ある集い

およそ一年ぶりに飲み屋さんでの集い。
学生時代の5名が(いつもですが)集いました。
70歳近くの年齢になりますと、さまざまなそれぞれの
家族や親類の方の変化が大きく、また自身の体の
状態も変化して、すこし開催の時間的な間が伸びていました。
酔うほどに話が広がって、4時間です。
四国巡礼の旅に出かける機会が多い方もみえて、
「般若心経」や「この世の真理」の話にもなりました。
仏説についてその意味は「色即是空 空即是色」につきること、
不変なる物は空で、変化するもの(無常)は色、とわかったような
言葉が酔いに任せて口をついて出てきました。
翌日再び心経の意味を調べていました。
今まで何度も学んではいたのですが、
その場その場で理解が違う感じです。
宇宙や人生の真理を知って、そのあまりの単純さに
心打たれたブッダでしたが、このことをたった一言の
人は「無明」ということばで語り、「無明」を去れと
説き続けたようです。
仏教の始まりです。
「心経」の学びから始まって、仏陀のことばの調べから
気になった言葉群を紹介させていただきます。
☆最大の名誉は倒れないことではない。
 倒れるたびに起き上がることである。
☆因果によるものはすべて「無常」
 このことを知るとき、人は苦しみから逃れられる。
☆眠られない人に夜は長く、疲れた人に道は遠い、
 正しい教えを知らない人にその迷いは長い。
☆壮大な岩が風に動じないように、賢者は非難と賞賛に動じない。
☆地上の王座より輝かしく、世界の支配よりすばらしきものは、
 解脱の最初の法悦の瞬間である。
☆愚かな人は「私には息子がいる」「私には財産がある」などと
 言って、それで思い悩むが、自分自身がそもそも自分のものではない。
 ましてや息子や財産が自分のものであろうか。
気になるってことは、できていないことなんですね。
まずブッダの「無明をされ」を日々すこしずつでも
実践したいものと感じさせます。

「永遠の汀(なぎさ)に立ちて」 生命の光 手島 郁郎 師

毎月横浜から送られてくる「生命の光」ですが
もう15年近く読ませていただいてます。

キリストの幕屋


イスラエルへのたびの後、知人となった方からの
贈呈が毎月あるのです。
幕屋ですから、神はどこにでもあって幕を張れば
そこに神が降り立つと考えるらしいのですが。
教会を持たず旧約新約聖書を学んでいく集団です。
その今月号の「永遠の汀(なぎさ)に立ちて」が
とても心に響きました。
創始者の手島郁郎さんの言葉です。
少し抜粋です。
☆時間という次元を突破して、永遠の次元に一歩踏み入れた
 人間は強く逞しい。
 ここに真に人生に勝利する解決がある。
 死におびえている間は永遠の生命というものはわからない。
☆80年~70年の生涯においてもっとも大事なことは
 次の永遠界を確かめることです。
 これ以上にえらい仕事はありません。
☆「永遠より永遠まで」ということがわかったら、
 私達は活き活きと生きられる。
 隠れたる世界が見ゆる世界を造っている。
☆聖書では、時間は未来から過去に流れていると考える。
 過去のカルマが現在ではなく、真の信仰の人は
 すべては永遠の世界から流れてくる、神の前から、
 時は流れてくると知っているので泣き悲しまない。
☆自分の過去がどうあろうが、過失があろうがそんなことは
 どうでもいい。過去も現在もすっかりひっくり返すような、
 ものすごいエネルギーをもつ流れがある。
 神の時が未来という世界から現在に向かって流れてくる
 ものすごい生命の川がある。
☆過去を振り向くものは時間の奴隷となり、未来を見るものは
 時間の主人となる。
私達は人生でうまくいかなくなったり、悲しい出来事にあったり
苦しい体験をしますと、何故自分ばかりがとか、ときには何か
前の世で悪いことをした報いなのだろうかと自分を責めたてます。
イエスキリストは言っています。
「すべて労する者、重荷を負う者、われに来たれ、我汝らを休ません」
イエスは常に変わらず、私達のすべてを赦しています。
永遠にです。
そしてもちろん私達でもそのことはできるのです。
こちらはクリスチャンではないです。
でも言葉はとても美しいのです。
時空間はエネルギーであって、ただの現象幻想でしょうか。

