2959「青空ひろば」2023.2.1 自分で自分を自分するから

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今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最近の記事を紹介します。

853 2023.01.06~856 2023.01.09

母の遺産の分配のことで不満があり、どう対処したらいいのか迷っている方に対する回答。

事情をお聞きすると、ご不満を持たれるのも、もっともな面はありますね。

しかし、お母さんは、そのご兄弟のもとで老後の面倒をみてもらったのであり、あなたは別家なのですから、法的にはどうであれ、遺産のことは、その兄弟に任せて、もうお忘れになったほうがいいと思います。

私の直感では、お母さんの財産を私物化してしまったそのご兄弟の運はこれから落ち込んでゆくようです(当然ですね。業を積んだのですから、因果応報という法則がはたらくのです)。

処世術で重要なポイントに「運の悪い者とは付き合うな」というものがあります。

「付き合う」には、「争う」という付き合い方も入っています。

あなたが、そんな運の悪い人と争うと(骨肉の争いをすると)、その運の悪さにあなたも感染してしまいます。

そんなことよりも、お母さんのあちらの世界での平安を延命十句観音経を称えて、しっかりお祈りしてあげてください。

そうすれば、遺産という形で財産が入ってこなくても、必要な時に、必要なだけの財産を、お母さんが天の神様にお願いして下さって、分与してくださいます。

その財産は、薄暗い念が籠らない明朗なものなので、業の心配はありません。

あなたは、今の仕事を誠実に努め、家庭をしっかりまもってゆけばいいのです。その他のことはみんな枝葉です。雑音に惑わされないようにしましょう。

その兄弟のように、親の財産をあてにするような、みじめな人生は送ってはいけません。

へたくそでも、歩みが遅くとも、自分の足で一歩ずつしっかり歩を刻み、ついに歩み切れたという人こそが、真の「人生の勝利者」なのです。(完)

847 2022.12.31~852 2023.01.05(前日の続き)

趙州(じょうしゅう)さんにある僧が質問しました。「イヌに仏性があるでしょうか?」

趙州さんは答えました「ナイ(原語は「無(む)」)」これは、無門関の第1則の『趙州狗子(じょうしゅう くし)』という公案(禅の問題)でしたね。禅に入門した時に、まず最初に師から頂く公案です。

「仏性」というのは、「仏になる可能性」のことだと思えばいいです。

すべてのいのちが本来仏様であるというのが大乗仏教の根本真理のはずなのに、なぜ趙州さんはイヌには仏性がないなどと言われたのでしょうか?と禅の入門者に問うているのです。

それは、イヌ君はこれから仏になるのではなく、イヌ君は現状のイヌ君のそのままですでに仏なんだから、その上に仏性なんていう被り物を着ることはいら「ない」、必要「ない」というのでしたね。

イヌ君には「出来ない」ことがたくさんありますね。

まず、空を飛ぶことが「出来ない」。数学の問題を解いたり、巧みにしゃべったりすることが「出来ない」。電信柱を見たら思わず脚が上がってオシッコしてしまう。そんなことしてはいけないと分かっていても、そんな脚上げの衝動から解き放たれることが「出来ない」。

そんな風に、イヌ君は無数の「出来ない」に縛られて生きています。

そんなイヌ君が、ありのままの、「出来ない事だらけ」のままでOKなんだ。そのままで仏なんだと、どうしていえるのでしょうか。

それは、そんなイヌ君が、『あぁあ、ボクは空を飛べればいいのに』とか、『人のように、歌を上手に歌えるようにナゼなれないんだろう』などと、ないものねだりしないで、自分のいのちの持ち前になんの不平不満も抱かずに、限られた手持ちの道具をフルに使いこなして精一杯の自分を表現して生きている。

そうであるからこそ、その姿が美しい、輝いているのです。

そんなありのままの自分を生き切っている姿こそが「仏さま」そのものではないでしょうか。

人もそうでしたね。過去に「出来ない」ことの原因理由を捜そうとしたり、他の人と比べて自分はダメだと劣等感をもったり、未来に何か素晴らしい成功がやってくるとフワフワ夢想していれば、結局足元がお留守になって、あなたが現に生きている「今・ココ・我が身」にどっしり腰を据えて難局にぶつかっていけないから、他の人からみても、その人の生き様がくすぶって見えてしまうのです。

過去も未来も他人の評価も吹っ切って、今・ココの課題にいのちの全部を投入して生きてゆけば、失敗して見事にすっ転んでワンワン泣いていても、そのソコであなたのいのちは輝いています。精一杯の自分がそこに見事に表現されているから、他の人もその生き様に共感し、感動するくらい美しいと感じるのです。

禅の道場にゆくと、師匠に公案を頂いて、その解答を練りに練って、独参(どくさん)といって、師匠と1対1の場でその解答を提出します。

この「趙州狗子」の公案の場合は、初心者は四つんばいになって「ワンワン」といってみたりします。まあ、この解答はダメだいうことはお分かりですね。

また、よく大きな声で「ムー」と叫んだりします。

それが大きな声だから、道場のみんなによく聞こえるのですね。

だから初心の修行者は、『ははあ、趙州狗子の公案の答えはこれなんだ』と思って、ネコも杓子も師匠の前で「ムー」、「ムー」、「ムー」、「ムー」と叫ぶことになります。

笑い話のようで、何も分からずにただ「ムー」、「ムー」と繰り返すのはどうかと思いますが、実は、これはこれでとても素晴らしい解答となっているんです。

というのは、この公案が伝えたいことは、過去や未来や他者との比較にフラフラ脱線しがちな自分が、「今・ココ・この身」に復帰して、そこで持ち前を駆使して全身全霊で課題にぶつかってゆく姿こそが仏様なんだというのでしたね。

さて、「ムー」というコトバの響きをコトダマの面から分析してみましょう。

「ムー」は、「M」+「U」ですね。

「M」は、上唇と下唇をくっ付けて発音しますね。ですから、「ある中心に向って集中する」ことを表わすコトダマなのです。

たとえば、「参る」は、神という中心(これが「ま」)に向って入っていくこと(「ま」+「入る」)ですね。

「U」は、動きを表わします。

日本語の動詞は「遊ぶ」、「行く」、「歩く」、「跳ぶ」など、すべて「U」音で終わりますね。

以上をまとめると、「ムー」という響きのコトダマには、カラダ(特に下腹)という「いのちの中心」に向って「意識」を集めてゆくはたらきがある響きであることが分かります。

この公案の解答は、「フラフラしないで、頭ではなくて、君の身にしっかり意識を集めて行動しなさい」ということで、「ムー」と発声することによって、あなたの身に意識を集めることが出来るわけですから、この「ムー」が見事な解答提出となっているのです。(完)