人間の気品
そもそも人間の「気品」というものは、いわばその人の背後から射してくる後光みたいなものでありまして、それは結局その人が他人の見ていないところで、どれほど自己を慎むかどうか、その程度によって光の差し方が違ってくるわけであります。
つまり人間の「気品」とかゆかしさというものは、その人が他人(ひと)知れぬところで慎む心の慎みの功徳が、いわば見えない光となって、差し出るようなものであります。現にゆかしいという言葉は、奥という字をつけて奥ゆかしいともいうでしょう。この場合奥というのは、底がはっきり見えぬということで、つまりその人が他人の知らぬところで慎むところから射す心の光というわけでしょう。
このように考えてきますと、人間の修養の深さは、人前と家との差が無くなることだ、といってもよいでしょう。つまり、時と場所とか変わっても、その人の根本の心構えが変わらぬということであります。さらに言い換えれば、場所のいかんによって、心の弛みが出ないということです。