。」

若者の心はまだ救われるだろう。そして日本人のこころをこの彼が、
まだ持っていることに安らいだと五木さんは話された。

阪神大震災で日本人は物のはかなさを知った。
サリン事件で、宗教や心の脆さを知った。どちらにもいけない不安感の中、
世の中は「情報」という新しい夢を持った。

五木さんの語る「情報」とは決して世にいう計数、形、宣伝ではない。

それは情報のほんの一部にすぎない。

万葉時代。「情」という字を「こころ」と呼んだ。
新しい時代の「情報」とはすなわち、「情を報ずること」。
こころを伝えることだという。私たちは、こころを伝えあいながら、
新しい時代を切り開く時期に来ていると結ばれた。

思わず「そうだ!」と立ちそうになった自分がいた。
五木さんのお話を多くの方が聴くことができますように祈りを込めて。

随想 伊路波村から87~気づき

「若くして千日回峰行をした方が
仙台にみえて、その方と一時間半ほど
お話できました。」と、なんだか感激した友人からの電話。

なにか参考の本があるとおっしゃるので、
送ってくださいと頼んだら、すぐに届いた。

塩沼さんというその方と板橋禅師さんとの対話本。
自分としてはめずらしくすぐに本を開く。

そして一気に7割ほどを読み終えて、翌日
すべてを読ませていただいた。

19歳の若さで、すべての方がそうであるように
導かれる人生へと船出していった若者の
目指す先は修験道の極致である千日回峰行と
四無行(寝ない、食べない、伏せない、飲まない)。
高野山、金峯寺での行生活が待っていた。

それを体験され、現在39歳の塩沢さんは、仙台の方。
母と子ひとりだけの幼少期の貧困度合いは
この時代にあって物凄いものだ。

板橋さんとの年齢差は30歳以上。
その板橋さんがとても気になったお人が
塩沼さんだった。

ご本の最後のほうだった。塩沼さんは語った。
「大変な行をして、悟ったかに思われるでしょうけれど、
ちっともそうではありません。
どうしても好きになれない人が高野山にみえたのですが、
行を終了してもやはり気に入らないのです。」

そんな彼が仙台から年に一度の高野山詣でを
した日、たまたまその方とすれちがう。

そしてやっぱりなんだか気がむかないのだけれど、
こんにちはとあいさつするが、むこうはつっけんどんな感じ。
それで「仙台からきたんです・・・」と続けるのだが、まだ無関心なようす。
さらに「これおみやげです・・」と
手渡すと・・・そのとき、すこし相手と気が通じたかに感じる。
そして彼は大きな感慨を味わう。

自分が拒否していたんだという、自分の器が
ちいさかったんだとおおきな反省をするのです。
こんな超人的な行を終えた方でさえ
この世の人間の気持ちを越えることはむつかしい。
すべてを愛する大きな気持ちをどうしたら
もつことができるのだろうか。

もしかしたらそのことを試されるのが人生なんだろうか。
涙がボロボロでてきました。

今朝娘が言いました。
「Mさんに、病院で物凄くお世話になったのに、私あのひとの
ことを嫌いなだなんて思ってしまった。
レントゲン室に連れて行ってもらった時、
とても親切にしてもらったのに・・・。
嫌いだなんて・・・。」
と泣くのです。

この本のくだりを読み聞かせました。

「こんな大変なことをされた
お坊さんでさえ。嫌いな人がいたんだよ。
だから気にしなくていいんだよ。
できるだけでいいから、なるべくみんなが
好きになれるといいよね。」

できない自分を見ていました。

随想 伊路波村から88~自分への手紙

修身教授録「自修の人」の項を他の方が輪読されるのを聞きながら、
まったく内容と関係がないのに、母の顔が浮かんだ。
そして感想を述べる時間にまたも慟哭していた。

なさけないような自分の最後の、残り物。?
それが5月18日、早朝の四日市読書会でのこと。
実は4月のはじめ、大阪家庭裁判所から
封書が届いた。
「遺言書検認」の参加要請通知だった。
「何か悪いことしたんかな。?」って
すこしドキドキしながら開封したら、
書類には見知らぬ人の申し立てがあった。

