「あらゆることは自分が望んでいる。
天国を投げ出したことへの自分自身の憎悪。」
「あらゆることを望んでいるなんて・・・」
つぶやきのお声が聞こえそうです。(笑)
あんな大変なこと・・・。
現象やご縁は与えられた癒しへのチャンスでしょうか。
もちろん、あんな大変なこともです。
与えられた専用のチャンス。
自責の念なんて言葉がありますが、他責の念なんてありませんね。
ところが他人を赦したと思っていても、自分の心のうちに
責める気持ちを抱いたままでは、他人と言う兄弟を
責める思いをなくして癒されることはありませんね。
だから赦したつもりは、なれないとやっかいなものです。
他人を責めない、そして自分も責めない。
他人を責めたら、自分を責めたことになるからでしょうか。
そして決してその念を抱かない。
天国を投げ出したこととは、他人という兄弟は
自分でないと分離した自我のことです。
だからあらゆる体験、あらゆるご縁はすべて
分離したことへの自分自身への憎悪のようです。
他人と言う兄弟は自分そのものだから。
「天国は完全にして形なく不変、抽象、永遠で無辜(むこ)で
全体で豊かで完全な愛(生命)。」
一部だけでもと思って完全を拒否していると、
次々に幻想という現実がやってきます。
大変なことが。
楽しむべきはこの世と言う幻想でなくて
完全という天国でしょうか。
完全なんてつまらないと言っていると、
自我の虜のまま。
まったく次元の異なる二つの相いれないものを
同時に認めることになります。
ありえないことですが。
なにもかもをと思いきれたら、天国への扉が
開かれるかもしれません。
すべては与えられた強い自由意思しだいですが。
「あらゆることは自分が望んでいる。
天国を投げ出したことへの自分自身の憎悪。」