「虚偽性は深い」 奥の院通信 R3 5/16

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第二次世界大戦で、ドイツの各都市の空爆が激しくなり、ユダヤ人の収容されている場所はドイツの工場地帯にあるので、彼らも空襲の被害を受けるようになった。ドイツの若者は軍隊に取られ、工業労働者がますます足りなくなる。1943年4月17日に交わしたヒットラーとハンガリー代表のホルティーとの公式記録が残されており、そこに「ドイツ空軍の追撃機製造計画で働く労働力として、ハンガリーのユダヤ人10万人を貸して欲しいと個人的に依頼した」という事実が明らかにされている。

 このころ、「連合国側の空爆が激しくなり」と記録が語っている。この会話は、ドイツ人が既にユダヤ人を殲滅しようとしていたと言われている時に交わされたのであるが、このヒットラー労働力依頼は、労働力確保を最優先していることを立証している。しかも、これは追撃機製造計画と平仄が合っており、この頃には収容キャンプは事実上、政治犯収容所から産業複合体組織の一環となっていた。ユダヤ人やその他の国籍の人たちが拘留されているあらゆる収容所周辺には、戦争遂行のための素材を供給する産業施設や工場が密集しており、それは例えばベルゲンベルゼン収容所における合成ゴム工場、アウシュビッツにおける合成ゴム工場とI・Gファルベン産業、ラヴェンシュトック収容所のシーメンス電機工場である。  

 収容所では特別紙幣が労働者に対する報酬として交付され、それで被収容者たちは配給されたもの以外に何でも収容所売店で買うことが出来た。ドイツ人はこの収容所から収益を得ていたのであり、その利益目的は、これら収容所で、何百万人を虐殺・殲滅するなどと言う計画とは根本的に矛盾する。強制収容所が主要な産業生産拠点となっていた事実を見ると、この収容所工場は、オズヴァルト・ポールに率いられた親衛隊(SS)と経済・行政局とが管轄していたことになる。

 この間にあっても、依然として移住政策は進められていた。1940年にフランスが敗北し、ドイツ政府はヨーロッパのユダヤ人をマダガスカル島へ輸送する計画について、フランス政府と協議できるようになった。ドイツ外務省長官ルターの覚え書きが残っており、それによると、ルターがフランス政府と交渉したのは、1940年7月から12月にかけて、12月にフランスが交渉を打ち切った事実が判明している。

 ルターのいた外務省の回覧文書の日付は1940年8月15日となっており、これはドイツの輸送計画の細部がアイヒマンによって作成されたことを示している。また、この文書にはアイヒマンの部下であったダンネカーの署名があり、アイヒマンが事実上、マダガスカル島計画の詳細を書くことをダンネカーに指示していたことを示している。ダンネカーはその指示に従って、フランス移民局でマダガスカル島について調査を実施した。

 この年8月15日には汎ヨーロッパ的な銀行を作り、400万人ユダヤ人の移住計画について財政支援すると言う提案がなされている。600万人ユダヤ人殲滅などという計画とはおよそ矛盾する事実がここにある。何とか労働力確保しようとしていたことと併せ、この財政支援計画と合わせて考えれば、600万人虐殺神話など成り立たない。

 

 このルターの覚え書きによれば、ハイドリッヒは1940年8月の終わりにはヒムラーからこの計画の承認を得ており、その計画書は更にゲーリングに挙げられている。これはヒットラーの承諾を得ていたことが確実である。その前の6月にヒットラーがムッソリーニに「イスラエル国家をマダガスカル島に建設できるかも知れない」と伝えたことを、通訳のシュミットが回想している。

 フランス人はマダガスカル島交渉を1940年12月に打ち切っているが、ドイツ人はそれでもなお、この計画を推進しており、アイヒマンは1941年末まで、この計画策定に奔走していた。これはパリのユダヤ文書センター主任ポリアコフも認めている。

 しかし計画は戦争進行に伴って、実際には遂行し得ないことが分かってきた。ことにドイツ軍のロシア侵攻後の状況では不可能に見えてきたのであった。ドイツの連合軍による空爆が激しさを増す中で、ユダヤ人移住計画も実施不可能となっていった。しかし、この移送計画・イスラエル国家建設計画は、戦争遂行の中でも、ギリギリまで進めてられていたことだけは事実であった。虐殺計画など片鱗も見られない。