兄と姉に電話した。
関東の妹からは電話があった。
「テレビドラマのような話とちがうやろか。?
おもしろいから行くわ。」と姉。
兄は一緒に行こうと言った。

妹からの電話には、
「遠いから、欠席でいいよ。あとで知らせるから。」と返事をした。

見知らぬNさんという女性は。
遺言を残されたご主人の奥様とわかった。

除籍謄本を取り寄せた姉は、物語のように
不思議な人間の関係を前もって知ることになる。

姉との電話口での会話の中で、もうすでに
いのちの本質はこれから知るであろうことを、
わかっているかのように、震えていた。

「お父ちゃんはな、戦地に行く前にな、
初めて自分の父親に会いに行ったみたいなんや。」

父は母との間に、4人の子をもうけた。
その中でM姓を名乗ったものは一人長男のみ、
こちらは養子にいき、姉妹は嫁いだ。
父はきちんとして結婚で生まれた
子ではなかった。

そのことはずっと前に知っていたけれど。
5月10日、近鉄で大阪に出向いた。

兄と二人だけで、電車での旅なんて生まれて初めてだ。
頭が真っ白な今年で64歳になる兄。
M家では父代わりの大事な柱だ。
なんせみんな父親と一緒に暮らしたことがないんだから。
父は別の場所で、別の家族と共に暮らし、
命を終えた。もうそれから幾年になるんだろう。
はっきり覚えていないけれど、
母が逝って6-7年過ぎたころに旅立ったから
もう16-7年になるんだろうか。

新しく会社を興し、事業に精を出していたころ、
父がなくなった。
「僕には父親はいない。」
かたくなな心が、誰一人にも葬儀のお知らせをすることを
避けさせた。

養子として入った家の父母にも来ていただくことを
遠慮していただいた。
兄の関係のものすごい数の参列者に比較して、
こちらは誰もみえない。

自分でもすさまじいばかりの固い心を
感じるほどだった。
こころのけじめだったのだろうか。
母が名古屋大学病院で、すい臓摘出の手術をした後日、
見舞いに来た父とひさしぶりにあった。
父が帰ったあと、母に聞いた。

「おとうちゃん、ごめんって言ってたか。?」

母はなんにも言わなかった。

今度の大阪行きで過去のすべてが今に来た。
家裁の待合室、兄と姉と3人で待つ。
同室には大阪の人々だろう、きつい関西なまりで
関西での鉄道事故のことを、ほほえましく話しあっている。
15分待つ間に、なんだかこちらとも打ち解けていった。
書記官の方が、開始を告げに待合室にみえた。
全員がいっせいに立ち上がった。
あれ一緒だったんだ。(笑)

書記官の方が示す順番どうりに着席。
父の父親(祖父)には5人の男ばかりの子供が
いた。本日は最後の子供(5男)さんの遺言書だった。
そして戸籍では実子として入籍を許された父は
次男だった。
この5人の男性から生まれた子供は15名。
びっくりした。

一気に10名もの血縁の存在を知ってしまったのだから。
もし5男さん(おじさん)に子供さんがみえたら、
決して会うことがなかったであろう人々。
「男の一滴って  すごいなあ。」
みんなでおじいさんのことを誉めた。(笑)

おそらくよほどのことがない限り、
2度と会うことがないであろう人々。
けれども血は確実につながっている。

父母をとおして最後の血縁のおじさんがなくなったのだった。
実は父には母とのあいだにではない男の子が
一人いる。
どうしてだか戸籍には、いったん離婚届けをだした父の
届けが受理されたあと、裁判所で離婚無効の訴訟が起こされ、
無効が成立したと記載がある。

おそらく父は離婚したかったのだろう。
そして母は必死に抵抗した。
母の死後、その男の子をM家の戸籍に
認知する手続きを兄がした。
立派だったと思う。

父は自分がされたように、
自分も同じことをしたのだった。
母は結婚前に言った。

「ええか、 女はつくってもなんにもいえへん。
けどなあ、子供は絶対つくったらいかん。」

ふだん無口な母にしてはものすごい決意の
言葉だった。

なぜだかやっとわかった。
血潮の恩が体中かぶさってきた。

なぜこの父と母を選んだのだろう。
いったい何を体験したかったのだろう。

父はなんて いやな役を買って出てくれたんだろう。
頭では手放していたはずの父親への思いの
最後の重しがカタッと外れた気がした。

父親との唯一の思い出。
高校時代アルバイトを頼まれたのだった。
寒い日だった。
父と一緒に車に乗って、
タクシー会社の業界新聞の購読費の集金。
しかもなんだか貰えにくい会社ばっかりだったと
あとでわかった。

