随想 伊路波村から99~末っ子

末っ子
昨日の25日、台風が接近する午前に
末っ子娘がオランダへ旅立った。

欧州一ヶ月間の旅立ちの日。
一人旅だけれど、現地には各地に
ともだちがいるようだ。

身長167センチ、体重48キロだから、やせている。
それなのに、長男に借りた大きなリュックを背に、
小さなリュックを前に、子供を抱えるような姿は
倒れそうにみえる。
細い腕。

この子の小さい時は、驚くような事件ばかり。
親戚の家の2階へ,知らないうちに階段を
あがって、のぼりきってしまった、ハイハイあかちゃん。

旅にでたり、どこかへ日帰りで遊びに行ったりするときは、
いつもしっかり見ていないと、瞬間で消えてしまう。

2,3歳のころ、動物園でも消えてしまって、園内アナウンスされた。
迷子あずかりどころまであわてて行くと、
イスにちょこんと腰掛けて、ニコニコ顔で、

「おそかったね。」

お風呂の水を洗濯に使うのに、
廊下をバケツいっぱいにして運ぶ力持ち。
「かっちゃんは、力持ち!」
なんていってた幼少期。

いつもニコニコの末っ子だけど、怒るときがある。
それは、あたりまえのことを、他人から指示された時だ。
決してこの子には指示しないこと。

将来伴侶となる方には、内緒でお伝えしたい。(笑)
大学も学費援助される以外は自分でかせいだ。
学校の選択の時には、

「地元にする。だっていつまでみんなと一緒にいられるか、
わからないもの。」って言う子。

一年留年してカナダに語学留学するときも、
今回の一ヶ月旅行も、費用はアルバイトで全額を
稼ぎ捻出する、おそるべきパワーを持っている。

ちいさな時から兄弟4人のうちで、いちばんチビなのに、
一番お金もちのしまりやさん。
兄弟への金貸しだ。
戌年だからかな。

旅立ち直前の彼女のブログに家庭風景と彼女がみえている。
兄弟4人、みんなちがうけど、みんなやさしい。

今日の幸せ♪ [2005年08月23日(火)]
朝起きて、バイト行ってお昼前に帰ってきました。
ごはん食べたら、朝早いためか眠い!!
ママサンがお昼寝していたので 添い寝だ添い寝だ~!!!
 と騒いでいたらママサン
添い寝なんてアツイからやめて
クー–ル~な一言。。
めげずに隣でお昼寝しました。

一人でわくわく☆話していたら、またまたクールな一言。
うるさいからあっちにいって。
そんなこんなでも幸せ幸せ~♪

起きて大学へ行って、卒論の文献探し。
ねばってもなかなかよい文献がみつからない。。。
友達がワタクシの大好物のさぬきうどんちゃんを
大学まで持ってきてくれた!!あーなんて幸せなんだろ~☆

こんな普通の出来事がしあわせの種なんです。
13年前の普通のお話です。

末っ子は今は二人の男子に恵まれ、もう一人お腹に滞在中。
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現在は三人の男子のお母さんです。

随想 伊路波村から100〜動かない物

旅に出て、平原の風にそよぐすすきを見る。

そこに立つ木を見る。

そして動かぬ巨石を見る。

木の枝や葉は風に揺らされるし、
もちろん植物も揺らされる。

でも石は風に吹かれるだけで、
ずっとそこにある。
私が死んでもそこにある。

そんなことが悲しくて、
涙ぐんだ秋の夕方もあった。

だけれども、よく考えた、つまらんことかも
しれないけれど。
この世に回転していないものはない。
原子一個から、地球や、巨大銀河系まで。
そして無限宇宙でさえ。

だから同じ場所、同じ空間はない。
巨石だって、動いているんだ。

地球に乗って、一緒に旅しているんだ。
そう考えたら、気が楽になった。

石がかわいそうでなくなった。

人間の勝手な思い込みは続く。

随想 伊路波村から101~祈るしかない

世界の遠くにおきた自然の猛威で
いのちを亡くした多くの人々に対して、
私はこの日本という国に、今いのちをいただいてあるということに
感謝して、ただただ人々のことを祈るしかありません。

