森信三先生の言葉 12~人間の偉さというものは、その人が・・

 人間の偉さというものは、その人がいかなる志を立て、それを如何ほどまで実現するかによって決まるとも言えましょう。否、さらに突きつめて申せば、そもそもわれわれ人間の志というものは、その人が真に心中に希うだけは、必ず実現するものだともいえましょう。すなわち一人の人間が、真にその心中深く念じて止まぬ事柄というものは、必ずやいつかは、何らかの形で実現せられるものであります。

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 われわれ人間は必ず死ぬものであり、人生は永遠に二度とふたたび繰り返すことの出来ないものだということは、古来かって一人も例外のない人生の最大鉄則であります。この人生の最大鉄則に向かって、如何にわが身を処して行くかが終生の課題です。

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再録 奇跡の道 その111~犠牲の真の意味はなにか

「犠牲の真の意味はなにか」

真理においては「犠牲」という言葉自体は
まったく無意味ですね。
それは一つのレッスン、そして幻想でしょうか。

実相においては学ぶべきことはひとつもない。

この世界が与えることのできるものは何もない
という事実を悟り、受け入れるには、多大な学びを
必要とするようですね。

そしてこの世界が定義する犠牲で、肉体に関連
しないものは皆無でしょうか。
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再録 奇跡の道 その112~世界はどのように終わるのか

「世界はどのように終わるのか」

始まってもいないのに、真の終わりはあり得ませんね。

世界は、それが始まったときと同じく、
幻想の中で終わるのでしょうか。
ですが、その結末は慈悲という幻想のようです。
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森信三先生の言葉 13~なにゆえ師は、人生における光・・

 なにゆえ師は、人生における光であり力なのでしょうか。思うに師とは、真理が一人の生きた人格を通して具現せられた存在だからであります。ですから、もし人間がただ単に書物だけを読んで、生きた一人の師に就くことをしなかったならば、その人が如何に「道」といい「真理」といいましても、畢竟(ひっきょう)じてそれは未だ机上の論を離れない処があって、真に身を以て体験した道の真趣には至り得ないといえましょう。
 ですから古来卓れた人々で、師を持たなかったという人はなく、また師を尊敬しなかった人はないのであります。それというのも師を尊敬するということは、結局は「道」を尊敬するということであり、否、「道」そのものを最も深く、その具体現実の相において把握することだからであります。

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 真の学問とは、自分の気質根性を改める力のあるものでなくてはなりません。そこまで行かないものは皆ニセの学門です。ところが、自分の気質を改めるということは、実に至難中の難事であって、生涯をかけての大事業です。お互い人間というものは、死ぬまでにはスーッと透き通るように、キレイになって死にたいものです。屍体の方は後に残った人が浄めてくれますが、心の方は自分で浄めて死なねばなりません。

森信三先生の言葉 14~不幸というものは一面からは・・

 不幸というものは一面からは確かに損失といってよいわけですが、しかも天は至公至平でありまして、こちらで損失を起こしたら、他の方面で必ずその償いをしてくれるものであります。しかしながらこの点は、これを信ずる者にのみわかる事柄でありまして、その為に信じられない者は、たとえ償われていても、その償われていることがわからないのであります。

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再録 奇跡の道 その113~最後には一人ひとりが審判されるのか

「最後には一人ひとりが審判されるのか」

まさしく!その通りのようですね。

しかし、もはや恐れと結びつけなくなるときまで
それは訪れませんね。
誰もがそれを歓迎するようになるとき、それが彼に
与えられるのでしょうか。
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再録 奇跡の道 その114~どのように一日をすごすべきか

「どのように一日をすごすべきか」

目が覚めたあと、できる限り早いうちに静かな時間を持ち、
それがむつかしいと感じ始めた後も、1~2分は続けてみる。

その難しさは減少し、消えてしまうかもしれません。
もしそうならなければ、その時がやめるべきときかも。
夜の時間も同じです。

確信しているべきことは、成功は自分がもたらすのではなく、
自分がそれを呼び求めるときはいつでも、どこでも、
どんな状況でも、与えられるということです。

「どのように一日をすごすべきか」

森信三先生の言葉 15~われわれの命というものは、祖先以来・・

 われわれの命というものは、祖先以来無量の生命の重畳であり、その結果と申さねばなりません。実際わたくしたちが、針の先で突いて出る程度の血の中にも、実は過去無量世の祖先の血が圧縮せられて重畳しているわけであります。それ故このように考えて来ますと、わたくしどもは自分の生まれる以前の「業」を、わが身の内に宿しているということは、必ずしもこれを非科学的だとか、迷信といって片づけられないものがあるわけであります。

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 この「業」という考えは、われわれがこの人の世において受ける諸々の悩みや苦しみに対して、何とかして逃げようとか免れようと焦りもがくのではなくて、わが身の受けるべきものは、そのすべてを自業自得として受けるという態度であります。即ちこの態度は、悩みや苦しみを回避するというのでもなければ、さりとてまた単にそれに泣き溺れてしまうのでもありません。そうではなくて、自分の果たすべき「業」はそれを果たして了うまでは、どこまでもこれを甘受し受け容れて行くという態度であります。否、自己の果たすべき「業」はたとえ生涯をかけても、あくまでこれを果たして行こうとする雄々しい人生態度ともいえましょう。それは例えば柿の渋を抜くようなものです。つまりこの「業」という考えに立つ時わたくしたちは、いろいろな悩みや苦しみに出合う毎に、一歩一歩自分のアクが抜けていくのだと考えることが出来るのであります。


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