随想 伊路波村から107〜不思議の始まり

幼き頃、母親に手を引かれて私と妹はよく
あちらこちらの宗教団体の支部に顔をだした。
何もわからない私たちは、静かにしていることが
仕事だった。

数々の宗教を遍歴した母はきっと、その信仰を
支えにしたからこそ、生活がやりきれたのだと思う。

「人の役に立つ人間になれ」が母親の口癖。
そしてなにか辛いことにあうと「苦あれば楽あり 楽あれば苦あり」も。
時には霊能者の前で泣き崩れる母の姿を
子供たちは目撃することになる。

母の宗教遍歴は死を迎えるまで続いた。

母の通夜、妹の長男はワイワイと泣き止まない。
「おばあちゃんがいる おばあちゃんがいる」
あまりのことに、妹は長男を連れて家にもどったが、
通夜の場所を離れてしばらくすると、泣き止んだとか。

まだ母親が元気な頃のこと、私は名古屋で仕事をするようになり、
帰名していた。
少し心を病んだ妹が3ヶ月も家出したままで、消息不明と
母から聞いていた。

丁度同じころなぜか右の肺の下が息を深くすると
痛んだ、それはやはり3ヶ月も続いたのだった。

仕事の上のストレスか変な病気かもしれないと不安だった。
完全に唯物主義の自分だったが、もしかして妹の消息が
わかればと、お客様のご紹介で「人捜し不動」と呼ばれた
お不動さんに出向くことにした。
そこは床屋さんだが、おばあさんがその
床屋さんの裏の家でお不動さんの信仰をしてみえて、
相談にみえる人々にピタリとアドバイスをすると聞いていた。

特に行方不明の人間を捜すことが得意で「人捜し不動」とよばれていたのだった。

ある日曜日、そのお不動さんの予約をとり、三重県の菰野町へ
出向くことにした。胸はあいかわらず痛んでいた。

車で東名阪四日市インターを降り菰野方面へ向かう。
そして国道を走り、お不動さんのある部落への道へ右に
曲がる。そのとき突然といってよいほどに、長い間痛んでいた
肺の痛みが消えた。えーーーってビックリふしぎだった。

それでとても嬉しく、心が軽くなってお不動さんに着いた。
順番がきて、おばあさんの前に座る。

名前と生年月日を書き、捜す人の名前と生年月日も書く。
「何を聞きたいですか?」とおばあさん。

「3つ あるんですが。」

「ひとつは胸がずっと痛くて なぜかわからなかったものですから。
そう思っていたら、ここへ着く少し前に痛みがきえてしまいました。」

「それでいいんじゃ。 あんたがここへ来ようと思ったときに
ほとんど治ったんだから。」 とおばあさん。
「?」

「ありがとうございます。それからあとは3ヶ月行方不明の妹ですが
みつかるでしょうか。 それと最近仕事を変えたんですが、
私は口下手で営業の仕事にむいているのかどうかわからないのです。」

