「古事記と言霊」講座を終って  島田正路様 講話から

勉強嫌いな私を、ワクワクさせた久々のもの「コトタマの学び」。
その第4回目の島田正路様の講話集の最終号183号は、
その格調の高さゆえに、多くの人々の魂をゆさぶったことと
推察いたします。
島田正路様の師である故小笠原孝明様のことば、
「コトタマ学は、値なくして得られたものですから、
値なくして人々に与えなさい。」は珠玉の教えでしょうか。
よろしかったらお読みください。
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「古事記と言霊」講座を終って(続) その二十四 平成十五年九月号

 数千年の間、世界人類の第一精神文明創造の根本原理であったアオウエイ五十音言霊の学問は、今より二千年前、神倭皇朝第十代崇神天皇の時、人類の第二物質科学文明創造促進のための方便として、社会の表面から故意に隠されてしまいました。古事記はこれを天照大御神の岩戸隠れと謂い、儒教は結縄の政の終焉と呼び、仏教は仏陀入涅槃(ねはん)と謂い、聖書はエデンの園の閉鎖と呼んでいます。人類の歴史上最大の事件の一つと言う事が出来ましょう。

 言霊布斗麻邇の学問の隠没は人類の第二物質文明創造のための方便でありますから、学問隠没の時代の期間、予想される人心の荒廃に対処する施策、並びに物質科学文明完成の暁、復活する言霊の学問を受け入れる為の人間精神の修行法が必要です。その為に創始されましたのが儒・仏・耶の信仰宗教でありました。物質科学文明創造の精神の暗黒時代にこれ等の宗教は、人々が生きて行く為の心の支柱の役割を果しました。また物質文明爛熟の現代、不死鳥の如く復活して来ました言霊の学に入門する為の心構えを提供してくれるものでもあります。

 老孔孟の聖人が説いた儒教、釈迦が開いた仏教、イエスが遺した聖書等の書を読みますと、右に述べました皇祖皇宗の至れり尽くせりの御経綸についての深い御配慮が心に浸みて分って参ります。特にここ二千年乃至三・四千年にわたる第二物質科学文明時代の言霊ウの弱肉強食の世相、言霊オの概念的経験知識による魂の束縛から脱却して、精神の自由を回復する為の修行法としては、正にこれ以上ない合理的な教えを私達に示してくれます。この一事に気付いただけで、我が皇祖皇宗が私達現代人のために払われた御配慮の深さに感謝の念を禁じ得なくなります。
 


私の言霊学の先師、小笠原孝次氏は、言霊学を学ぼうと先師の門を叩く人に対して「貴方は今まで宗教修業をした事がありますか。あればその宗教を一応卒業してからおいで下さい。なかったならば、儒仏耶の宗教書をお読み下さり、自己の魂の浄めという事が如何なるものなのか、という事をお知りになってから私の所へおいで下さい」と告げられるのを常としました。言霊ウ・オ次元の壁を突き破って、言霊アの魂の救われ、諸法空相、諸法実相の見所に一応の見極めが出来ない内は、言霊学の実地の門に入る事が困難である事の教えを示したのでありましょう。

 また同時に次の様な事もありました。師を訪れた人が自らの魂の救われ、空の見所に至る方法等を尋ねますと、きまって「私は坊主ではない。そういう問題はお寺の坊さんに聞いて下さい」と答えていました。儒教についても、またキリスト教についても、同様な意味の答えが返って来たものです。先師はその当時、古事記神話の呪文(謎)を解いて、言霊布斗麻邇の学問の復活、確立に全力を傾けていらっしゃった時であり、個人の魂の浄めの問題にまで関る暇がなかった為でもあったのでしょう。但しお話を伺った後に幾度か「言霊学に入る実践・修行の道場として小さくともよいから静かな部屋が欲しいものです」との先師の言葉を聞いた記憶があります。時が来たならば、言霊学入門に必要な御魂磨きの為の鎮魂帰神道場を開設して、人々の勉学のお手伝をする意図もお持ちになっておられたのではないか、と推察されます。

