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今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最近の記事を紹介します。
797 2022.11.05 ~ 815 2022.11.27
禅の会の仲間であるT君が病気で入院されたのですが、退院してから世界が違って見えるようになりましたと報告してくれました。
職場で机に向かって仕事をしていても、同じ部屋で仕事をしている20名ほどに同僚が、それぞれどんな仕事をしているのか、また今、どんな感情でいるのかが、手に取るように分かるようになったのだそうです。
ですから、ある同僚が困っているようだと察知すると、サッと体が動いて、手助けに向かうことが出来るようになったそうです。
また、自分というものが無くなって、身体を風がサーッと通り抜ける(透明人間になったような感じ)ようで、「生き通し(透し)」というのは、こういうことなんだと気づいたそうです。
ここまでが自分だと思いこんでいた錯覚の「囲い」が外れて、自他や世界がツーツーになったので、楽に息が出来るのです(これは「息通し」ですね)。
このように、錯覚の「身体イメージ」や「自己イメージ」が脱落して、「カラッポ身体(からだ=空だ)」になると、過去の経験やコンプレックスなどに左右されない、パターン化されない有効な行動が、咄嗟にとれるようになります。
「武道の達人」などは、ここまで到った方のことなのです。
つまり、「型」にとらわれずに、自由自在に適切なワザを、無尽蔵に生み出してゆく主体者となるのです。
そして、「カラッポ身体」から繰り出される行動は、宇宙全体、人類全体にとって、自分がその場、その時に取りうる最善、最適な行動となっているのです。
そのことは、自分のお粗末な頭ではとても認識出来ないことなのですが、なぜかそうであることがハッキリ分かるのです。
ですから、この行動は「行き通し(行動が世界と通しになっている)」といえますね。
ところが、T君のこの体験は、善い事ばかりではなくて、自我の「囲い」が無い分、外界の刺激や情報、周りの人の言動などに、びっくりするほど傷つき、影響を受けるようにもなったというのですね。「囲い」がなくなれば、野ざらしの荒野の只中で、素っ裸で生きているようなものだから、当然そうなるのですね。
ですから、昔の修行者は、「聖胎長養(せいたいちょうよう)」といって、「囲い」がなくなっても、外界からの影響に過度に反応して、押し流されたり、分裂状態にならないで、しっかりと「意識の主体性」を保てるようになるまで、しばらく外界から隔離し、情報を遮断した「山林」や「道場」という環境で、新しく誕生した、宇宙に根拠を持つ「意識(聖胎)」を保護しながら、もう大丈夫というところまで成長させてから「現世」に復帰したものなのです。
しかし、俗世の只中で生きている私たちはそんな贅沢なことは出来ませんから、その場、その時にあわせて、「仮設の囲い」を設けて、「意識」を保護しなければなりません。
たとえば、職場では、その職場の制服を着用しますね。そのように、その「職場用の囲い」を身心にまといます。
家庭では、妻には「夫の囲い」、子供には、アニメのキャラクターが描かれた「父親用の囲い」を着用してふるまいます。
そうすると、その分、行動の自在性は損なわれて、パターン化された行動しかとれなくなりますが、「意識」が、暴風に曝され吹き飛ばされ、行方知れずになってしまうような事態からは護られるのです。
しかし、これはあくまで「仮設の囲い」なのですから、いざという事態に遭遇すると、つまりパターン化された行動だけでは通用しないような事態に直面したら、パタパタパタッと「仮設囲い」を取っ払って、「今・ココ・世界」にとって、最善最適の行動が咄嗟に取れなければなりません。
いったん「囲い」が外れた人は、いざ覚悟を決めたら、「囲い」を取っ払って、その直面した事態に、裸で跳び込んでゆけるようになります。
また、「囲い」が解けた時の世界の見え方、身心のあり方を忘れないようにするために、坐禅の際は、「坐禅の形(坐相)」で身心が保護されているので、安心して「囲い」を解いて、「生き(行き)通し(透し)」の喜びと安心に浸って下さい。
スポーツに興ずる場面などでも、「囲い」を解いて、「型」に嵌らぬ身体動作を工夫してみて下さい。
天界(高天原)では、「意識」に「囲い」はなく、限りない情報が四方八方から刻々流入しても、「意識の主体性」が動揺することはありませんでした。
しかし、地上世界に降下して来たとき、「意識」の性能が劣化して、処理可能な情報量は一気に減少し、天界にいた時と同じように情報を受容していると、「意識」がパンクしてしまうことに、「人類の魂(神さま)」は気づいたのです。
そこで、「意識」を「囲い」で包んで、ほとんどの情報を遮断して届かないようにしてから、地上に降下させることにしたのです。
この地上降下時の様子は、『大祓詞(おおはらえのことば)』に語られています。
また、一番はじめに地上世界降臨を試みたときは、地上世界が騒がしく、また草や木さえもワイワイガヤガヤ、大声で語っていて、その騒音(情報の氾濫)に耐え切れずUターンして高天原に戻ってきてしまいましたと、『古事記』には書かれています。