「仕事のことは自分で決めなさい。
大丈夫。なんでも出来る!」

「それから妹さんのことだがちょっと待って。」といってなんだか
古い書物を開き、紙にいろいろと書き付けられたあと—。

「あのね 心配せんでいいです。3日以内に連絡させるから。」(?)
こんなやりとりの後辞去した。

半信半疑だったが胸が治ったことは事実だった。

家に戻り母にその旨連絡する。
そして翌日になった。
母から電話。
「あのね今連絡があってね。
居場所がわかったから。
心配せんでいいって言っとったから。」

「エー? ほんとだったんだ! なんてこと!」
このときほど驚いたことはない。

そしてお不動さんのおばあちゃんに早速お礼の電話。
おばあちゃんは ただ「よかったね。」でおしまい。

その後妹はその時一緒にいた男性と結婚した。

不思議なことを信じざるをえないことの
始まりとなった「人捜し不動」。

そのときのおばあさんは亡くなり、後を継いだ息子さんが
あったが うまくいかず今お不動さんはやっていないと聞いた。
それから30年が経っていた。

春、桜吹雪が舞う昨日、その妹からケイタイに電話。
「あのね長男がね、初給料が出たといってね、
10万円しか手取りがないんだけどね、
5万円もくれてね—-。」

「よかったね。嬉しいね。」と私。
歳月は人間にさまざまな体験をもたらす。

ふしぎが、奇跡がこの私たちのまわりの全部を
占めているんだと、このごろようやくわかりかけてきた。

三重菰野町とは今も他のことでとても
深いご縁が続いている。

不思議は止まることをしらない。

随想 伊路波村から104〜母は神様

母は神様

日曜日。
師崎の朝市の場所で夕暮れ時に
バーベキュー。
火をおこし、食材を整える。、
朝から釣りにでて、成果をいっぱい抱えた
男たちのほこらしそうな顔に
さばかれる大量のサバ。
そのサバに無心にカレー粉と小麦粉を
まぶす若いお母さん。

娘さんたちに、「お母さんって。焼きそば
すごく上手なのよ。!!」って
はやされて、やっぱりやってしまう同じお母さん。
語らずに動く女性は、それだけで神様。
男は飲むだけだ。(笑)

月曜日。
海の日の結婚式。
出会って半年で結婚。
姉さん女房は、伊勢神宮の元宮司さんの娘さん。
会社の元同僚だった彼女のお母さんが
真っ先に式場で近寄ってみえた。
「よかったですね。」
そういうのが精一杯。

世界のあちらこちらを自由に旅する女性。
お父さんのところに、時々届くたよりには。
海外のどこかに住んでいることを告げているだけ。
「96歳になる伊勢のおばあさんの容態が
いつ変わるかもしれないので、先方さんに
ご無理言って結婚式を早めていただきました。」
と、おとうさん。

会社を去る娘さんの荷物を引き取りにみえた日、
こちらの自宅にご挨拶にみえたごようす。

車越しにはるかにすれ違ったお父さんに心で手をあわせました。
ありがとうございます。

結婚式で娘さんを思いながらも、多くを語らぬ父親。
式の最後、ご両親への感謝の言葉は、もっぱらお母さんへ。

「小さいころ、ちっとも言うこと聞かない子で、
遅くなっても帰ってこない私を探しに来てくれて、
遊び場にいることを確かめたら、黙って去って、そっとしておいて
くださったお母さん。あとでそのこと知りました。」

母親は神様です。

随想 伊路波村から108〜川奈ホテル

毎年この時期に開催される、プロゴルフ競技の
フジサンケイクラシック。

今年の優勝者はアメリカのハミルトン選手だった。
テレビ画面の中での優勝インタビュー。
彼は何度も胸を詰まらせていた。
5年ぶりの優勝。

奥さんと娘さんがアメリカへ帰り、
単身赴任のかたちで、日本ツアーに参戦している。

長い間勝利がなかったこと、
そして家族と離れて暮らす孤独感にたえた
歓びと感激だったのだろうか。

選手はこのフジサンケイクラシックの時は
ほとんどが クラブハウスでもある「川奈ホテル」に宿泊する。
「川奈ホテル」はゴルファーなら一度は宿泊して、
ゴルフをしたいと夢見る場所。

このホテルには楽しい思い出がある。
今から15年ほど前のこと。4人のゴルフ仲間がいた。
4人は仲がとてもよくて、月に一度はいっしょにプレーした。
そして年に一度はゴルフ旅行で宿泊2ラウンド。

徹底的に足の引っ張り合い口撃をしてチョコレートを
奪い合う、楽しい仲間たち。

最初に70台を出した人をみんなでクラブ(飲み屋さん)に
連れて行こう。とかシングルになったらお祝いしよう とか
約束していた。

4人がみんな100をきるように丁度同じ時期になった。
いつかは川奈へ。 夢が叶った。

川奈ホテルはさすがにクラシックな建物。
部屋も落ち着きのある白壁の部屋。
そして到着の日、初ラウンド。
さすがに川奈コースは難しい。
ケチョンケチョンのスコアで一日目はみんなに
チョコレートも総とられとなった。