 さて、先に述べました復活して来た言霊学に入る為の御経綸の施策として役立つべき現在の仏教・儒教・キリスト教等の活動について一言申上げることにしましょう。御経綸では、物質科学創造の時代に於ては人心荒廃に対処する精神の慰めとしての宗教であり、第三文明への転換に当っては、言霊学入門のための心構えを得る教えとしての宗教でありました。しかし現在は精神の夜明けの寸前の、人心荒廃がその極に達した時であります。その為でありましょうか、従来の諸宗教は困難な時の人心の心の支(ささ)え、慰めの用を専らにして、精神文明時代に於ける心の真実である愛と慈悲の根源である言霊学のア次元存在について言及する宗教家は極めて寥々たる有様だと聞いております。でありますから先に挙げました先師の言葉「そういう事はお坊さん(牧師さん)に聞いてくれ」という事も期待出来ない事になります。

 真実の鎮魂の行のやり方を従来の宗教家に期待出来ないとしたら、どうしたらよいのでしょうか。方法はないのでしょうか。否、そうではありません。皇祖皇宗の御経綸に疎漏はありません。それは何か、各宗教に伝わる聖典・聖書・教典です。各宗教の教祖や聖者、大師が後世に遺してくれたそれ等の書物は一字一句として間違いなく究極真理を迎えるための心構へに至る方法を事細かく指示してくれています。これ等の教えに則って勉学・修行すれば間違いなく進路を開拓する事は可能です。儒仏耶の諸経典・聖典を、勉学者御自身の意の赴くものから繰返し繰返しお読み下さる事です。何処かに御自分の心の琴線に触れる箇所がある筈です。そこを起点として心の反省の範囲を広げて行けばよい事になります。

 経典・聖典を読む事について先師は私に次の様なアドバイスをされた事を覚えています。「仏典や聖書を読む時は、成可(なるべ)く原文か、またはそれに近いものを読むことです。現代人の註釈書は読まない事です。個人の経験知識による註解は思わぬ方向に勉学者の心を迷わす事となります。初めの間は辞書を引いたりして手間がかかるかも知れませんが、原文を繰返し読む内に経文の真意は自ずと分って来ます。末法の世と言われる現代の人の経験による知識からの註解程当てにならぬものはありません。」このアドバイスに従って、私は仏典を読むには岩波文庫の経文の漢字假名まじり文を読む事にしたものです。また聖書を読むには戦争以前の文語文の聖書を選んだものでした。これ等の宗教書は今でも私の書棚に並んでいます。

 言霊学の門に入る為のア字の修行についてお話しているのですが、前置きが続きます。堅苦しい文章が続いて恐縮でありますが、もう少しお付き合い下さい。これはズーッと以前、会報の随想「釣」という文章でお伝えした話です。先師は昭和二十年代の後半、そのまた先師の山腰明将氏について言霊学の手釈(ほど)きを受け、友人・知人に言霊学理論を宣伝していた頃、群馬県の禅寺の坊さんから「貴方は言霊の学問について大層自信をもって吹聴しておられる。言霊学が貴方の言われる如く人の心と言葉についての究極の学問だと言うからには、貴方は当然禅で謂う「空」をご存知なのでしょうな」と言われ愕然とした、といいます。先師はお坊さんの言う禅の「諸法空相」を知らなかったのです。その時以来、先師の多摩川畔での坐禅修行が始まりました。釣道具一式とコオモリ傘一本とを持って朝早くから夕方まで、時には夜遅くまで、釣箱に腰かけ、川面に向って「人の心の本体とは」を思う坐禅です。一本の傘が雨の日には雨傘に、晴れの日には日傘になって一年有余、一日の欠くる日もなく坐り、終に自分の心の本体が宇宙(空)そのものであることを何の理屈もなく知る事が出来たといいます。先師の「古事記解義、言霊百神」の研究はその後急速に開けたと聞いています。古事記神話の冒頭の文章「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、……」の「天地の初発の時」の意味・内容の自覚がその時完成したからでありましょう。言霊アの宇宙が自らの心の本体であること、その中心の一点である「今・此処」に始まる宇宙剖判によって心の現象の一切が生まれて来る消息を自らの中に把握出来たからであります。

