この数週間の間に、たくさんの方々から
私設飲み会のお声がかかりました。
久しぶりの方、近くの方、久しく断絶していた方、
学区の方などからです。
それで短期間にたくさんのアルコールをいただいたので、
肉体(心臓)が悲鳴を上げていました。
それでこの2日間本当に幾年かぶりにアルコールを口にしませんでした。
すると夕食がとてもたくさんの量になります。
なのにいつもは眠くなるのですが、眠くもならないのです。
今朝午前2時、急に目が醒めまして、何故だか机に向かい
紺色のブックカバーに包まれた本を取り出していました。
森信三先生の「修身教授録」でした。
なにげなく最初のページを開きます。
先生が40歳の頃教員志望の学生に行った講義の
記録です。
一番遅筆の生徒を窓際の前の席に座らせて記録をお願いしました。
そしてその生徒の記録のスピードに合わせて講義を行われました。
昭和12~3年の頃のことです。
戦前の修身といえば何か古臭く感じるのかもしれませんが、
その「修身教授録」にある言葉群は、まぎれもなく現代の
そして未来の人々に行き方の原点を示すものと感じます。
人間の年齢に関わらずです。
第一節は講義をする生徒に向けてのメッセージです。
何故先生と生徒は出会ったのか、そして何故この講義が
開かれたのか。 必然の出逢いを真剣にゆっくりと説いていきます。
講義が終了し、必然という言葉に合点のいかない生徒が
先生に質問します。
「先生私には先生との出逢いが必然とは思えないのですが。」
先生は答えます。
「まあそう思っても一向にかまわないですよ。
諸君たちはまだ若い、私のような年齢になれば
人間の出逢いが必然だと気が付くことでしょうし、
またそのように思ってこれからの人生を生きるか、または思わないで
生きるかでは人生の意義が大きく異なるとおもいますが。」
というようなことをおっしゃって静かに教室を退室されます。
生徒はうわさに聞いていた以上にしっかりとした
重みのある講義に魂を打たれるものが多いようでした。
第二節は「人として生まれて」でした。
私達の周りを見渡せば、雑草だけでもものすごい種類になります。
また動物の種類をあわせると膨大な種類になります。
なのに何故私達は人として生まれたのでしょうか。
誰でも人生一度は人間として生まれたのは何故なのだろうと
疑問を持ち、さまざまな考えをめぐらせます。
しかし人生を経験していくうちにそのような考えは次第に
遠のいていきます。
そして人生のさまざまな雑事に翻弄され、真に人間として
生まれた意義について深く考えることもなく人生を終えます。
人間ならば絶えず自分が人として生まれた意義を心のうちに
秘めながら人生のさまざまな事柄に対処していきたいものと
思います。
文章が少し違っているかもしれませんが、一気に読み進む重い言葉群です。
そして第三節は「この国に生まれて」です。
世界にたくさんの国がある中で、この大和の国に
生まれたというのは何故なのでしょう。
今に至る、親や先祖、そして遠い民族の連綿として
続く血脈が私達の中に流れていることを知らねばならない。
思い出せと言うかのように深夜の心に響きます。
「修身教授録」忘れずに読み進みたい本です。
今回で6度目くらいになりました。
再びの始まりです。
人はどこにいるのか
世界が平和になったらほんとうに自分は平和なんでしょうか。
自分が平和であることと世界が平和であることとは
どんな関係があるんでしょうか。
自分の見ている世界は自分の意識の現れといわれます。
でしたら自分の心しだいで平和かどうかが決まります。
平和だけでなく幸せ感もそうです。
満足感もそう。
世界がどうであろうと、ほかの人がどうであろうと
ようは自分の心しだいです。
そんなこと言ったって、どこかの国が攻めてきたらそんなこと
言っていられないよ、と人はいいます。
攻めてくることを見る人と、見ない人がいます。
見る人の意識と見ない人の意識がちがうようです。
会社や学校で意地悪な人がいて自分をいじめると
悲しんでいる人がたくさんいると聞きます。
意地悪な人はほんとうにいるんでしょうか。
意地悪な人ってどこにいるんでしょうか。
やってみるしかないですね。
やってみて、自分が体験したことしか確信が持てないように
人間はできています。
人からの話はそれこそ嘘っぽいですね。
ほとんどの方は偉い人の話とか、他の人の体験話を