夕食はとてもレストランで食べる余裕がないので
町にでて、地元の海のさちでたくさん飲んだ。
ゴルフの話はキリがなく、楽しい。

ひそかにみんなが良いスコアと勝つことを狙って
川奈ホテルで就寝。

翌日、意気洋々とラウンドにでかける。
川奈の風は聞いていた以上。

逆風のテイーグランドでのナイスドライバーが100メートル。
ハーフを終えて昼食。レストランもクラシック。

給仕のボーイさんが真っ白な正装、蝶ネクタイすがたで、
3人直立して我々の食事を見守る。
客は我々一組だけ。

カレーがたしか2500円くらい、ビールは小びんで1200円だったか。
ドキドキしながらみんながカレーを注文して、楽しみのビールを小びんで飲む。
追加をしようとすると、みんなの冷たい視線。(ワリカンだから)

ボーイさんたちの姿がカレーをのどに通さない。
クスクス笑いながらの食事。 川奈はすごい。

昼からの最後のハーフラウンドも惨めなスコアで終了。
結局は負け頭となってしまった。

伊豆からの帰路、二日間の話題に花が咲く。
ゴルフをし始めて一番楽しいのが100を行ったり来たりする頃。
そのもっとも楽しい時期を、気のおけない仲間と川奈へ
行けた歓び。

そのうちの一人はもうこの世にいない。
若くして病に倒れた。

そして川奈から7年後、一人がシングルになり、
残りの2人はともに70台をだした。

そして自分はゴルフをぴったりとやめた。
もう昔のゴルフ仲間との付き合いはない。
フジサンケイクラシックは四人の仲間の思い出である。

随想 伊路波村から109~人(霊止)がもつ無限性 信じるものは・・・・

20数年ほど前に友人のIさんのお誘いで、
名古屋観光ホテルでの昼食会に行きました。

「経済界」という月刊誌の主幹であるSさんという方の
集いでした。
昼食はカレーでした。

その方は高名な方らしく、ご自分でしゃべることは少なかったですが、
最初に少しお話された後皆さんからの質問に答えるという形式の集いでした。

その最初のお話の中で良寛さんの話がでました。

ご自分が脳卒中で入院中のことです。
将来に絶望していた入院中にベッドで本を読んのが
たまたま良寛さんの本でした。

「病む時は病むがよろしく候。

死ぬときは死ぬがよろしく候。」

この短い言葉に生きる勇気が湧いてきたとその時に
おっしゃいました。

先日の宇宙力の河崎さんは人間はどんな人でも
無限の力を持っていて、自分で自分を癒すことが
可能なんだと教えています。

そしてもう死の寸前にいる方でも、その方のもつ
無限力を呼び覚まし、快方へと向かわせます。
もちろんその方の力でです。

人間は自分の身に何か不安な、何か認められない、
何か受容できない、何か我慢できない、何かとても悲しいなどなどの
できごとを心が気にしていますと、体とか精神に不調が出ます。

そんな時

「なんでもかんでも ぜ~~~んぶおまかせ!!」と

叫んでください。そして大笑いしてください。

このように河崎さんはおっしゃるのです。

このことってまさに良寛さんの全部おまかせの言葉

「病む時は病むがよろしく候。

死ぬときは死ぬがよろしく候。」

これと同じと感じました。

何十年もたってやっと身にしみてわかりました。

「なんでもかんでも  ぜ~~~んぶ   おまかせ!!!」

わっはっは!!!