 先師小笠原孝次氏は明治生れの、道を求めるに極めて厳しい人でありました。私はその師から二十年間御指導を頂いたのですが、先生の学問に対する厳格な態度を示す文章がありますので、ここでお伝えしておこうと思います。それは先師が言霊学を復活する上で必要なア字の自覚を確立した後の、昭和三十四年十二月に会誌「皇学」に載った「修行者に」という随筆の一文です。求道者小笠原孝次氏の面目躍如たる文章であります。

 「修行者に」
 全身全霊を挙げても、も早やこれ以上の工夫も努力も出来ない、ギリギリの境に行った時、それでも猶その先に道の実体が存することを信ずる時、正しい仕事をしなければならぬ念願に燃える時、その時自己の無意義なことがしみじみと判って、初めて無碍光、無量寿の神の存在を体得する。
 行者が行者である間はまだ本物ではない。坐禅でも水行でも、或は山野の行脚(あんぎゃ)でも鎮魂帰神でも、自分の意図計画、或は他人の指導で「行」がやれる間はまだく隙間がある、余裕がある。生温い。「行」をやれる余地がある間はまだ自分の力を本当に出し切っていない証拠である。斯う云う意味の「行」や特殊の霊能力を他人の前に相対的に如何程誇っても、絶対者の神の前には無価値である。もう是以上修業が出来なくなった時、初めて自己のための修業でなくて世界のための、人類のための本当の修業、本当の仕事が出来る様になる。これを菩薩行と云う。然しそれまでは何処までも勇敢に修業工夫を積んで行かなければならぬ。「君がため幾度か蒼竜屈に下る」(碧岩)と云う。修業しなければ佛に遭うことは出来ない。

 けれど修業したからと云って必ずしも佛に会えるものではない。「大修業底の人、因果に堕するやまた無しや」(無門関)と問われる所であり、大通智勝佛が十劫道場に坐している一面の所以でもある。修業しようと思う心は、求めんとする所ある有漏の自己の営み、然し佛は宇宙の生命意志である。この両者はまるきり懸絶した全然別箇の事柄である。真実はこの矛盾を飛び越えた所にある。(「皇学」第二十二号)
 以上先師の文章の紹介までを前置きとして言霊学入門としての言霊アの修行について気が付いた事をアットランダムに書き記して行く事にします。人はそれぞれ生れ、育ち、環境等々に違いがあります。そのためどんな方法がその人に適しているか、一概には決まりません。ア字の自覚を志す方は私が長い勉学の中で思い出すままに綴る文章の中から自分に合うと思う所を参考にして頂きたいと思います。

 先ずア字修行には前提となる心構えが必要です。その心構えから始めます。言霊アの次元を自覚しようとして、今までに身に付けてきた種々の経験知識を更に広げて行けば、言霊アの境地に到達すると思いますと、一生かかっても自覚は困難です。ア字修行を始めるまでの勉強は進歩の学問です。積めば積むほど学識は大きく広くなります。これは言霊オ次元の学問方法です。けれど言霊アの修行はその反対です。ですから退歩の学と呼ばれます。何故かと申しますと、ア字の修行とは自分がこの世に生れた時の境地を再確認する作業なのです。生れたばかりの赤ん坊は何の知識も持っていません。けれどその真更(まっさら)な心の中には天与の性能であるアオウエイ五母音の天之御柱が既にスックと立っています。という事は生れた時から「救われている神の子」としてこの世に姿を現わしたのです。生れた時から神なのです。それが生長するに従い教育や社会体験によって経験知識を身につけ、更にその経験知識の総合体を「自我」と思い込み、生れた時からの「神の子」を自覚することなしに「自我意識が自分だ」と思ってしまうのです。キリスト教旧約聖書の創世記にある「禁断の木の実」を食べてしまったのです。

