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1649年1月、イングランド、スコットランド、アイルランドの王チャールズ一世(スチュアート朝)が公開処刑された。「絶対王制を強めて議会と対立を深め、清教徒革命で破れて処刑された」と歴史は教える。
1290年にユダヤ人はイギリスから追放された。1255年にヒュー・オブ・リンカーン少年がコピンズという名のユダヤ人に誘拐され、儀式殺人の犠牲となった。この事件が切っ掛けとなって社会にユダヤ人に対する憎悪感情が増したからであった。そして35年後の1290年、遂に全ユダヤ人追放となったのであった。この事件の捜査にはヘンリー三世が自ら指揮を執り真相解明にあたったので、捜査が公正に進められた。
それからおよそ三世紀を経て1600年にユダヤ人がイギリスに戻ってきた。そして、その5年後の1605年、早速、ガイ・フォークスという名のユダヤ人青年がジェームズ一世の暗殺未遂事件を起こし、国王を亡き者にしようとした。しかしこれは失敗に終わった。
しかも、この事件は国王を亡き者にしようとしたのであるから、イギリス国家としては大逆事件である。当然彼は処刑された。しかし、この事件は暗殺未遂事件でありながら、歴史は「火薬陰謀事件」と伝え、フォークスの行為そのものが、「なかったにも拘わらず、あったように言う中傷で、これは陰謀である」と伝えているのである。しかも、彼に「ナイス・ガイ」(いい男)との言葉を与え、後世にその名を残した。
その後イギリスでクロムウェルがユダヤ人に選ばれて国王を亡き者にするべく活躍し、1649年にようやくその時の国王チャールズ一世を公開処刑にこぎ着けた。その後クロムウェルは一時期イギリスを共和国にした。
イギリスの国體変革であるから、当然その前後のイギリスは大混乱に陥り、多くの国民が犠牲になった。特にチャールズ一世処刑後、王党派の抵抗は続き、それに対する弾圧はジャコバイト運動の過酷な鎮圧として続き、多くの国民が虐殺された。17世紀を通じてイギリスでは大掛かりな大虐殺が行われたのであった。しかし、その実態は「清教徒革命」という美名に隠された。
しかも、その一連の大虐殺は、クロムウェルというイギリスの一貴族が行ったことにし、この出来事も、ユダヤ人が主役であることは上手く隠された。その代わり、大虐殺の下手人に仕立てたクロムウェルには「護国卿」という立派な地位を与えた。まさか「国王」とするわけには行かず、「護国卿」としたのであった。
ところが、歴史ではこのイギリスの大虐殺のことを「清教徒革命」と教える。その内容は「ユダヤ人によるイギリス人の大虐殺」である。ユダヤ人はイギリスに再度侵入し、クロムウェルを使ってイギリス人を大虐殺したのであるが、これを彼らは「革命」としたのである。
上手い言葉を見つけたものである。彼らが侵入してその国を壊し、国を丸ごと乗っ取るために行う大虐殺を「革命」と言うことにしたのである。大虐殺をしておりながら、それは世直しであるように思わせ、それが大成功し、この時期にイギリスで大虐殺が行われたことなど、今では語られることすらない。「革命」という名の「大虐殺」である。
おかげでイギリスは世界を支配する「大英帝国」を築くことが出来た。しかし、その中味はユダヤたち奥の院である。イギリス人は名を与えられ、その心はユダヤに捧げた。イギリスの政治家は今でも奥の院に指図されて動く。現在も、彼らはウクライナのためにロシア攻撃に忙しく働いている。イギリスはあの清教徒革命と称する大虐殺で国體は一変している。
歴史というものは彼らが書く。従って後の世のひとは、それを読んで過去の出来事を認識し、その時行われた大虐殺という悪をきれいに洗い流し、いつの間にか立派なことをしたことにされる。ユダヤ人は素晴らしいと思わしめる。「ユダヤ人を大事にした国は栄える、ユダヤ人を虐めた国は滅びる」と言わしめた。
序でに、彼らは「迫害」という言葉も用意した。彼らに都合の悪いことをすると「迫害された」と大騒動になる。しかもそれを記録に残し、後の世に伝える。彼らが悪さをしてもそれは書かないで、それに対する抵抗だけが「迫害」となるのである。