自分もすぐに実践しました。

「半年ほど続いている肩の不調はない。
なんでもかんでもぜんぶお任せ!!」と大笑いしたら
ただちに痛みが消えました。ビックリです。

今朝東京の妹から電話がありました。
気のいい、面倒見のいい妹の性格です。

最近いろんなことがあって帯状疱疹の痛みに苦しんでいたようです。

そして昨夜眠っているときにものすごい痛みがでたようです。

「だからねお兄ちゃんにね昨日聞いた あれ やってみたの。

そしたら何! 痛みが消えちゃって 朝になっても痛くないの。

ビックリした。」 そういう電話でした。

みんなにも話してみるようです。
ますます変な人と思われることでしょう。

人間って人(霊止)ていって、霊(エネルギー)が
固まってできたもの。
だからエネルギーそのものだから凄い力を持っています。

ただ信じるか信じないかだけですね。

ほんとうは何にも いらないんですね。

随想 伊路波村から110〜資源

資 源 030512
自分にとっての資源ってなんだろう。

10年前、懸命に資源を思い浮かべたことがあった。
100ケ。

自分の長所と思われる事をまず浮かべた。
そして自分のまわりの人々のいいところ。
家族 職場の人たち、地域の人々、友達、
同窓生、ネットワークの人たち、などなど。
さらに自分のおかれている環境に感謝した。

考え考えてでも80ケ。
はたと詰まった。

そして早朝の窓から、ふと外を眺めた。
そしたら涙が出てきた。
なんという傲慢。
なんという浅はかさ。

思えば今活かされているこの今という
空間に存在するすべての全てが
自分にとっての資源じゃないか。
無限のものが資源だった。

こんなことに気づかない自分だった。
人生のあらゆる舞台では、この事を忘れやすいもの。
湧き出た感激こそ本物だ。

どんな人が目の前に現われても、
資源と呼べるようになるには遠いかも知れない。
だけれど、一歩一歩歩いて行こう。
生を全うする頃、教えが湧き上がるかも知れない。

随想 伊路波村から111〜生きているだけで

「もう生きているだけでなんでもいいよね」

家内がポツリと言った。
それで我が家ではほとんど子供は野放し状態。
むしろ人間を一目でみぬく末っ子娘や
奥底の状況を知る長男。
みんなの自由や幸いを祈る長女や次女に
教えられてばっかりいる。

なにか事がおきれば瞬時に結束してことにあたる
家族全員。ちいさな口争いはあっても、おそらく
憎しみあうようなけんかは兄弟の間でみたことがない。

「命さえあれば」を合い言葉に、変化してやまない
関係を旅する家族。
この家族が大好きだ。

随想 伊路波村から112〜達するものは静かに歩く

達するものは静かに歩く 020930
26日鏑射寺の客室にいた。

http://www.kaburaiji.or.jp/houwa/bn_top.html

中村公隆様とS氏のお話に立ち会う時間だった。
テーマは「日本国家100年の計と日本人の在り方」
むつかしい。

この難しい会談をお二人はジョークをまじえて
絶妙な時を創り出した。
一時間の予定が引き止められて、二時間におよんだ。

「大日本国」

古から大日本国と呼ばれたこのくにの意味は、
その字の意味するとおり、大日如来の元の国。
すべての根源の根源の国。

アメリカも最初はいい国だった。
イギリスの清教徒たちがメイフラワー号に
乗って、東海岸についた。そして新しい土地で神をさがそうと
した。しだいに西へ西へ開拓を進め神を探した。

途中金鉱がみつかり、清教徒とは異なったお金だけの目的の
人々がアメリカへ押し寄せた。
そしてさらに西へ向かい、西海岸にたどりついた。
それでも神は見つからなかった。

人々は4っつの教典に共通する記述の「バベルの塔」に
切り替え高いビルを創り出す。東海岸より先に。
それでも神はみつからず、さらに海をこえて
ハワイ、日本にむかう。そして世界大戦。