 ア字の修行とは、右の事に気付いた時点からは、心の生長の順序・内容を逆に辿って生れた時まで遡って行く事となります。という事は心中に積み重ねて来た経験知識を再点検して、自分がこの世の中に生きて行くために、自分が身につけた経験知識がどの様に役立っているか、どの段階で役立ち、どの様な時に矛盾を起すか、即ち経験知識の分際を確かめる事なのです。こうして身につけた経験知の分際が尽く明らかにされた時、人は物事を自分に対するものとして、即ち対象として見る見地から脱却して、生れた時さながらの自身そのもの「宇宙」に再会します。自分の本体とは、五官感覚(眼耳鼻舌身)や思惟・思考で捉える自身ではなくて、神・仏の子と言われ、心の宇宙と呼ばれ、「空」と表現される思考の本源だという事が分ります。この様にして生れた時から神であり、仏である身が、経典・聖典に記された修行によって自分が本来の神・仏そのものだ、との自覚へ導かれるのです。言霊アの自覚とは、新しく発見する境地の開拓ではなく、既に生れた時から賦与されている身分を「実はそうだったのか」と今更の如く知る事なのです。これが心構えの第一です。

 ア字修行の心構えの第二の要諦は、第一の事項に関係するのですが、言霊アの宇宙の自覚を目指すには、その自覚を欲しがり瞑想や種々の修練によって近づこうとしても、それは無駄な事と知るべきです。人は生まれながらに救われており、宇宙を本体として生れ、宇宙の中に育ち、死んで宇宙に帰ります。唯自覚していないだけなのです。それなのに更めて宇宙を望んだとて全く無意味な事です。前にも申しましたが、太陽は天空に輝いています。若し見えないとしたら、それは雲がかかっているからです。雲が切れれば太陽は顔を出します。人の心の雲とは何でしょう。それは人の自我意識を構成する経験知識です。経験知の事をサンスクリット語で業(カルマ)と言うのだそうです。人の心の本体が言霊アの宇宙であるとの自覚が得たければ、自我だと思い込んでいる経験知を本来の自分ではない、と否定することです。経験知を否定すると申しましても、身につけた経験知のすべてを否定するのではありません。自分がそれを信じ、信念・信条・道徳・常識と思っている知識、それ等の事と違反した行為を見聞きすると、まるで自分自身が犯された如くそれに対抗し、心中に批判の心が騒ぎ出す原因となる経験知を否定するのです。経験知の否定とは、経験知そのものが不要というのでは決してありません。実際に経験知識がなかったら、この社会の中で生きては行けません。けれど経験知は人間が生きる為の心の道具なのであって、自分自身ではありません。人は幾多の自分の身につけた経験知を道具として、その時、その場の状況に従って経験知を選び、世の中の出来事に対処して行く事であって、経験知が人の心の中枢に入り込んで、人を操り人形の如く勝手に振り廻したのでは全くの本末顛倒です。この事を顛倒想(てんどうそう)と呼びます。

 では何故この様なサカサマの事が起るのでしょうか。人は生れて後、生長の段階で楽しい事、悲しい事、恐ろしい事、種々の出来事を経験します。それ等の体験から、自分はこういう人になりたい、こういう目には遭いたくない、しっかりとした信念を持ちたい等々の希望を持つようになり、その希望に沿った教訓や知識を本やテレビ、友人、知人から見聞きして、自分の心に適当と思える知識を心の中に蓄(たくわ)えて行きます。その中でも自分の心に感動を起したもの、憧れを懐いたものには、それが他から見聞きした知識だという事を越えて「自分の信条・信念もしくは信仰」として強固な自我意識を形成します。この単に見聞きした知識の範囲を超えて、自我の信念となって定着してしまった信念・信条は人間の生の営みに一生の間種々の葛藤を惹起す原因となります。かかる現象を説明すると次の様になります。以前にもお話した事ですが図をご覧ください。

