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今回は「いっぷくからありがとう」さんの2023年07月08日の記事を紹介します。
「怒る人々」
夜が明ける前の闇が、最も暗いと言われます。
今までの嘘が全て明らかにされてしまう水亀座の時代に入り 、今までの思考方法の残骸にしがみつく人々と、新しい精神性の復活の時代を生きようとする人々と、今はまさに最後のせめぎあいのような、夜明け前の暗さなのかもしれません。
・心の大切さ、周りの人々との調和を一番に考える人と
・自分さえよければ、お金さえあれば。。
自分さえよければ。。。の人々は、変わってしまった時代の流れに沿いませんし、
自分の心の内の良心が、常にシクシクと痛んでいますから、余裕がありません。
人を非難し、貶め、中傷し、デスることで、無意識にマウンティングし、相対的に自分の地位や環境を安泰にしようとします。
そして、常に心に怒りを抱えています。
常に、怒りを振りかざし、ちょっとしたことで、正義感の隠れ蓑をまとい、怒りを爆発させます。
社会で何か事件が起これば、自分だけは正義の立場に立ち、その事件の被告を追及し、憎しみをバラまく。
表面的に見れば、誰しも忌み嫌う事件の加害者、その人をどんなに憎み、正義の剣を振りかざそうと、誰も文句を言わないことでしょう。
付和雷同し、煽る人も出てくるでしょう。
誰かを悪とみなし、激しく追及することで、自分自身の留飲も下がることでしょう。
でも、そこには、愛が、ないのではないでしょうか?
私たちを作られた神様は、子供たちの誰かが、罪を犯した時や、他人の心身を蹂躙した時、
その人間を憎み、糾弾し、、一瞬で地獄に落とすでしょうか?
更正の機会を与えないでしょうか?
二度と許してはくれないでしょうか?
その人を糾弾し、憎しみをぶつけた私たちは、たとえ立場が変わろうと、自分だけは決して、そのような行為を行わない、いつも、変わらず正義の人なのでしょうか?
たとえ正義の名の下であろうと、人を憎む者は、自分自身を憎む者です。
人を憎む者の心には、憎しみが宿ります。
その憎しみの種は、だんだんと自分自身の心身や、取り巻く環境に浸透して行きます。
その結果、環境は、だんだんと憎しみ色に染まり、良くない出来事が続くでしょう。
小林正観さんがおっしゃるには、憎しみの心が身体に出た場合、関節の疾患として強く表れるようです。
それでは、今日のお話は「正義感の落とし穴」ということで、まじめな人、一途な人が陥り易い、落とし穴について書きたいと思います。
小林正観さんの著書よりご紹介します。
<引用開始>
真面目な人ほど、正しさを追い求めてしまいます。
その結果、敵意と憎しみが湧いてくるというように、人間の心が創られているのかもしれません。
社会を四十年観察してきた結果、真面目な人ほど、人生を暗く辛いものにしていることが読み取れてきました。
心の勉強をしていった結果として、いろいろなことを学び、心正しい人になり、心正しい行動をするようになっていきますが、どの人も九十八点まできたときに、陥りやすい罠があります。
ある大きな災害のときのこと。
自分の家や土地すべてを売り払って、数千万のお金を作り、被災地で炊き出しをした
農家の方がいらっしゃいました。
ボランティアで一日三食、合計二千四百食を毎日作り続けました。
この話を聞いた人たちも募金をして、半年ものあいだ、炊き出しを続けることができたそうです。
半年後、仮設住宅などができ、必要がなくなったので、家族のもとへと帰っていきました。
この話を聞き、日本各地の商工会議所などから講演依頼がくるようになりました。
そこで、このような話をされたそうです。
「あまりにも悲惨な状態だったので、家や土地を売り、乗り込んでいきました。
いま聞いている皆さんは、会社があり、社員がいて、預貯金もある。
そういうものを全部売り払って、なぜ同じことをしなかったのですか?」
この方は、心温かくて困った人のためにやっていこうという、神のような心を持った方でしたが、ですが、この一言を言った瞬間、会場はシーンと静まりかえったそうです。
そして、同じ主催者から、二回目の講演を頼まれることはありませんでした。
自分は喜ばれるように生きているのに、周りの人は呼応した生き方をせず、自分勝手に生きている。
「あの人がそう思うのが許せない」という、正義の「敵意」「憎しみ」の小さな芽は、誰の心の中にも宿っています。
他人を憎む「心」そのものが、争いの種になっています。
他人や世の中をどうするかより、自分の中の敵意と憎しみをなくし、太陽のように明るく生きていくこと…。
よい仲間と明るく楽しくいたいのならば、目の前の人に対して
・自分と同じように振る舞え
・同じ価値観になれ
と強制するのをやめる。
よい話を聞いて、周りの人にたくさん広めようと思った瞬間、よからぬものが入り込んでいる可能性があり、運とツキが逃げていくようなのです。
人間は、ろくなものでもなくて、大したものでもないと思うことで、心地よい方向にいけるのかもしれません。
<引用終了>
本当に、正義感が強く、良いことをしよう、他人の役に立とうと、一所懸命な人、
ある種のストイックな人、修行僧のような人が、非常に陥り易い罠です。
自分は、これだけしているんだ。
どうして貴方は同じようにしようとしない?
自分の価値観を人に押し付け、強制する事・・
どんなに自分が良いと思うことをしようと、それを他人に強制したりしては、何のための良き行動か解りません。
むしろ神様から遠ざかる行為です。
マザーテレサが仰るように、私達が、誰か人にした事、それは、本当は人ではなく、神様にしたことです。
神様 対 私達のできごとです。
ですから、それを恩に着せることも、自慢する事も、他言する事も必要ありません。
ましては人は、その人に一番適した道のりを、その人のペースで進んでいます。
その人に対して、如何に自分が正しいと思ったことであっても、押し付けては台無しです。
正義感とは、不正を憎み、正義を尊ぶ気持ちのこと。
でも、そこには憎しみの心が潜み、そこには愛や温かさの芽はありません。
正義感の強い人は、周りの人といつか衝突することになります。
自分自身の心身も蝕みます。
その言い分がどんなに正しいことであっても、人には人の、それぞれ事情があり、できることと、できないことがあるからです。
どんなに正しいことであっても、押しつけられたら誰でも嫌になります。
正義感など振りかざさず、自分の主張を「俺が俺が」と言い張らず、自分の生き方が温かく、
明るくキラキラと輝いていて、そこに優しさや、愛を感じる事が出来れば、
その後ろ姿に感動し、人は共感して下さいます。
北風と太陽のお話のように。
貴方は、ご自分の主義主張を人に押し付けてはいませんか?
頼まれてもいないのに、人の生き方に口をはさんではいませんか?
人の生き方を、良い悪い、高い低いで測り、ジャッジしていませんか?
その正義感の底に、憎しみの心は潜んでいませんか?