人生でおかした数々のことがらと、縁づいた人々にも、
お別れした多くのいのちにも、
今ここに元気であることに感謝して、
ただただ祈るしかないのです。

随想 伊路波村から102〜人生の岐路

人生の岐路

人は人生のうちに幾度か岐路にたつもの。
その岐路に立った人の結論を、たくさん最近知った。
最後の岐路は、いのちのある、かたちのある死ということ。
親との別れ。
毎日一緒に暮らしたのだったら、なおさらつらいものだろうに。
だれもが体験することだけれど、
わかってはいてもつらいものだ。


なくなる方にとっては岐路じゃない。
一応の終着駅。

人生の岐路はたくさんある。
何を持って決めるのかで、
毎日岐路に立つ人もいるのだろう。
それとも毎瞬が岐路。?(笑)

自分が信じて進んできたことが、
世の中に受け入れられなくなって、
事業としてなりたたなくなる場合は
事業の消滅となる。

大好きなことで、毎日仕事ができて時間を
すごすことができる人は幸せ。

アップルの創始者は、「朝起きてワクワクしなくなったら、
道を変えなさいということ。」と言った。
この時代にあって、ほんとに必要なことを
みんなしているかというと、なんだかゴミみたいなことばかりの
気がして。自分も含めて。
そう、この国は戦後、流通という分野でもって(代理店、特約店
取次店、小売店)利益を分けっこしてきたんだから。
その流通が、インターネットで直接販売によって、
かなり排除される。
そして人口減少で、需要そのものの減少と変化がある。

今日、昔若いころ父の車を専属に営業に来た
日産の営業の方が、会社に久しぶりにみえた。
風貌は見る影もない。
からだをこわさなければいいがーー。って思わず感じてしまった。
生活のために、子供の将来のために、
ほんとにやりたくないことをだまってやり続け、
人生や企業としての勝ち組に入りたい。
こんな思いをだれが非難できようか。
生活の陰がみえるのだ。

誰もが死ぬときわかるのだろうか。
何が正解か。
それとも命への未練がすべてを隠し、
そんなことさえ考えられないのだろうか。
まあいいか。
誰もが一度はいけるのだから。

8月が終わる。
この夏が行く。
そして人生の新しい出発を、多くの方が迎える。
みんな生きているんだ。
思ったようにやればいいよ。
自由より自在。
誰かが言ってた。
いい言葉だな。
正解なんか、わかりません。

墓場まで・・・

お人に言うことができないことって

どなたの人生でもあります。

それからどんな家庭にもあるのでしょうか。

誰にも言えずに墓場まで持って行きたい。

でもそんなことがあるって言えただけで

大きな曇りは消えて行くようです。

随想 伊路波村から103〜スエさん

「スエさん、死んじゃったよーーー!」といってボロボロ涙を
こぼす父。

「俺がかわりに行けばよかったんだわ。」
しゃくりあげている。

「めずらしいね。」といって家内と顔を見合す。
10月1日、土曜日に帰宅直後の出来事。

スエさんは、町内のステーキハウスの社長さん。
年はたしか75歳にはまだ1-2歳あったと思う。
急な報せにちょっとビックリ。

スエさんの奥さんの方が、病気がちで、
スエさんは看病もっぱらの日々。
とても陽気で、町内でも人気者だったから。

末夫さんが本名だったから、スエという名の店に
したのだろうか。

いつも黒塗りの乗用車がズラッと駐車場にあって、
私たちにはすこし敷居が高い店。

ボーンステーキは一回は食べるといいなあと思う。
12000円するから4人くらいで、すこしずつ。
おいしすぎる特選の松阪牛。

スエさんには特技があった。
裃(かみしも)を着て、ちょんまげを結って、
口上をいいながら、もちつきをするのだ。

その口上がちょっとエッチで、観衆には大うけ。
だから若いころには、全国のホテルや結婚式に呼ばれていった。
ステーキ屋さんよりも多く出向いた年もあったとか。

こちらが40代のはじめ頃までは、なるべく町内のことには
タッチしたくなかったし、時間的にできなかった。
PTAの関係や町内にある山車の縁で、
どうしても町内の行事にタッチせざるを得なくなった。
そして、スエさんを知った。
スエさんはきっと末っ子。
田舎から出てきて、一代で素敵な、有名なステーキ屋さんを
築いた。

ちょうどスエさんを知った年くらいから、
町内の白龍神社さんでスエさんが大晦日の
餅つきイベントをするようになったのだ。
息が詰まるような町内の常会でも、
スエさんのおかしいような一言で、
みんながゆるんだ。