学生服だけでコートがない姿を見て、
「コレ着てきなさい。」と太い編みの、ドテラのような
服を渡す。

恥かしかったけど、寒かったから着る。
父は集金会社から少し離れた場所に車を
止めて、こちらの首尾を待つ。

ドキドキしながら、大抵は二階にあるタクシー会社の
事務所を訪ねる。

「集金にきました。」と言うと、
すぐにはどこも払ってくれない。
なんだか事務員さんと所長さんとのヒソヒソ話の
あとで払ってくださる会社があったり、
「もう何ヶ月も前に断ったんだから、払えない。」
といったりのどちらかだった。
それでもお金をいただけた時は嬉しくて、
父の待つ車に飛んでいった。

二人でちっといたずらしているような気分だった。
たくさんのアルバイト料もいただいた。

小学校三年生から中学時代まで、
毎週のように生活費を受け取りに出向いた、
父の家の前を、今も通ることがある。
あんまり行きたくないことだったけれど、
適任者はこちら。
何時間も父の帰りを家の前で待ち続け、
やっと会えたら、「今日はだめ」。

25円の路面電車の往復キップの帰りの半券を
落としてしまって、太閤道りから瓦町まで歩いたり、
終点の覚王山まで眠ってしまって、
車掌さんに新栄町まで送ってもらったり。
それでも1週間分の500円をもらえた時の
家族の喜びが嬉しかった。
誰にも秘密にしておきたいことがある。
そう思います。

絶対に言えないこともあることでしょう。
葬式を誰にも知らせなかった非情の子。
入院中にやさしい言葉をかけてやれなかった。
末の娘の顔を見て、死んでいったね。

兄は立派な人生といわれる人間になりました。
もうあと3年働くそうです。

姉は家族で花屋さんしてます。
妹は家族仲良く、今はルンルンです。
僕は元気です。

自分への手紙として、書きます。
ほんとうは、なるべく隠しておきたいことです。
お父さん、ありがとう。
おかあちゃん ありがとう。

平成の最後の年 兄と姉は旅立った。

随想 伊路波村から89〜空気銃と祈り 001109

空気銃と祈り 001109
2000年11月9日 記

11月1日、仕入先会社会長の葬儀のため東京に出向いた。
寒い東京だった。

浅草東本願寺。盛大な葬儀は午後3時終了した。
名古屋から参列した問屋仲間のKさんとSさんに出逢った。
一緒に帰名することにした。

ひかりの11号車に乗り込んだ。グリーンが10号車だから、
ここは居心地がいいからだ。指定をとっていなかった。ドキドキ
しながら席の埋まるのをみていた。仮に陣取った13番のABC
席だけが横浜を過ぎても指定の人はみえなかった。ラッキー。

A席が私、B席がSさん、C席がKさんと座り、宴会が始まる。
ビール、ウイスキー、酒。酔いながら名古屋まであっというまの
時間だった。
実はSさんは、3年ほど前、倉庫と事務所をほぼ
全焼という体験をされた。そしてKさんは先の名古屋西区の
都市洪水で大被害を受けられた方なのだ。まさに火と水。
まるで火水(かみ)の横におかれた凡人の私であった。
話ははずみいつも笑顔をたやさない。そしてあいさつを
率先してされる。

火のSさんの幼少期のこととなる。
彼は62歳、還暦前から赤が大好きな方で、
今日も赤のネクタイにチャッカリ喪服が似合っている。

Sさんの小学校4年の時のできごと。空気銃がはやった頃の話。
Sさんは遊んでいる時、草むらの中の同い年のこどもの頭を
誤って打ってしまった。おどろいて、その子の家に知らせに行く。
おろおろして、どうしたらいいかわからない。

親御さんが、その子の親に謝り、子供等の事件であり穏便に話し
がついたようだった。打たれた子供には重度ではないが障害が
でた。Sさんは父親に言った。「僕はあの子にどうすればいいんだ
ろう。」父は応えた。「子供のお前に何もできない。
あとはワシがやるからお前はあの子のために祈りなさい。」と。
そしてSさんは小学校4年のそのときから62歳にいたる今日迄、
仏壇に水と米を毎日そなえる。そしてその子の為に祈ってきたの
である。いつも笑顔で元気でとっても年令62歳にはみえない
Sさんにそんなことがあったのだった。