 人がある論説・主張に共感し、それを自らの信条としますと、その知識が人の頭脳中枢に入り込み、その人を操り人形の如く振り廻す事となると言いました。けれど実際にはこの表現は適当ではありません。実はその人の心が自分の心の母屋を離れ、その信条となった主張を初めて表明した人(その人も自分の心の中に住んでいます)の処へ住みついてしまうのです。この様な人の魂を遊魂といいます。俗な言葉で言えば本妻のいる心の母屋から飛び出して、お妾さんの処へ行ってしまう事です。お妾さんである経験知識が悪いのではありません。それを知って知識とする事を越えて、自分の信条・信念とまでしてしまったその人の責任なのです。自分の家を離れてお妾さんの家に居候をしているのですから、お妾さんの言う事は何でもかんでも従わねばなりません。さもないと御飯を食べさせて貰えなくなります。お妾さんの言う事と相反する主張に出会えば、即座に目をむいて怒り出します。そこには思慮する余地は全くありません。「そんな馬鹿な事を。私にはそんな事は決してない。妾などとんでもない」と一笑に附す方が多いかも知れません。ですがこれは全くの事実なのです。地球人口の九十九パーセントの人の心の実状なのです。お妾さんの家で現を抜かしている遊び心(遊魂)を鎮め、一切の出来事に当っては自身が大自然から賦与されている自由創造の性能を働かせて、時処位に応じて対処して行く本然の自分を取り戻すこと、これを神道で鎮魂帰神といいます。その行を完遂した人を仏教では縁覚と呼び、キリスト教では油塗られし者(アノインテッド)といいます。

 ア字修行についての次の要諦に移りましょう。ア字の修行に入ろうとして自分の心の中の経験知を否定し始めると、心も身体もガタガタになって大変な恐怖感に襲われる人を見かけます。その恐怖感が余りにひどいものですから、こんな行は二度としたくない、と自分に不可能を宣言してしまう人もいるようです。その様子を観察しますと、第一に自分の心中の経験知を無原則に否定しようとする事、それによって自身の心が支離滅裂になってしまう様です。前にも申しましたが、否定すべきは経験知のすべてではありません。自分がそれを疑う余地なく信じ、その知識に違反する行為に出合うと、考える暇なく直ちに言葉で、または心中に批判の心が突出して来る原因となっている経験知を否定して行くのだ、という事を知らない場合です。第二に多いのは、自分でも意識していない信条の堅さが、時として自分を、または家族、友人、知人の心をどんなに深く傷つけて来たか、を知らず、その自らの罪に全く気付いていない人に見かけられます。罪の意識のない反省は当面の平和のための反省であって、自分または他人を祝福するための反省にはなり得ません。自分は常識人だと思う人には反省は出来ません。御参考までに浄土真宗の親鸞上人の手記を掲げておきましょう。「久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養浄土はこひしからずさふらふこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にさふらうにこそ。」言霊の学問によって「人間とは」の真理の概念的知識を得、その理論より見た皇祖皇宗の人類歴史創造の御経綸とその実際を知ることが出来た時、それが人類に伝えられた皇祖皇宗の御遺訓とのみ思う方は常識人であります。この人類存亡の危機に直面しながら、何一つ為すことが出来ない罪深い地獄の自分に皇祖皇宗が自ら垂れ給う救済の唯一本の綱なのだ、と思う事の出来る人は幸福(しあわせ)な人と言うべきでありましょうか。

 第四回の「古事記と言霊」講座の終了に当り、人間精神の先天構造の理解に繋がるア字の修行の要諦について思い付くままにお話申上げて来ました。御参考になれば幸いであります。自らの心の本体が宇宙そのものなのだ、というア字の自覚の道は、行ずる人自身唯一人で行う道であり、誰一人としてお手伝いすることが出来ない道です。そこに到る道は「大道無門」です。機運に従って何処からでも入れます。そこに努力と同時に工夫を要します。行き詰まったと思った時には特に工夫が必要です。「必勝の道如何」と質問されたら、私には答えを持ち合わせません。けれど私はそれを志して四十年間の失敗のキャリアがあります。御参考になる「工夫」をアドバイス出来るかも知れません。これも「大道無門」であります。