本音の人。
スエさんがいたからこそ、
町内のことにタッチしてもいいなって思ったんだから。

父は84歳。
スエさんのあまりに若い、急な死に、思わず
「ワシが逝けばよかったんだ。」って言葉が
でたんだろう。

昨日2日は告別式。
父と家内と3人で参列。
式場に入るとなんだか、もういけない。

車椅子のおくさんに挨拶する。
なみだがボロボロ出てくる。

蝶ネクタイのスエさんが喜んでいる。
「あんたの嫁はん、うちのと一緒の名前やからな。
なんだか他人には思えんで。」

美佐子さんは、いつものように微笑みを絶やさない。
さすがはスエさんの嫁はんや。

しっかりやるでスエさん!!
ありがとうスエさん!!

随想 伊路波村から105〜人の役に立って旅立つ人

17年前、テナントビルを建てる事を決意した。

都会名古屋のオフィス街。
住む人々は都会を離れ、町内の少子高齢化は
一段と進んでいた。

なるべく長く、親族が争わないように、そして都会の土地が
多くの人々に利用されるようにとの願いを込めた。
そして17年が経過し、その願いどおり多くの方が毎日
ビルに足を踏み入れるようになった。

一階正面から上り階段で入れる2階には、
当初電力系のポケベルの会社が入居した。

そのご縁で会社の新しい事業として、移動体通信を
取り扱うようになっていった。
情報の世界へ足を踏み入れる
きっかけとなったのだ。

全国でも次第に増えていった電力系のポケベルは
NTTのそれより値打ちで人気も増していった。

販売の営業にはさまざまな職種の方が
新しい事業と位置付けて参入してきた。

私たちとともに販売に携わった人に、縁戚にあたるMさんがいた。
彼は自動車の修理工場の経営者。
いつも会社を訪れるときには、その弁舌の爽やかさ、
持って生まれた営業の才覚は修理工場の経営者より
優れていると思えたから、
代理店をお願いすると快く引き受けてくださった。

かれはやはり思ったとうり、新しい事業にとても力を入れた。
そしてポケベル獲得数はこちらよりもはるかに多かった。

だが時折見せる体の不調なようすを隠す事はできなかった。
修理工場を訪ねたある日、私は奥様にそれとなく
たずねてみた。
奥さまはしばらくおしだまったあと、こういった。
「主人はほんとはガンなんです。白血病です。」

なんとなくの予感はあたった。
それでも彼は余命がほとんどないといわれていたにも
かかわらず、新しい仕事にいのちをもやし、
体調が回復し随分元気になられて、5年がたった。

その間に土地をてあてし、マンションも建設する。
自らも住むマンションもでき、嬉しそうにそのことを語ってくれた。
もちろんマンションの建設業者はポケベルの一番の需要家になる。

そんなある日奥さまから入院の知らせ。
白血病の悪化。
お見舞いの日、部屋に入りつとめて明るく話すこちらの目をみる
こともできず、無念さにだろうか、背をむけて恥ずかしがった。

それからおよそ10日後彼は逝った。
思い出多い修理工場で行われた葬儀に参列。
奥様は気丈に話かけられた。

「うちのひと ほんとにい仕事ができてよかった。
ポケべルでみんなによろこんでもらって、
寿命が5年ものびたよっていってました。」

とボロボロ泣きながら。

ビル建設から18年目を迎えた今年、
今はポケベルの会社はなく、その部屋には美容室が入居している。
上弦のおぼろ月がビルを照らしている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そしてその15年後の今日 会社の本社となったのです。

随想 伊路波村から106〜娘とのデイト

 

「しのちゃん行く?」
「明日10時からあるからなあ。
でも 起きれるかなあ。--」

しばらく 長女は考えて、「行こか!」
そんな会話が前夜にあった。

4日 ナゴヤドームの中日ー横浜 野球の話だ。
毎年このお盆の頃になると、立川に住む妹の家族が、
故郷の名古屋近辺の兄弟の家を転々とする。

3日と4日は山田家宿泊。
2人の子供のうち長男は今年はこない。
さすがに今年の春就職したから。
それでも去年までは20歳をすぎても毎年
ついてくる なんとも素直な長男さんであった。

3日夜話しているうち、妹の友人から電話。
それがナゴヤドームのチケット2枚のことだったのだ。

ところが4日は名古屋に始めて開院した
「むつう整体院」金山に出かける日。
そのあと終ってから、ドームにかけつけることにした。
むつう整体で グッスリ眠ってから 5時すぎ地下鉄で
ドームへ向かう。

