2956「諦めないで、理不尽な時」2023.1.29 自分で自分を自分するから

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 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2023年01月23日の記事を紹介します。

「諦めないで、理不尽な時」

今日は「理不尽」のお話です。

もしかしたら、そんな時は、大きな大きなチャンスが訪れの時かもしれません。

特に、心が清められ、準備ができた人に起こりやすいことです。

皆さんの中には、今現在、回りから、ひどい仕打ちを受けたり、理不尽なことをされていらっしゃる方は居られませんか?

また運命に翻弄されている方もおられるかもしれません。

そう言う時と言うのは、集中して、厄介なこと、嫌なことが続くものです。

もしかしたら、そういう時期は、「リセット」の時期かもしれません。

一旦、今までの人生の方向性について立ち止まり、向きを変えるための思索の時間(考えをめぐらす時間)を持つために、神さまから強制的にリセットがかかっているのかも知れません。

そのことに気づいて欲しくて「理不尽の炎」の中に投げ込まれているのでしょう。

自分の今まで持っていた価値観の大転換を図るため強制的なリセットです。

こういう時、その(理不尽に見えて)起きて来る沢山の現象は、自分ではどうしようも無い事、つまり、人間側の問題ではなく、「神様の領域」のことです。

ですので、その事に対して不平、不満、愚痴、ねたみ、そねみ、うらみ、後悔、嫉妬

などしないことにこしたことはありません。

ですが、生きている本人にとっては、あまりに辛く、神様に「どうにかして」と思うかもしれませんね。

人間ですもの・・・

そういう時は、もう言霊で乗り切るしかありません。

ただひたすら、最強の言霊、「ありがとう」を言い続ける・・

そうすると不思議と、朝に苦しかった理不尽なことが、夕方には解決しています。

全く気にならなくなるのです。

こういう時期は、誰にも訪れるものです。

そして、しばらくは続くものです。

また翌日には、次の別な理不尽なことが起きてきます。

その繰り返し。

私も経験がありますので良く分かります。

そんな最中に読んだ小林正観さんの本の一節をご紹介します。

<引用開始>

「理不尽」とは、神様から見込まれたということ。

そして「自分が成長しているという証明」。

「理不尽」とは、こちらの側に落ち度がないのに、一方的にひどいことを言われた、されたこと。

「だんだんと理不尽度が増していき、それでも文句を言わずにいると、神様は「合格」と判を押してくれるのだそうです。

理不尽度10で文句を言わずにいると、理不尽度20の現象が起き、だんだんと増していって、最後は理不尽度100%の現象が起こります。」

五戒(不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句)を言っているあいだは理不尽なことは起こりません。

(まだ、神さまに、成長の時期ではないと思われているからです)

最後の理不尽度100%の現象の時も五戒を言わずに受け入れていくと、神様から合格の判をいただけて、人生がラクに楽しくなってくるのだそうです。

理不尽度の高い現象が起きたときは、大きなステップアップが約束されているらしいのです。

ですので、その時に

・文句や愚痴を言わないこと、

・戦わないこと、

・争わないことが

大切らしいのです。

<引用終了>

そう正観さんは仰っています。

正観さんの言う神さまに見込まれた人というのは、きっと五戒(不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句)を思わない、言わない人という意味です。

ですので、多くの人が「神さまに見込まれた人」になります。

私の周りにも五戒を守っている人は沢山いらっしゃいます。

そして皆さん、お幸せです。

さて理不尽なことが起きると、その人にどのような事が起きるのでしょうか?

まず、一番大きな事は、

・自分の力ではどうする事も出来ないという

「あきらめ」(諦観-あきらめ、悟って超然とすること。)

・その結果、鼻っ柱の強かった人のお鼻はポキンと折られます。

・目に見えない大いなる何かの存在を、意識するようになります。

これだけでも大きな魂の成長。

意味があることです。

時に人は、自分自身の力を過信し、

・人に迷惑をかけないように生きていきたい

・人の役に立つ人間になりたい

と思います。

ですが、病気をしたり、挫折の苦しみを味わうと、

「助け合い」

「お互い様」

こそが本来の人間の生きる道ではないのかと思えてくるのです。

誰一人として、他人の世話なしに生きることはできません。

農家の方が作った野菜を、運送業者の方々が運んで下さり、お店の人が販売してくれる。

それらを頂き、それらの生命を頂いて、私たちは生きていくことが出来ます。

他の人の世話にならずに、誰一人生きていけません。

ですので、「人に迷惑をかけないように生きていきたい。」というのは、少し傲慢な考え方かもしれませんね。

この染みついた考え方を矯正する為に、今世では病気になったり事故に会ったりと、色々な苦しい事象が自分のタイムラインに埋め込まれることでしょう。

理不尽な出来事。

自分ではどうしようもない、大きな辛く悲しい出来事にも、きっとそんな意味があるのかもしれません。

何故なら神様は無駄なことは一切なさいませんし、常に私達の真の幸せを考えて下さっているのですから。

外にあるもの、見えるものは、すべて自分の心の世界を映し出す鏡。

人は理不尽な体験をすると、他人を責めたり、周囲の環境に不満を抱いたりしがち。

でもそれらは皆、私達の心の反映にすぎず、不満の矛先を他人や環境に向けることは

見当違いかもしれません。

きっとそんな時は、自分の心を顧みる丁度良い時が訪れたのですね。

神様に感謝する時です。

その後に、大きな大きなギフトが用意されているからです。

たったひとつのたからもの