そこで、高天原の神々が集まって対策を練り、「意識」を「囲い」で包んで、情報を遮断して降下させるという作戦でゆこう、ということになったのです。
このようにして、ようやく「意識」を地上世界に送り届けることが出来るようになりましたが、「意識」を囲ったことによって、大半の情報がカットされて「意識」に届かなくなりました。
たとえば、草や木や動物が語るコトバは届かなくなったし、時間や空間の一寸先にも「意識」のサーチライトが到達出来なくなって、どんな状態か、どうなってゆくのかも予見できないほど感覚が鈍くなってしまいました。
しかし、以上の説明でお分かりのように、「意識」が「囲い」で覆われているということも、はじめは必要なことであったのです。
それはちょうど、植物の「種(意識のたとえ)」を「植木鉢(囲いのたとえ)」に植えるようなものです。
「種」を大地に直播すれば、風雨、寒暑、乾燥などにもろにさらされて成長できないし、死んでしまうでしょう。
ですから、まず「植木鉢」に種(意識)を植えて、保護しながら養い育てることにしたのです。
そして、あるところまで成長出来たら、今度は「植木鉢」が邪魔になるので、「植木鉢」を壊して、大地にじかに植え替えをすればいいわけです。
このように、「植木鉢(囲い)」を壊すにはジャストタイミングがあって、早ければいいというものではないのです。
早すぎたら、情報の洪水に晒されて「意識」が分裂、崩壊してしまいます。
また、早く「囲い」が解けた人が、「囲い」がまだ解けない人より偉いというわけでもないのです。
たとえば、草や木が語るコトバを聞ける人が、聞けない人より偉いというわけではありません。たまたま、そういう傾向に生まれついたというだけのことなのです。
また、「囲い」がなくなると、外界から、処理できないほどの情報が一気に入ってくると同時に、自身も外界に想いや感情や欲などの波動を無意識のうちに発信してしまうようになります。
そうすると、いいところは、『こうしたいなあ』という想いが、「囲い」がないので、一気に世界全体に伝わって、世界中の人やモノやコトが、その実現に向けて、無意識に協力してくれるようになります。
つまり、「想い」が叶うのが早くなるのです。
しかし、欲望なんかも無意識のうちに発信してしまうので、たとえば性欲が亢進していれば、なぜかその達成にふさわしい、妖しげな女性たちが、次々引き寄せられてやってきます。
想いや欲望が直ぐ叶うようになって、調子に乗って暴走して、身心や運命が一気におかしくなった人がたくさんいます。やはり、早すぎる「囲い外し」は、とても危険なのです。
「囲い」が外れたら、その解放感や歓喜がとても大きいものだから、人としてのルールや約束事を無視して自由奔放にふるまって、周りの人の顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまう人も出てきます。
たとえば、臨済禅師(りんざいぜんじ)は、生真面目で暗い感じの人であったそうですが、「囲い」が外れて、ガラリと性格が変わり、行動的で積極的で、人を人とも思わないような、傍若無人な自信家に変貌しました。
面白いもので、「囲い」が外れると、これまでと正反対の人格が表面化するようです。
しかし、興奮状態が収まると、やはりもとの性格をベースにした、しかし、さらに奥行きと幅を増した、バランスのよい、魅力的な人格になります。
『臨済録(りんざいろく)』に、こんな逸話が載っています。
「囲い」が外れた臨済さんは、ルールや道場のスケジュールに従わず、自分のいのちのペースのまま、好き放題に振舞うようになりました。
たとえば、みんなが坐禅している時に昼寝をしたり、みんなが眠っている時に、一人坐禅したりしました。
また、夏安居(げあんご) という道場から外出を許されない禁足期間(旧暦4月16日から7月15日まで)があるのですが、臨済さんは、その期間中にプィと勝手に出て行って、しばらくして帰ってきたのです。
師匠の黄檗禅師はきつく叱って棒で叩き、臨済さんを道場から追い出しました。
しかし、臨済さんは、そんなことは平気の平左で、「東西南北、脚の向くまま気の向くまま、どこに行ってもオレはオレさ!」と、道場を後にして歩いて行きました。
ところが、しばらくして自らの誤りに気づいたのです。
そして、道場に帰り、師匠に懺悔して、道場のルールのままに、仲間と歩調を合わせて行動し、夏安居を終えたということです。
臨済さんが「自我の囲い」を取り去る悟りを得たことは確かなことです。しかし、これが究極の悟りではないのです。
「オレは自由だ。東西南北、行きたいようにいくのだ」と威張って行動するのは、むき身の刀をひっさげて天下を横行するようなもので、まわりの人や団体を傷つけたり、自身も怪我を負うということになりかねません(現に道場の仲間や師匠は臨済さんのわがままで大変迷惑したはずです)。
では、臨済さんはどこで間違ったのでしょうか。
「自我の囲い」を打破しても、もう一つ大きな「囲い」に取り囲まれている自分に気がつかなかったのです。
では、その「大きな囲い」とは何でしょうか?