日本でかれらは神をみつけたが理解できなかった。
わからぬままに朝鮮戦争、ベトナム戦争。

日本にであってやめればよかったのに泥沼に入った。
アメリカの最初の精神は敬虔であったのに。

「大丈夫です日本という国は」が和尚様の結論だった。
「日本国民の在り方」
ひとこと。「楽しく生きること」

「穏やかに光耀いていきる」が和尚様のいつもの言葉。

「達する者は 静かに歩く
そして遠くまで行く」

「廻るこまは止ってみえる
回り切れていないこまは ゆれている」

宝のようなお言葉だった。
密教のことはよくは知らないがすべての教えをすべて
包み込む教えのようだ。高野山には敵も味方も
宗派をこえた人々の墓がある。
「いつかは高野へ」

法然さんや親鸞さんの墓もある。どうも生前法然さんは
高野を訪れた形跡がある。

「南無阿弥陀仏」浄土宗比叡山の冷たい仕打ちに
失望した法然さんは高野を訪れる。
そこで「三密加持」(身口意 行動言葉思いの一致)
の密教とちがう一密加持(身口意の一つでもいい)の
教えに出会い、密教の広い教えを知る。そして密かに
死んだら納めてもらう墓地を決めたようだ。

すべてをゆるし認め合うこと。
「護摩の木や願いの意識はもえたらどこへいくのか」
私たちはなんなのでしょう。

億万年のあってあるもの、すべての情報を
一人ひとりの人が全員すべてもって
今という時に生かされている。
すべてのすべての先っぽにあるのが自分の姿なのかもわからない。

随想 伊路波村から113~それぞれの生き方

なんだか朝からワクワクしていた。

今夜は プライナスのナナライブ最終日。
なにが起きるのかもうすでに心は知っていた。

初冬の名古屋駅に人々は集まっていた。
100人くらいだろうか。
先週の土曜日 偶然に通りかかったカナダの
英会話教師 ショーナリーも来ていた。
カナダ人 嘘つかない!

言葉もわからないような唄なのに、
日本人でもわからないのに。
最終を惜しむかのように 2部に渡ったコンサートは
過ぎていった。

始めてきたという 隣に位置した女の子は、
「こころのうた」にほとんど号泣していた。
そのあともずっと しゃくりあげていた。
大丈夫だろうか。

最後のアンコール曲に選んだのが、
「レデイーバード」
ボーカルのまみちゃんが始めて作詞作曲した唄だ。

歌う前まみちゃんは めずらしく 聴衆にむかって長くしゃべった。
「小さい頃から ずっと 唄をうたいたくて、中学校
高校とみんなに呼びかけたけど、仲間ができませんでした。
本格的にうたい始めたのが プライナスとであってから。
22歳の時。すこしおそいくらいです。
その前はこんな歌ばかり歌っていていいのだろうか、と
迷ったこともありました。
でもずっとやっていて良かった—–。
みんなも 遅すぎるってことない。
やりたいことをやっていいと思います。」

涙声だった。聞く人たちの 若者の透明な涙が
きれいだった。

10代、漠然とした状態で東京にいたある日のまみちゃんを
訪ねた。飲み屋さんでイッパイお肉を頼んで、
「こんな おいしいもの 久しぶり!」
といって ガッツくまみちゃんをみていて、
そんなに苦しいんだったら、戻ってくればいいのにと思った。

そして名古屋に戻って 今のプライナスのメンバーに出会う。
それからプライナスは大きな変化を迎えていく。

喜びの波動は人々に共感し、多くの方が歌声と演奏に耳を
傾けてくださるようになってきた。

そしてラスト ストリートライブの日 彼女は感謝で胸が一杯に
なったのだろう。「サンキュー」からもうすでに胸が詰まっていた。

たくさんの方の大きな愛につつまれて、共に歩むメンバーに
恵まれて、進んでいけよ まみちゃん。

コンンサートはいつまでも別れを惜しむ人々の輪が
いくつもの模様を描いて 終わりを知らなかった。