「飛んでった種」 アカペラコンサートから鏑射寺へ 2 R3 7/27

翌日、令和3年7月22日にほぼ15年ぶりに参詣いたしました。

名古屋からは7名が参加しています。
目的は鏑射寺の毎月22日に行われる
「護摩焚き」と中村公隆山主の講話を聴き
さらに15年ぶりのお出会いとなる金沢の
Yさんにお会いすることでした。

「鏑射寺」とはどんなお寺かといいますと、
昔の聖徳太子が開いた道場寺と言われています。
昔のお寺はみな道場とも呼ぶらしいですが。

中村山主が昭和皇后の親類に畳に頭をこすりつけて
額から血がにじむほどに、この鏑射寺の再興を願われ、
承諾せざるをえなかったとの山主のお言葉です。
そしてお寺の再興がはじまります。

その頃中村山主は高野山大学の事務局長になることに
なっていて、先にはもちろん学長にと願われていたのでしょう。
その職をけって奥様と一緒に寺の再興にかかることに
なりました。

道も細い山道しかありません。
最初は草や木をかき分けかき分けお寺に入りました。
お寺といってもその頃は平屋の庫裏と不動妙明王護摩堂があるだけで
周りは竹がびっしりの竹藪です。
毎日毎日その地の開墾が最初の仕事です。

しかし中村山主は道ができて電気もひかれることに
なることを予見されていたようでした。

ある日ある方たちが寺を訪問されました。
聞けばお寺の少し先にゴルフクラブを作るために
調査に入った関西電力の方たちでした。

予見通りアスファルトの道ができ電気が来ました。

さらに工事の方に頼んで、道の下に「経文」を
埋めたとのこと。
どおりでその山道にかかる丁度JR福知山線の
踏切をこえたところからは、どなたにでも
感じる空気の細やかさが際立っています。

そして時を経て91歳になられた中村山主です。
寺は全国から毎月22日に行われる「護摩焚き法要」に
多くの方が訪れるようになり、護摩堂も本堂もまた他の寺の
施設も当初からは見違えるように立派になりました。

講話は終始一貫して以前から変わっていません。

「誰でもが持っているいただいたもったいない命を大切にして、
いつもどんな時でも命を輝かせて生きること」

45歳からほぼ15年にわたって、なぜかこの地と
現代の空海と呼ばれる中村山主に引かれるようにして
毎月22日に通わせていただきました。

1995年1月17日に阪神大震災が発生しました。
前日に異常を感じた山主は神戸に住む檀家の方全員に
電話をかけて、神戸を離れているようにと告げたようです。
おかげで檀家の方に一人の怪我人も出ませんでした。

その5日後の22日、福知山線が開通しました。
関西の様子とお寺の様子を見舞いに電車で伺いました。

電車から見る風景になんともいえない感慨を持ちました。
ところどころ傾いたビル、マンション。そして家屋の
ほとんどは青いビニールシートに覆われていて、
私たちが大切に守ってきた文明のはかなさを
しみじみと感じたのでした。

ところがお寺に着きますとそこは別天地。
瓦の一枚もずれていません。
「意識が現実を作る確信」は揺るがないものとなりました。

金沢からこのような時代にでも毎月22日にお参りに
みえているYさんに15年ぶりにお会いしました。
彼の誕生日は8月6日、こちらは8月9日です。
よく原爆コンビと言われます。

Yさんが体に変調をきたされてからほぼ15年が
過ぎていた様です。お寺の境内で名古屋組の方々との
久しぶりのお出会いの時間です。

まだ言葉が速くは話せないご様子ですが、何か
以前から較べますととてもすっきりとした何かが
去った感じの若々しいお姿でした。

今は毎月電車で金沢から通ってみえることで
連休で混雑している道路組より早く到着され
護摩堂の宗徒席の最前列にお座りになり、おまけに
こちらのために数席を確保していてくださったことに
後から気付きました。
こまやかな心配りは全く変わっていなかったのです。

少し開始時間に間に合わなかった名古屋組ですが、
お堂のすぐ外に近づき「般若心経」と「不動明王」の
真言唱和に加わりました。

いつもそうであるように、その繰り返しの真言の時に
ふしぎな感慨が与えられます。そのことは変わらない
体験をいただきました。

東京での「風の歌 アカペラコンサート」に続き
連日の浄化に、何か世が変化していく感じを受けました。

終了後の帰途、みなさんでラーメン屋さんにはいりました。
そこでYさんからみなさんにといただいた金沢の
「きんつば」を配布。
そしてしばしの談笑のお時間です。

初めてYさんが名古屋の慈藹塾に参加されたある月の21日の
夜の懇親会の席上で、お隣に座ったYさんはこちらの
「鏑射寺」についてのお話に反応されて「翌日一緒に
連れて行ってください」と言われ、その積極さにびっくりした
夜のことをなつかしく思い出します。

それから長い期間に、さまざまな場所や金沢や名古屋での
集まりにお互いに参加させていただいたこと、
Yさんのご自宅の二階のお部屋で、そのころまだまったく
無名だった小林正観さんを交えてほんの5名でのミニ講演会。

正観さんは「どんなに少人数でも行きますので機会を
作ってください」と願われました。
それからわずか15年間くらいの期間で年間300回を
こえる講演会をこなされ、多くの人々の光となられましたが、
63歳で体を離されました。

その正観さんの最初の道を付けた方がYさんです。

Yさんにラーメンと餃子を食べながらの質問です。

「病気になって何か感じたことはある。?」

まだゆっくりとしかしゃべれないYさんですが、

「病気になって・・ほんとに・・よかったと
思ってる・・病気に・・心から感謝してる・・」

魂の底からのYさんの重い言葉でした。

今度は北陸に行きます。!!
とお約束してお別れです。

名古屋までの道は混雑がなくなりとてもスムーズ。

この2日間で長い間一緒に歩いてきた想念が
すっきりと晴れたかのようにさわやかに離れていくのを
感じていました。

旅はまだ続いています。