翌2日、ある集まりの二次会の寿司屋さんでこんな話をしていた。
そして翌日、この話をきいてみえたT子さんからメールを
いただいた。グッときた。
                     
 山田さんがお話された空気銃のお話を聞きながら、私は母の
 ことを思い出していました。すごく前に母がサラリと
言ったことを 自分の頭の中で膨らませてそれを事実と
思っているかもしれないので、そのとき言いませんでしたが、
今朝母に確認してわかりました。

 そしてもっといろんなことも。
 実は、母も昔、空気銃で頭を撃たれたことがあるのです。
近所の子供が 二階から遊びで撃っていたのが、
母の頭頂にあたって、気を失って倒れた そうです。
そのとき私がお腹の中にいたそうです。

(それは今日知りました)大量の出血がありそして弾が
頭に入ってしまったため手術をおこなったそうです。
 近所の人や、親戚はすごくおこったけど、相手が子供で
将来があるから ということで、父も母もおおごとに
しないようにとまわりの人に頼んだそうです。
幸い目にみえるような後遺症はありませんでした。

 随分前に母が「寒いと空気銃でうたれたところが痛いわ」と
サラっといったのを聞いてすごく驚いて、
どんなことがあったのか聞き出してもっと驚いて
「母を撃った人はなんていうやつだ!」と
すごく頭に来て、「ひどい人だね!」と私はおこってましたけど、
母はニヤニヤするだけでじれったい 気がしました。
昨日の山田さんのお話を聞いて、撃っちゃった人もすごく
苦しんでいたんだなと思いました。

そんなこんなで今朝は空気銃の話題だったのですが、
母は「あの子も何歳になったかなあ。あんたよりも年上だわ。
今何やってるかなあ」と言っていました。
T子拝                                     

再録 随想伊路波村から90~何処へ 020911

光を語ればすべては見えない。

私たちは見える所に生かされている。

ビルの端にかかる夕陽をみると
ビルの一部が消えてしまう。

あまりににぶいそして粗い光の中で
生かされているから物がみえるのだろうか。

アンデルセンの久村さんが壁に腕を通した。
そして抜いた。

私たちのまわりのいつもあるものってなんなのだろう。
明日がくると無意識下に信じているから明日がくる。

明日はこないと思う人には明日は来ないかも知れない。

今ある物体が400km離れた知らない場所に瞬時に
置き換えられる。空間って、時間って何だろう。

三次元をはるかに抜き越えた多次元からみれば
そんなことはあたりまえかも知れない。

ここまできたらそして一緒にいるから、
意識をつなげていようよ。

意識のチェーンで輪をつくろうよ。
せっかく会ったんだから。

過去と呼ばれるあらゆるできごとも、
未来と呼ばれるまだ見ぬ出来事も、
みんな今、一人が創ったことだろうか。

限りなく孤独であって、限りなく満ち足りた
すべてのあなたよ。

一人しか,ひとつしか存在がないのです。

随想 伊路波村か91〜感じるものこそ 030225

感じるものこそ 030225
「感じるものこそ大切です」

人生のあらゆるシーンを体験する私たち。
さまざまなことに心を動かされ、行動する。

仕事でのこと、集いでのこと、映画、演劇、コンサート。
そしてさまざまな方のお話。

感動が起きた時、人は行動に移す。
けれども感動がうすれるころ、人は離れる。
そして次のステージへ。

追いかけても追いかけても得がたいものは?
そして追いかけるほど得られないものは?
あらゆる感情や感覚を抜き超えたものは?

おそらくそれを体験した時、ごうごうとした光の中で
感謝がっぱい溢れ出すことだろう。

そしてそれからの人生は一変するのかもしれない。

「どこへ行くことも無い。汝の戸をしめて祈りなさい」

イエスはそう語った。
求めに求めてさまざまな場所に旅をし、
さまざまな人に逢う。

それが徒労だといいたいのだろうか。
感動もいのちの震えも感謝も、決して強制が
できるものではない。

「感じることこそ 大切です」

私たちの個性の旅は続いている。