伊路波だよりから

☆大寒をすぎまして 春の気配はでもまだですね。
楽しみですね。
朝は 少し早く明るくなってまいりました。
木の花ファミリー」を訪問させていただきました。
いさどんのブログ
☆慈藹塾読書会
平成23年2月19日(土)
場所 サンコム
午前7時30分~
☆冠之会
平成23年2月21日(月)
場所 熱田神宮 「龍影閣」
午後6時30分~
参加費 1500円
                

伊路波村だよりから 101222号

12月 過ぎていくのが速いですね。
今年最後の伊路波村だよりです。
ありがとうございます。
☆昨日は今年2度目の山本先生によるお話を
 拝聴する機会がありました。(「イエスの少年時代」訳者)
 今はプレミアがついている本「奇跡の人の奇跡の言葉」を
引用されながら 有名なスウェーデンボルグによるイエスの霊言の
解説でした。
聖書の創世記 「天地創造の物語」は大変に難解ですが
光と闇の創造から 次々に進む天地創造の進展は
実は人間の「霊格の進化」のステップの説明であると イエスが霊言したようです。
信じるかどうかは あなた様しだいです。
以下説明します。
1次元.光と闇
 「虚無と欲望」 光は欲望であり闇は虚無である。
 最低限の霊格の持ち主
2次元.空と海 分離状態 何をやってもチグハグな状態 つじつまが合わない行為
3次元. 陸地の出現 認識力 五感の世界 唯物人間
4次元, 太陽と月 太陽が意志で月が理性 意志は喜怒哀楽のエンジン 理性は論理的思考
     冥利 金持ち 権力 名誉
     宗教人間 物では満足できず さらに異なるものを求める。
     宗教とは美しく飾られたエゴである。自分が正しく相手が違う。
5次元. 被造物の創造  意識体が物となった 本当の人間=神 真人
     真人から天使への上昇
イエスはそのことを伝えるために スウェーデンボルグに話した。
執着を捨てること 欲を捨てること 貯めないこと 全ての人を尊敬すること。
それがたとえ 極悪人であっても。
☆もうひとつは「生せっけん」の話題です。
namasekken.bmp
 広告みたいですが そうです。(笑) 今までの概念にない「生せっけん」です。
 今年6月8日に名古屋で 飯島さんにいただいてから 幾度も試行作成され
 商品化がなりました。
 手づくりゆえに せっけんの手触り使い感にバラツキがありましたが
 だんだん ものになってきました。
 これは本当に困ってみえる方に使っていただきたいと切に感じます。
 その答えが これまで半年間使われた方々からの感想からわかります。
 言葉で表現すればこの「生せっけん」は
 方向が違う・・・体から引っ張るのではなくて 身体に吸い込む状態を作る。
 といえるでしょう。
ではみなさまの感想を列記します。
1.髪が黒くなった。 30代男性
2.シミが薄くなった。 60代女性
3.15-6年間毎年秋口から出ていた湿疹が今年は出ない。 50代男性
4.頭の毛が少し生えてきた。 70代男性
5.元気になった。 40代男性
6.何を付けてもダメだった かかとのガサガサがなくなった。 60代女性
7.抜け毛が少なくなった。 60代男性
8.髪と肌がイキイキしてきた。 60代男性
9.白髪が茶色に変化してきた。 50代男性
10.髪がリンスなしでイキイキしている。 50代女性
11.やけどや傷があってもすぐに良くなる。 60代女性
12.ひどいアトピーだけどせっけん使ってもかゆくない。 40代男性
13.顔のやや大きめのシミが薄くなってきたと娘に言われた。 60代女性
14.ヒゲが濃くなった。 30代男性
最後の感想はどうかわかりませんが 新陳代謝が上がったことは間違いないようです。
油脂60% 純せっけん40% ハーブですが
この油脂を70度までの温度にして触っても ぬるいのです。
調和が物凄くとれたせっけんといえるでしょうか。
 
以上みなさんからの ワクワクご報告でした。
良いお年を!!!!    いつも(笑)
                          
 
 
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「片方の手をフリーに・・・」  法則の伝えから

大変な病気の方が、霊能者あるいはヒーラーに治療してもらい、すっかり良くなったとします。そうすると人は、その霊能者やヒーラーに両手でしがみついてしまいます。

でも決して両手でしがみついてはいけません。必ず片方の手は緩めておかなくてはいけません。その理由は、私たちを導いてくださっている、光の存在・守護霊が、私たちをどうように導いてくださっているか、その導きにしっかりと反応出来るようにです。

例えば本屋に行ってイスラム教に関する本を見つけました。読んでみたいと一瞬感じたとします。ところが自分はあの霊能者だけを信じているんだと、自我が働くことによって出した手を引っ込めてしまいます。それによって守護霊の導きを断ってしまうのです。