それは「半径無限大の囲い」で、その囲いによって、臨済さんという個のイノチは誕生し、また臨済さん以外の人や動植物や自然環境も地上世界に生み出してくださったのです。
なぜ、そのように多くの存在を地上世界に生み出して下さったのか。それは、私たちを成長させ、最後はすべての存在を融合一体化させるためなのです。
ですから、この半径無限大の「囲い」は、私たちを生み出して下さったばかりではなく、
今もなお、刻々見まもり、導いて下さっているのです。
この半径無限大の「囲い」は、「愛と思いやりで私たちをつつみこむ囲い」なのです。
臨済さんは、たくさんのトラブルを次々体験し、師匠にまで叱られて道場を追い出され、ようやく自身の誤りに気付き、「愛と配慮の囲い」に包まれた自分であったことに気がついたのです。
これが、大乗の悟りで、その「愛と配慮の悟り」を得たことによって、臨済さんはようやく菩薩として立つことが出来るようになりました。
では、大乗菩薩はどのような心構えで生きてゆかねばならないのでしょうか?
それが「菩薩の4つの心構え(菩提薩埵四摂法,ぼだいさった ししょうぼう)」で、布施、愛語、利行、同事です。
ここでは「同事(どうじ)」だけ取り上げて説明します。
「同事とは、違わないことだ」と道元さんはおっしゃっています。
皆が坐禅している時は、皆と一緒に坐禅する、皆が眠っている時は、一緒に眠る。
それが「同事」で、自分だけ特別だと、皆と別行動して威張っているのではなく、皆と融けこんで、一緒に行動することによって、喜怒哀楽を一緒に体験してゆくことによって、始めて皆から親しまれ、親しんでくれることによって、導きを受け入れてくれ、素直に従って行じてくれるようになるのです。
イエス様は本来神さまなのだけれど、あえて重苦しく、制限制約でがんじがらめの地上世界に降臨され、皆と同じ肉体をまとい、貧しさや生きる悩みも皆と共有されました。
だからこそ、キリスト教はたくさんの人の心を打ち、信じ行じる人がたくさんいらっしゃるのです。
おシャカ様も、皆と一緒に托鉢(たくはつ)に出かけて日々の食を乞い、衣類も弟子たちと同じ袈裟をまとい、決して特別扱いを要求されませんでした。これが菩薩の「同事」なのです。
臨済さんは、自分のこれからの人生を、この「大きな愛の囲い」の意志を体現して、そのままに行動してゆけばいいのだと気づきました。
人によって、いのちの傾向性も違い、「囲い」の種類や形態も様々です。そんな「囲い」を解くために、自らもその人にあわせた「仮設の囲い」を身に纏い振る舞います。
いったん、「囲い」が外れた人は、どんな形態の「仮設囲い」でも、自由に取り出してきて、身に纏うことが出来るようになるのです。
「もし誰かがワシに仏を求めたならば、ワシは清浄の境として現れる。もし菩薩を求めたならば、ワシは慈悲の境として現れる。もし菩提を求めたならば、ワシは清浄微妙の境として現れる。もし涅槃を求めたならば、ワシは寂静の境として現れる。
その境は千差万別であるが、こちらは同一人だ。
それだからこそ『相手に応じて形を現すこと、あたかも水に映る月のごとし』(この句は『金光明経』にある)というわけだ」(『臨済録』より)。
雲門禅師が弟子に出された公案(問題)があります。「世界はこんなに広いのに、どうして鐘が鳴ったらお袈裟(けさ)を着て、坐禅に赴かねばならないのか(どうしてチマチマしたルールに従って行動しなければならないのか)」
さあ、皆さんはこの公案に解答できますか? (完)