3403「惜しみなく与える」2024.4.20 自分で自分を自分するから

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今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年04月11日の記事を紹介します。

「惜しみなく与える」

今日は南蔵院住職の林覚乗さんの言葉をご紹介します。

世の中にひとりしかいない自分、かけがえのない自分が、

他人の目や、他人にどう思われるのか?

ではなく、

・どのような生き方をしているか、

・どのような思いの持ち方をしているか、

それさえしっかりと、自分でわかっていれば、それでいいのだというお話です。

<引用開始> 引用元 

ある本にこんな話が載っていました。

中年の奥さんが街を歩いていると、若い男がパンクの修理をしていたそうです。

「パンクですか」と奥さんは声をかけました。

すると、返ってきた言葉は、

「見りゃわかるだろ、お前、あほか」

「パンクですか」という言葉に、

「大変でしょうね、お困りでしょうね」という思いを込めたつもりが、

相手には一切通じなかったのです。

「残念でたまりません」と奥さんは述懐していました。

私は、交通安全協会にときどき講師として呼ばれるのですが、

そのときに、いつもこの話を取りあげます。

そしてその後で、ちょっとしたシミュレーションを行うのです。

車に乗って大きな道路を走っている場面をまず想像します。

あっ、脇道から車が出てきました。

こちらの流れの中に入ってこようとしています。

譲って、前に入れてあげることにしました。

その際、相手がクラクションを鳴らしてくれたり、

手を振ってくれたり、にっこり笑ってくれたりすると、

「ああ、止まってあげてよかったな。いいことをしたな」と思います。

ところが、相手が素知らぬ顔でそのまま行ってしまったとしたら、

何か損をしたような、無駄なことをしたような気になって、

腹立たしくさえ思ってしまいませんか?

でも、大事なことは、譲ってあげることのできた自分の心なのです。

そんな優しさを持っていた自分をほめることができればいいのです。

それが、ほとんどのひとは、止まってあげたのだらから、

・あなたは手を振るべきだ、

・クラクションを鳴らすべきだ、

・にっこり笑うべきだ

というような思いを、先に持ってしまうのです。

求めるのではない、自分自身が相手にいい出会いを与えたかどうかということ、

それだけあればいいのだと思いたいものです。

ノートルダム大学の渡辺和子さんは、著書の中でこうおっしゃっています。

「あなたがほほえみをあげるときに、ほほえみを返してくれなかったひとは、ほほえみを持っていないのだ。

あなたは持っているのだから与えてあげなさい。

優しい言葉をかけたときに返してくれなかったひとは、

優しい言葉を持っていないのだ。

あなたは持っているのでしょう。

惜しみなく与えてあげなさい。

それがあなたの素晴らしさでしょう」

世の中にひとりしかいない自分、

かけがえのない自分、

そんな自分がどのような生き方をしているか、

思いの持ち方をしているか、

その自己確認をすればいいのではないでしょうか。

<引用終了>

自分がかけた

・優しい言葉

・思いやり

それらに対して、感謝の反応がないと、私たちは、途端に、「仏」が「鬼」の心に変わってしまいます。

ですが、渡辺さんが仰るように大切なことは、相手の反応ではなく、そのような行動をすることのできた、自分の心かもしれません。

最後に、マザーテレサの言葉をご紹介します。

人は不合理、非論理、利己的です。

気にすることなく、人を愛しなさい。

あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。

気にすることなく、善を行いなさい。

目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。

気にすることなく、やり遂げなさい。

善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。

気にすることなく、し続けなさい。

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。

気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい。

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。

気にすることなく、作り続けなさい。

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。

気にすることなく、助け続けなさい。

あなたの中の最良のものを、世に与え続けなさい。

けり返されるかもしれません。

でも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。

気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。

『最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、

結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。

あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです。』