シーター波

昨夜映っていたテレビでシーター波のことを言っていました。
「ためしてがってん」です。
瞑想すると脳からシーター波が出て精神の安定につながり
痴呆も改善するというお話です。
政木和三博士のことを思いだしていました。
もう20年を超える以前のこと。
名古屋に月に一度みえて、駅前のビルで講演がありました。
「人生の目的は他人の役に立つこと」明確な理念でした。
政木博士は能力開発に右と左の音をわずかにずらした
うなり音がでる機器を発明していました。
それをつけていると記憶力がついたり、健康になったり、
またシーター波が出て願望の実現スピードが速くなりますと
言われました。
やはり政木博士も「思っていることは実現する」と
明確です。
シーター波は夢を見ているときとか、寝入りばなに脳に発現する
脳波のサイクルの少ないゆったりとしたものです。
アルファ波よりもサイクルが半分ほどです。
もっとゆっくりだとデルタ波。
シーター波やデルタ波の状態に脳があると、
思っていることの実現スピードが速いようなのです。
そのシーター波を発現させるのに有効なのが瞑想。
瞑想によってご老人の痴呆性が改善された実例が放送されました。
最近のメディアの傾向は薬などに頼らずさまざまな
方法で健康になる実例を紹介することが多くなっているようです。
そして不思議と手術を回避したり、薬はなるべく飲まないようにと、
今までタブーとされてきたようなことをはっきりと主張しています。
なにか世の中の大きな力の均衡が崩れてきていることが予想されます。
この政木博士のソウルメイト(半身)と言われていたのが
昨日話題にさせていただいたGLAの高橋信次さんでした。
連日不思議な縁の話題が続いています。
☆一時社会問題化しました政木博士発明の神経波磁力線は
 ドイツでは医療保険可能な機器に認定されました。
 問題になった当時でも、機器の実際の使用者の方から
 癌に有効であったことが数々報告されていました。
 今考えて見ますと、神経波磁力線の機器を体にあてるということは、
 N極S極逆転させる交流磁力線で体内の血流圧(内圧)を高め
 体外からエネルギーを吸引し肉体の酸欠を改善することになり、
 しごくまっとうなことと納得できました。
 今さらながらの気づきです。

秋の風

今日は会社の近くのご老人お二人がある集いの
勧誘に会社を訪問されました。
もちろん面識のない方ですが、なんとなく昔会社の
経営者ぽい方々です。
それで勧誘の趣旨はGLAへのお誘いです。
今は高橋信次さんの次の高橋佳子さんが柱です。
高橋佳子さんとお聞きして、すぐGLAとお答えしたものですから
「いつからご存知ですか。?」と質問されました。
「20年位前からです。」とお答えしますと、驚かれて
「実はこのご案内御社が始めてなんです。
初めてでとても元気をいただきました。」
といわれました。
GLAの説くことは「人は永遠の生命を生きる魂の存在」です。
そのことを理念に団体として行動し、会員の方々が切磋琢磨して
その理念を守っていくことに努力されているようでした。
「宗主なく、会費なく、選民意識なく、教義なく、恐怖心なく」が
こちらの判断材料ですので、それには該当しません。
これもまた自我ですが。
それにしても今のような時代に必要と判断されているのでしょうか、
お二人のご老人は若者のようにさわやかに去っていかれました。
6年間水替えのない水槽にたくさんいためだかは1尾に、
そして4月19日から育成の海老はついにやはり1尾に
なりました。いつのまにか1尾なのです。
この1尾の姿が見えなくなったらおもしろいです。
ちょっと恐いですが。
水温14度が生死の分岐点です。
その10月が近づいてきました。
一雨ごとに秋の風が近づいてきそうです。

黙想の再開

毎日の生活の中で、自分がいままで犯してきた
さまざまな行為を、その対象者に詫びながら生かされています。
あの時こうすればよかったと、今は反省ばかりが
頭に浮かびます。
なんてできなかったんだろう。
そんな反省ばかりです。
さまざまなことを学んで夢を実現し幸せになっても、
無になって「それ」を知っても、それから結局
どんな風に生きるのかをいつも問いかけることになります。
自分にです。
結局はどんな状況にあってもそのときの「今」に
感謝するしかないのに、人間は変化するものを求めて
夢見る動物です。
まずは不変を知ることが先なのですが。
たいていは、その不変を知らずに肉を脱いでいきます。
何を知って達しようと、マザーのように奇跡を行い「聖人」に
なろうと、いつだって「今」にしか過ぎないのです。
あの神戸の地震の日から途絶えていた黙想を始めることになりました。
アルコールを控えるようにとの機会を与えられましたので。
今一度の「自覚」が今生の意味を教えるのでしょうか。
自分しかいない無限宇宙を漂いながらも、
どこまで行っても「今」ですが。
目前に現れる「今」をただ感謝するしかないです。