 以上長々とア字修行についてお話を続けて来たのですが、かくお話しますと、聞かれた方は「ア字修行を続け、その完成を見るまでは言霊学の門には入れないのだとしたら、各宗教の聖者、聖人の如く一生を費やしてア字修行をすることになる、言霊学実践は来世の問題となってしまうのではないか」と思う方もあろうかと思います。発心してア字修行に入ったら一生かけて完遂する覚悟が必要です。これに間違いはありません。けれど仏教に「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という言葉があります。「日頃の自分の心の矛盾に苦しみ悩み、仏法の修行によって無碍光の中に安心を得る時、以前悩み苦しんだその心は、そのままで悟りなのだと知る」という意味です。言霊学によって人間の心が五十音言霊によって構成されており、その五十音言霊に母音、半母音、父韻、親音、子音の別とそれぞれの内容が概念的に理解出来た時、更めて自分の心の反省に入ったとします。人の心の自覚はウオアエイと進化します。初めは自分の心の言霊ウオの次元の矛盾と格闘します。自分の心を思うように振廻して来た自らが信奉した生活信条、社会通念、家族意識等を否定しようとします。けれどそう簡単に否定は成功しません。経験知識は否定しても否定しても、鎌首を擡げて来ます。心の中のただ一つの信条・通念の否定について精も根も尽きた時、「自分のただ一つの心にすら勝つ事が出来ない腑甲斐ない自分(言霊ウオの次元)を無言で温かく包み、護り、育んで下さっている大きな愛の力の存在」に気付きます。これが言霊アの宇宙の自覚です。この愛に包まれた意識の眼で今までの自分の言霊ウ・オの生活を見る時、その矛盾の実相(真実の姿)が明らかに見て取れます。言霊ウ・オの心の葛藤が姿そのままにその次元の真実相であることを知ります。この分別(ふんべつ)が仏教の「煩悩即菩提」という事です。更に仏教を超えて言霊学に於ては、従来は矛盾と苦悩の坩堝の姿であり、今は安心の真実相と見えるその現象が、言霊アの宇宙の内容である言霊イ・エの性能を持つ人間の最高次元の生命創造智性の閃(ひらめ)きが作り出す光の彩(あや)だという事に気付きます。この様にして仏教の所謂「煩悩即菩提」というものが、言霊学のいう言霊ウオアの次元の畳(たたな)わりの構造を説いたものであり、更に煩悩の苦しみの様相から、言霊学ウオアの次元の更に上に、言霊エ・イの生命の創造意志とその活動の次元が続いており、全部で五つの母音で構成された天之御柱が立っている事を知る事となります。人は信仰・信条を超えて、人間の生活一切の営みの原動力が人間自体の中に整然と賦与されている事を自覚します。

 煩悩の心を反省する努力は更に大きく言霊学の深奥に導いてくれます。人間の心の先入観を形成する経験知識は、その信条に違反する行為に出合った時、思慮分別の経過を抜きにして即座にその相手行為に攻撃の火蓋を切ります。言葉に出さなくとも、心の中で批判の矢を相手に飛ばします。この時(今・此処)の自分の心を反省してみて下さい。まるで真っ赤に燃えた非難の火矢を相手に飛ばしている地獄の相を見ることが出来る人は仕合わせです。ふと我に返って「自分なら決してすまい」と思う他人の行為に出合った瞬間、その時何が起ったのか、心を静めて見る事です。自分の心が一瞬にして「為すべきでない」と命令する経験知と結びつく様を見、また感じる事が出来る人は仕合わせです。その心の動きは正に言霊父韻キ・ミそのものなのです。「古事記と言霊」の三十七頁「角杙の神、妹活杙の神」の項をご覧下さい。貴方は父韻の内容を何の理屈も介せず自分の生命に備わった生命創造の力動として自覚することが出来ましょう。

 この様にして、ア字の行が進む毎に言霊五十音がすべて疑う余地なく人間(貴方)の生命の究極の構成要素である事の自覚が確立されて来ます。
(終り)