でも自分が良いと信じるものでも、この世に絶対はありません。ですから片手は必ずフリーにしておくのです。

例えば野球ですが、バッターがバッターボックスに立って構えたとき、そのバットをギュッと握りしめている人はいません。必ず利き手を緩めています。緩めているからこそ、飛んできたボールに反応出来るのです。

スポーツと同じように心にも柔軟さを求められます。宗教団体の場合も同じです。ここに身を置く人たちも、片方はその宗教を掴んでいても、もう片方は守護霊の導きに反応出来るようにフリーにしておかないといけません。

ところが宗教団体に入っている人の多くは、両手で掴んでしまっています。宗教団体は組織です。そうすると、信者か否かというところで、線引きをしてしまいます。その宗教を信じているか、いないかによって段差を付けるわけです。そして救われるか救われないかの話になります。

もしここで片方の手をフリーにしておけば、他のスピリチュアリズムに触れたとき、「他にもこういう捉え方があるんだ」と学ぶことが出来、宗教からの囚われを払うことも出来ます。このことがその人にとって大変なプラスになります。

「法則の伝え」から 20101021

この物体場は極めて極めて特殊な世界です。
というのはこの物体場だけに、他の様々な次元の魂が降りて来られます。
上次元ではこんなことはありません。
この物体場の凄いところは、肉体の細胞一つをとってみても、
その仕組みや動きの精密さに驚嘆します。
60兆個あると言われるこの凄い細胞が、それぞれのバランスをとって、
人体を形成しています。

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「これからのスピリチュアリズムのあり方」 法則の伝え

〈これからのスピリチュアリズムのあり方〉
世界にいろいろな宗教があり、それぞれが神の存在を説き、
愛や慈悲を説いています。
その通りに全ての人間が生きたら、地球は凄いことになっている筈です。
では何でそうはならず、宗教が一番残酷な殺し合いをしているのでしょうか。
人生は山登りに例えられます。
みな厳しい山登りをしていますが、その中で一直線で登るか、つづら折りに登るか、
頂上を目指すには多くの道があります。
宗教もスピリチュアリズムもその道案内人です。
道案内人は自信を持っていないといけません。
自信と確信と責任が必要です。
そうでないと厳しい道を案内するなかで、「私は謙虚ですから、この道が
絶対正しいとは言えません。私に付いてくると途中で死ぬかもしれません。」
となったら、そんな人には誰も恐くて付いて行きません。
ですから案内人は、自信と確信を持っていないといけません。
それでこそ案内を受けた人たちは、この道が正しいと信じて付いてきます。
そうなるとそれ以外の道をよそ見していることが出来なくなります。
よそ見をしていると危ないですから。
結果として、他の道を切り捨てるが如くになります。
ここで問われるのが、他の道が全てダメなのではないという、道案内人の寛容心です。
これが物凄く大事になってきます。
これからはスピリチュアリズムが、お互いにいがみ合う時代ではありません。
ところが説いていることは素晴らしいのに、又、真剣に自らの向上に取り組んでいるのに、
他のスピリチュアリズムを裁くことがあります。
純粋で一生懸命にやっているところほど、そうなりやすいです。
どうしてそうなるのかと言いますと、波動の二極化を起こしているのです。
高い心を求めて頑張れば頑張るほど、私たちは二極化しやすいです。
何故ならきつくなればなるほど、低い“快”を得ようとしますから。
例えばイスラム教ですが、非常に厳しい禁欲主義です。
その結果、他を激しく裁く自尊他卑の波動に陥りやすいです。
もちろんイスラム教が全部そうなるわけではありません。
イスラム教そのものは、今の時代に必要な人がいます。
もし本当に不必要なら、残っていないです。
宗教もこれからは変わっていかないといけません。
魂の世界の、言ってみれば新しい信仰の形になっていかないといけません。
新しいスピリチュアリズムに求められるのは、他の道も認められる寛容心と、
法則の知識です。
例えば私たちは、「二極化するものである」という知識です。
同時に大事なのは、他のスピリチュアリズムに対して、「私たちはこのやり方で
やります」と、はっきり主張することは必要です。
道案内人がそれぞれの主張をすることで、それぞれの道が示されるからです。
案内を受ける側は、その中で自分に合った道を選んでいけば良いのです。
シルバーバーチのメッセージに、“地上には橋頭堡が築かれている”というのがあります。
この橋頭堡というのは、橋と橋が架かる両端の、それぞれを受ける部分を言うのですが、
それがすでに築かれているということです。
今は地上にたくさんの橋頭堡が築かれていて、いずれはそれぞれの橋頭堡に
橋が架かるということです。
今のようにそれぞれの橋頭堡がつぶし合いになっていてはいけません。
それでは橋が架かりようもありませんから。