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奥の院・ディープステートがウクライナに火を付けて、その火を煽って大火にもって来た。しかも、その火を消さないように目下薪を盛んに注ぎ足している。
そう言えばここには以前、史上最大の殺人鬼が生まれた。およそ100年前の話であるが、彼はユダヤ人で、その名をラザール・カガノビッチといった(2022年5月5日奥の院通信参照)。
彼は200万人のウクライナ人を殺害した。個人的にも、少なくとも36000人の処刑命令に署名している。来る日も来る日も、ウクライナ人を殺した。彼自身ウクライナに生まれたユダヤ人であるが、そのウクライナ人を200万人も殺害している。
彼は常にスターリンに寄り添った。スターリンも彼を側近として使い、あらゆる権限を与えた。
今から100年前の1922年、スターリンはソ連共産党書記長に就任したが、その時、彼はユダヤ人のカガノビッチを移動させ、共産党の書記局、組織局の長に就け、1924年には、党の中央委員会のメンバーとし、1925年から28年までウクライナの第一書記を務めた。
1930年にはソヴィエト政治局のメンバーとなり、モスクワ市政府の第一書記となった。1935年までこの地位にあり、モスクワ省政府第一書記も務めた。ソ連共産党内でトントン拍子に出世した。どんなに残忍なことをしても、全てスターリンのせいにできた。
彼はその間、スターリンの経済政策の多くを実行したが、その政策の中に農業の集団化があり、これを徹底的に実施した。農民は土地を取り上げられ、収獲した農産物は徹底的に徴発され、翌年撒く種籾まで徴発されたので、翌年から撒く種子がなく、大飢饉が発生した。道ばたに餓死者が転がっている状況になっても放置した。この時のウクライナの死者は200万人を超えた。
1932年から33年にかけて、ホロモドールとして知られる大飢饉を引き起こし、200万人から300万人の死者を出したが、平和時としては史上最大の惨事であった。
この期間中、カガノビッチは自分自身で穀物の徴発を監督した。同様の政策が中央アジアのカザフスタン、クバン地方、クリミア、ボルガ低地帯その他のソ連邦各地で穀物の徴発が実施された。そしてソ連邦各地での惨害が発生し大量死となった。死者は2000万人を超えた。
1957年、非ユダヤ人のニキータ・フルシチョフが党中央大会において、カガノビッチは任期中ロシア人2000万人を殺害したと糺弾した。それに対して彼はその事を否定しなかった。事実であったことを暗に認めている。しかし、ここで彼はフルシチョフに「あんたの手も血に染まっている」と反論している。
ここでフルシチョフは「それは違う、私はあんたの命令に従っただけだ。カガノビッチが大量殺人計画を立案し、その実行を命令したのだ」と反論している。因みに、この両者ともに、ウクライナ出身である。しかし、そこには同胞としての愛情など微塵もない。一方はユダヤ人(アシュケナジー)、他方は非ユダヤ人である。
1953年3月、スターリンが暗殺されると、カガノビッチは共産党を追放され、後ろ盾を失ってモスクワでの年金生活を送り、1991年のソ連崩壊直前に自然死している。さすが、奥の院・ディープステートから課された役目を果たした功績であろうか、最後まで安穏な生活を送り、98歳で死去し、天寿を全うしている。
通常は、人を殺めたら殺人罪で処罰される。多くを殺したら死刑である。ところがその数が膨大であれば処罰されない。大量殺人は、多くの場合、奥の院・ディープステートの命令なり指示でなされるからである。
また、その殺した数がもっと多くなると、それは普通は大虐殺であるが、ディープステートの指示で行われると、これは革命とされ、逆に革命を断行した英雄となる。毛沢東がそのいい例であろう。 カガノビッチの場合、悪かったのはスターリンとされた。カガノビッチ本人はスターリンの指示に従っただけだと言って責任を逃れている。そっとスターリンの陰で、非難されないで無事に済まされた。そして彼の名は歴史から消された。今起きているウクライナ紛争でも、不思議と彼の名前は出てこない。
ただ、事件から80年も経った2010年1月13日、キエフ上訴裁判所は、死後裁判であるが、カガノビッチがホロドモール飢餓で、ウクライナ人に対するジェノサイドを引き起こした犯罪者であったと有罪判決を下している。しかし、メディアはこれを完全に無視した。ディープステートには悪人はいないと言うことなのである。