「ねえ 幼稚園のあの モンキーセンター以来だね。
しのちゃんと2人で ちゃんとデイトするの。
ほら しのちゃん”ほうそう”で、幼稚園の遠足
行けなかったから、おとうさん かわいそうにと
思って 二人だけで行っただろ。?」

「わたし それね 覚えていないの。」

「しのちゃんね 電車のイスにもたれることも
なくて 背筋をしっかり伸ばして 黙って座ってたよ。」

そんな会話をしながら、ドームに着いた。
夕食、飲み物を購入し座ったらすぐにプレーボール。
直ぐ前の席には元気のいい若いママさんと、
1歳すこしの 目がクリッとした可愛い赤ちゃん、
そしてそのおばあちゃんの3人づれ。

若ママはビールが手伝ってか、
しきりにこちらに振り返って話し掛ける。
ナチュラルハイテンション。
子供もこちらにちょっかいかける。
おたがいだったけど。(笑)

そして遅れて着席した右席の父と小学生の
男の子コンビは熱烈ドラゴンズファン。
後ろの席の団体らしき人々も熱烈。
その父親はドラゴンズの選手一人ひとりの
応援歌を全部暗記しているのだから。(笑)

ドラゴンズに点が入ると、周りの席だけ大爆発。!!
みんなが一斉に「この席はええなあ!!」
なんせ生まれてはじめてのネット裏の超高級席だったのだけれどーー。
外野席のような盛り上がりなんです。(笑)

「お父さん いつもみたいに燃えないね」
娘が聞いた。
「なんだかね点の取り方がね。
四球、とスクイズとエラーで3点でしょう。
相手はスカッと二塁打で2点でしょう。
こりゃ負けてもしょうがないよ。」

それでもドラゴンズは1点勝っていて、
9回1死まで見て、ドームを後にした。

次の予定を2人で野球観戦中に作ってしまったから。
今度は名古屋駅前のプライナスライブだ。!
9時30分をすぎている。
駆けつけると、やってるやってる。
妹 母娘も来ている。
100人ほどの人々。

テレビ出演と夏休み効果か 新しいお顔も多い。
「もしかすると トニー?」
外国の方のお顔もみえた。
トニーだった。(写真)

実は ご存知の方もあるでしょうけど、
驚くべきお話がトニーのご縁であったのだ。
この2月、オーストラリア人のトニーは
名古屋に来た時、プライナスのなな下ライブに遭遇する。
すっかりまいったかれは、翌週にも来て、自慢のキーボードで
ゲスト出演。 プライナスの大ファンとなった。

そして再来日して今日水曜日、なな下ライブに来たのだった。
最初の出会いから帰国した彼は、オーストラリアで
一人の日本人女性旅行者と出会う。
仲良くなってドライブ中、かけたCDが「イマジンルール」。
そして帰国したその横浜の女性が、プライナスあてに
メールを送り、CDの要望とオーストラリアでのトニーのことを
伝えてみえた。

それだけでもプライナスは感激したのだったのだが
後日談がつい先日、プライナスの掲示板に載った。

プライナスのボーカル マミちゃんの妹の一乃ちゃんから。
なんと今 カナダのトロントに留学している一乃ちゃんと
その横浜の女性は前からの友達だったのだ。
なんと狭いこの世界。
必然の出会いの妙は イキです。

今日もゲストでトニーは演奏と歌。
「テルミー」
彼のやさしさが伝わってきた。
また来週も来るという。

ファンの一人ヒデオさんが携帯をもって叫んだ。
「ドラゴンズ サヨナラだ!
11回 5対4!」
「イエーーーッ!!!」
こんなところで今日一番燃えたよ。

さまざまな知り合いとお別れ。
妹たちと 徒歩で家路についた。
「イネイト」「ドラゴンズ」「プライナスライブ」
午後これだけを 長女とともに過ごした。

思えば少し気が落ちた時、朝散歩したり、
空いた時間に公園にでかけたり、
家族と一緒に遠出したりはたくさんあった。
でも2人きりのデイトはあの幼稚園の時以来。
なんだかいっぱい2人で遊んだ日だった。

寝床で横たわった長女がぼくを呼びとめた。

「お父さんーー 今日はありがとう。」

ぼくは 小さくうなづいた。