2574「神さまの承諾」2022.1.11 自分で自分を自分するから

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 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年01月06日の記事を紹介します。

「神さまの承諾」

今日は、事故や事件で亡くなってしまう場合も、生まれる前に決めたシナリオ通りの人生なのか?

と言うことで、小林正観さんのお話をご紹介します。

また、自分に対しての、意地悪や陰口、揚げ足取りのような理不尽な行動も同じです。

悲惨な犯罪も、理不尽な仕打ちもすべて、神さまの承諾の下で起きている。

つまり事件や戦争、理不尽な出来事などに、敵意や憎しみを抱くことは、

「さらなる犯罪を呼ぶだけ」ではないかと言う内容です。

<転載開始> 転載元

私は学生時代から「唯物論者」なので、神や仏を前提としては、ものを考えていません。

しかしこれまでの研究の成果として、神も仏も、守護霊も精霊も、存在するのではないかと思うようになりました。

そして、世の中に起きている、どのようなことも、すべて神の承諾のないことは起きない。

という結論に、到達することになりました。

一般の人が言う、

・悲惨な出来事や

・不幸な出来事も、

・ものすごく大きな「悲劇」というものも、

すべて「神の承諾」の下で起きているのではないか、と思うようになったのです。

繰り返して言っておきますが、私は今も唯物論者です。

かなりガチガチの唯物論者であり、現象がその事実を証明しないかぎり、信じません。

しかし、いろいろな現象を何千、何万と見つめてきた結果、神というものが存在するのではないかと思うようになってきました。

そして、世の中に起きるすべてのことは、私たちの感覚では「良い」とか「悪い」というとらえ方ができたとしても、神の承諾を受けていないものはない、

という結論にならざるを得ませんでした。

神が私たちに求めているのは、その現象について、

悲惨であるとか不幸であるとか、評価・評論をすることではないように思えます。

神が私たちに求めているもの、宇宙が私たちに求めているものは、おそらく次のようなことなのです。

一般的に「ひどい」とか「悲惨だ」と言われる事件が起きた時、その報道を1億人の人がニュースで見たとします。

そして、人々がその犯人について

・ひどい奴だ。

・許せない。

・絶対に死刑にしろ。

・報復をしてもかまわないんだ。

・世界中を探し出して、その人間を殺すべきだ

と言って、敵意と憎しみの塊になったとします。

そのとき、上空から見下ろしていて喜ぶのは誰でしょうか?

それは「悪魔」という存在でしょう。

私たちが、憎しみのエネルギー、恐怖のエネルギーで、心を満たし、汚すことを望む存在です。

「悪魔」は、人々が仲よしで、お互いに笑顔で、となり合った人を助け、温かい空気の中で、ともに生きていく、そういうことを大変に嫌います。

敵意と憎しみのあるところにだけ悪魔は住むことができるからです。

それに対して、

「自分ができることは、まわりにしてさしあげよう」とか

「できるかぎり人に喜ばれる存在になろう」

という心を持っている人間が増えると、 悪魔は住むところがなくなって、とても困ります。

ですから、悪魔は、

・多くの人々の敵意や

・憎しみの感情が芽生えるように、

いつも願っています。

1億人の人が、その事件の犯人を許せないと思い、敵意と憎しみをかき立てられたとしたら、

上空で微笑んでいるのは、悪魔という人でしょう。

一方、神という名の存在の方は、大変悲しい思いをしていると思います。

もし逆に、1億人の人がその事件を見聞きして、こう考えたらどうでしょう。

『私』の心の中の敵意や憎しみの延長線上に、この犯罪や出来事が存在する。

『私』が敵意や憎しみを持っていることは、この人たちが、社会に対して、

敵意や憎しみを発散させ、事件を起こしたことと、同じ意味である。

もしこの人たちが、敵意や憎しみを実際に世の中で発散したことについて、自分が否定的に思うのならば(こういうことがあってはならない、あってほしくないと思うのであれば)、

まず自分の心の中から敵意や憎しみを取り去ること。

1億人の人が、こういうふうに考えたとき、その出来事が起きたことに大きな、貴重な意味があったといえます。

多くの人が自分の心の中の、敵意や憎しみを、見つめ直すことができたなら、

「私のメッセージが理解されて嬉しい」と神様はニッコリ微笑むのかもしれません。

<転載終了>

最近は本当に目を覆いたくなるような出来事が、世界中で起こっています。

・人種差別による憎しみの連鎖

・宗教紛争

・親子間の殺人

悲惨な事件や、被害者やそのご家族があまりにもかわいそうな内容であればあるほど、

私たちはその犯人を憎みます。死刑を望む人もいるでしょう。

「罪を憎んで人を憎まず」という耳触りのよい言葉もありますが、やはり「憎しみ」を肯定していますから、そこには神様の要素が全くありません。

立派な人、努力して自分を律している人、まじめな人ほど、人の不正や怠惰な言動が、許せないかもしれません。憎しみを抱き続けるかもしれません。

「私はこんなに頑張っているのに、あの人は何?」

でも神様は、はたして、そのようなことを仰るでしょうか?

神様は全ての全てを、受け入れ、寛大な目で見守り、魂が更生する機会を辛抱強く、待っていてくださるのではないでしょうか?

憎しみや、恐怖、疑心暗鬼、貪欲からは同じものしか生まれません。

信頼からは、愛が生まれます。

どんなに過酷な状況であろうと、魂までは傷つけることはできません。

神様が悪魔の存在を許し、その悲惨に見える状況を承諾したのであれば、大きな大きな教訓として、私たちの心を見つめなおすキッカケとしてまた大きな犠牲を覚悟で、憎しみの対象となることを承知で生まれてきてくださった、役割を持った魂たちに対し、「感謝」を持って受け入れたいと思います。

それこそが、神様が人間の、近視眼的な目から見れば、理不尽に見えることが起こることを

許していらっしゃる理由であろうと思います。