マトリックス

今まで生かされてほとんど映画のような人生です。
たぶんどなたでもそうでしょうけれど。
映画なのに妙にうなずいてしまう映画が「マトリックス」です。
全時間全空間が過去未来なく全方向に
自らが生かされています。
そしてそれをあやつる存在がある。
もしかしたらそれは登場人物である自分自身かもしれない。
すべてのすべてを生み出すとろとろの黄金の光が自分。
もし自分だとしたら、こうしている場合じゃないですよって
思ってしまいました。
主人公は俳優キアヌリーブス。
一時期心を病んで、その彼の奇行が知らされたりしていました。
彼のことが書いてある赤塚さんのブログを今朝拝見しました。
人生で大変なことがある人は大変だけれど、何事もなかったかのように
生きているのを見ると、人々に勇気と真理を与えるのかもしれません。
シェアしていただいたら嬉しいです。
ここです。
キアヌリーブスの気持ち

マザー・テレサ 愛の贈り物

自分には愛という言葉はとても遠くて
なんだか恥ずかしい言葉なんですが、
1997年に肉体を脱いだマザー・テレサには
とてもぴったりの言葉です。
マザー1.jpg
マザー2.jpg
この土曜日、文庫本になった本が、著者の五十嵐薫さんから送られてきました。
「インド心の旅」を主催しおそらく日本人で
もっともマザー・テレサさんと親交が篤く、
マザーの帰天の日にもインドのコルカタのマザーハウスにいて
遺体に立ち会った方です。
実際に彼が経験した話ばかりなので、読むものの心に
深く刻まれる言葉群です。
インド心の旅に五十嵐さんにご案内いただいた時期には
すでにマザーはこの世にはみえず、マザーハウスの一番後ろの
いつもマザーが座っていた場所にはマザーの人形がありました。
You did it to me.
(あなたが私にしてくれた)
マザーが講演の冒頭に決まって話す五本の指の
この言葉が胸に迫ってきます。
通常忘れがちな大切なことを教えてくださる本だと感じます。

人として生まれて・・・

この数週間の間に、たくさんの方々から
私設飲み会のお声がかかりました。
久しぶりの方、近くの方、久しく断絶していた方、
学区の方などからです。
それで短期間にたくさんのアルコールをいただいたので、
肉体(心臓)が悲鳴を上げていました。
それでこの2日間本当に幾年かぶりにアルコールを口にしませんでした。
すると夕食がとてもたくさんの量になります。
なのにいつもは眠くなるのですが、眠くもならないのです。
今朝午前2時、急に目が醒めまして、何故だか机に向かい
紺色のブックカバーに包まれた本を取り出していました。
森信三先生の「修身教授録」でした。
なにげなく最初のページを開きます。
先生が40歳の頃教員志望の学生に行った講義の
記録です。
一番遅筆の生徒を窓際の前の席に座らせて記録をお願いしました。
そしてその生徒の記録のスピードに合わせて講義を行われました。
昭和12~3年の頃のことです。
戦前の修身といえば何か古臭く感じるのかもしれませんが、
その「修身教授録」にある言葉群は、まぎれもなく現代の
そして未来の人々に行き方の原点を示すものと感じます。
人間の年齢に関わらずです。
第一節は講義をする生徒に向けてのメッセージです。
何故先生と生徒は出会ったのか、そして何故この講義が
開かれたのか。  必然の出逢いを真剣にゆっくりと説いていきます。
講義が終了し、必然という言葉に合点のいかない生徒が
先生に質問します。
「先生私には先生との出逢いが必然とは思えないのですが。」
先生は答えます。
「まあそう思っても一向にかまわないですよ。
諸君たちはまだ若い、私のような年齢になれば
人間の出逢いが必然だと気が付くことでしょうし、
またそのように思ってこれからの人生を生きるか、または思わないで
生きるかでは人生の意義が大きく異なるとおもいますが。」
というようなことをおっしゃって静かに教室を退室されます。
生徒はうわさに聞いていた以上にしっかりとした
重みのある講義に魂を打たれるものが多いようでした。
第二節は「人として生まれて」でした。
私達の周りを見渡せば、雑草だけでもものすごい種類になります。
また動物の種類をあわせると膨大な種類になります。
なのに何故私達は人として生まれたのでしょうか。
誰でも人生一度は人間として生まれたのは何故なのだろうと
疑問を持ち、さまざまな考えをめぐらせます。
しかし人生を経験していくうちにそのような考えは次第に
遠のいていきます。
そして人生のさまざまな雑事に翻弄され、真に人間として
生まれた意義について深く考えることもなく人生を終えます。
人間ならば絶えず自分が人として生まれた意義を心のうちに
秘めながら人生のさまざまな事柄に対処していきたいものと
思います。
文章が少し違っているかもしれませんが、一気に読み進む重い言葉群です。
そして第三節は「この国に生まれて」です。
世界にたくさんの国がある中で、この大和の国に
生まれたというのは何故なのでしょう。
今に至る、親や先祖、そして遠い民族の連綿として
続く血脈が私達の中に流れていることを知らねばならない。
思い出せと言うかのように深夜の心に響きます。
「修身教授録」忘れずに読み進みたい本です。
今回で6度目くらいになりました。
再びの始まりです。