「益田磐船」についての一考察

令和3年10月8日に始まる静かなる
旅は、奈良の橿原神宮(神武天皇)から車で
10分ほどの距離にある「益田磐船」から
始まりました。

16日家から真西にあたる多度大社への
参詣に続いて、空海最後の結界最南端に
スポットで住いされるk女子の来社ご訪問が
ありました。

その日が10月18日。

そして沖縄伊平屋のクマヤ洞窟と続いています。
(一説では神武生誕の地)

伊平屋は実は恵平屋とも呼ばれています。
逆から恵平屋を読みますと、ヤヘエすなわち
ヤハウエですね。

そして10月29日に諏訪大社と分杭峠
北伊那地方の高遠と伊那を訪問しました。

それはダビデ王が神の霊言を受けて狂喜乱舞し、
民衆もそれに倣ったとある光景と、北伊那地方の
風習にある「みくさのみたからをひらく」の
通称トレジャー爺さんの、イケ目イケ顔イケまことで
もって狂喜乱舞することとのつながりを感じる旅でした。

日本とユダヤのハーモニー」のブログにはそこのところが
詳しくのっています。

出雲から伊那地方へそしてみちのくへ、
古代のイスラエル民族は流れ流れて
それぞれの文化圏を作っていったようです。
諏訪大社の「御頭祭」などはその象徴的な祭り
でしょうか。
民族の習慣は消えず、なによりの古代民族との
つながりの証拠なのかもしれません。

50年間に渡り古代イスラエル民族と
その民族が目指した約束の地この大和との
深いつながりを講演し続ける方がUさんです。

彼によるとというか、長い期間の日本各所での
血液検査から古代イスラエルの民がもつ
遺伝子とこの国の民族がもつ遺伝子の共通性は
40%の人口にもおよびます。データが示す真実です。

シルクロードを旅しアジアの各所に文化圏を
作った北イスラエル10部族の人々。

そして海洋を船でアジア諸国に立ち寄りながら
台湾、八重山諸島、沖縄そして伊平屋から
淡路への旅は長い旅路だったことでしょう。
南イスラエルのレビ族とユダ族です。

「さくらさくら」や「かごめかごめ」などの歌に
真実が隠されていると聞きました。
ご興味のある方は「日本とユダヤのハーモニー」を
お読みください。

もちろん平安朝を作った空海や和気清麻呂も
関連しています。

もともと古代イスラエルの人々は自分が何かを
食べるときに、まず目の前のお相手に半分
差し出し、お相手が食べてから自分が食すような
基本的にとてもやさしい民族です。

さて「益田磐船」のことを何も知らずに、こころというか
魂の叫びのままに訪問した旅の始まりでしたが、
少し前にこの「益田磐船」のことが先のブログに
掲載されていることを知りました。

ここです。
巨石文化益田磐船のふしぎ

これによりますと一説として益田磐船は
古代イスラエル民族が魂の故郷である故国にある
「マッサダ要塞」を模して作ったのではないかとの
ことでした。

この「マッサダ要塞」はローマによって最後の
イスラエル人が滅ぼされた集団自決の要塞なのです。
そして民族の誇りを忘れないように、毎年軍隊に入隊する
男子18歳、女子20歳の宣誓式がある場所です。

この「マッサダ要塞」の全景を撮影しますと、
「益田磐船」に酷似しています。

「マッサダ要塞」へののぼり道は
1本しかなく、敵が上がってきても石を落とせば
決して要塞にたどり着くことができません。
そして裏側は絶壁です。

幾度もローマ軍はイスラエルを攻めますが、
難攻不落の「マッサダ要塞」でした。

しかしローマ軍は裏の絶壁を土で埋め要塞への
道を築き始めました。その道づくりにはイスラエルの
奴隷を使いました。
ですから要塞にこもる人々はその道づくりの同胞を
優しい民族であるがゆえに攻めることは出来ませんでした。

そして道ができ、いよいよローマの攻撃が明日に迫ったと思われる日に、
自決を赦されていない民族の教えを守り、数人がすべての人を手にかけ
その後に自害をします。

優しさゆえの民族崩壊となったのです。

蛇足ですが、鏑射寺の中村和尚のところに
以前の中国の鄧小平さんから電話相談があって、
当時困っていた天安門事件の収束を、どのように
したらよいのだろうかとの相談でした。

中村和尚は答えます。

「北京にいまある軍隊を北京以外の地方から
集めた兵隊に変更し、その兵隊に鎮圧させたら
いかがでしょうか」

鄧小平さんはそのとおり実施し事件の収束が
叶いました。

このことは同胞を打てない心からの人間性の
信条に訴えたからでしょうか。
中村和尚は「マッサダ要塞」のことを
ご存知だったのかも知れません。

なお中村和尚は現代の空海と言われています。

さてマッサダの要塞

益田磐船

ロマンですね。

今こそ大和民族の「和」の精神で世界を
優しく包むときが迫っているのかもわかりません。