信じて確信したかのように話します。
自分がしたこと以外は、というかそれもですが
すべては幻想と思っていいようです。
ほんとうに意識しただけの現実を自分が見ているとしたら、
その確信を得たら、もう意識を自分流に持っていくしかないですね。
自分が嬉しいように、喜ぶように。
それはきっとみんなが嬉しくて喜ぶことと
同じかもしれませんね。
気づいて行動することの連続から、
真理が見えてくるかもしれませんね。
ほかの人から言われて動くのでなくて、
自ら動き続けることが大切でしょうか。
「出した意識が返ってくる」が真理です。
信じないでくださいね。(笑)
谷神(こくしん)
真理は勉強したり理解したりするものでなくて、
気づくことなんですね。
個人が気づかなくても、厳然として
いつも真理の中にあるわけです。
だからなんだかいつも集中して一つことに
今を生きている人そのものですね。
それも楽しくて楽しくて仕方ない人は
すでに真理に生かされていますね。
そこに善悪や正邪の判断はありません。
欲って言葉って 昔神様は谷に住むって言う
伝えがあって、だから神谷さんっていうのかと
変に納得したことがありました。
だけど神様はあるっていうか、形がなくて
一つし かないようなので、それはなんだろうって
思ったら、飯島さんに会ってそれは真理法則のことと
納得しました。
だったら欲って言葉がわかります。
谷が欠けている。
谷は神様の住むところだから、いいかえれば、
神様は住むわけないので、真理そのものが谷。
真理そのものが欠けた生き方が「欲」ですね。
真理とは分離感のない「元一つの源」が私達の
ふるさとと、気づいて生きることですね。
現実と思われる世界のどんな欲望も、元一つの源を
感じることに比較すれば、比較しようのないちっぽけなことでしょうか。
車の運転中に「そこ」にはいった飯島さんは、
「目にワイパーがいるよ」って言いました。
激しい慟哭と涙は、何にもかえがたい感慨のようです。
先日のテネモスミーティングのGさんもそうでしたね。
「いつも喜んでいなさい。」
イエスさんがほほえんでいます。
ここにあるもの
「あるヨギの自叙伝」の著者バラマハンサ・ヨガナンダの
師の著書を奨められて読みました。
学びには導く師が必要と言う、いつものインドヨガの
慣わしにはちょっと?でしたが、少ない言葉の中に
この世の真理が見え隠れしていました。
まず世界は言葉があって 始まります。
そして時間があって、変化を象徴しています。
空間があって分離を現します。
そしてすべてのすべてのもと、源の無限エネルギーである
宇宙原子があります。
その4つがそろって現象の世界を認めます。
そしてそれは幻想です。
ですがこの幻想が私たちを導きます。
それは気づきへとです。
何の気づきでしょうか。
私たちは源から離れていることはないという気づきです。
それを学ぶために幻想の現実世界があります。
素敵なご縁が導きます。
やっと会えた人たちに感謝の毎日です。
肉体が時間という変化を表す単位を気にし出す頃、
懐かしい出会いの終焉が近ずいてきます。
分離がない様に、普遍を求めなさいと
常に言い聞かせて毎日が過ぎていきます。
源は一つです。
そして無限です。
無限の霊か有限の肉体か。
真に自分しか存在しないのか。
道探しのたびは続きます。
憶念
「誰も自分の本当の心を知る者はいない。」
それは憶念だからと言い残して飯島さんは
去って行きました。
憶念とは。
自然世界が生まれる元の宇宙原子の世界のことです。
恒常的に0の天然世界で今ももちろんあります。
それを知れば変化してやまない自然世界のいかなるものをも
比較できないほどの深淵で計り知れないふるえを
よぶ感慨があります。
この現実の世では分かり得ないものです。
そのものを感じていただきたい。
それもすべての方にです。
チャンスは常にあって、誰もが可能です。
求めるものは得られます。
信じる者は 救われます。
テネモスさんでの5月7日
幾度もテネモスホールで公演なさった北九州の
宗美佐さんのコンサートが5月7日にテネモスさんでありました。
ソプラノ歌手 宗美佐さんのライブ & 自然が教える生命研究会世話人 城雄二(しろ ゆうじ)氏その他テネモス関係者による講話を開催します。
というふれこみでした。
午後一時に始まりました。
自然人宗美佐さんの声がノーマイクでホールに響きました。
時々何かを思い浮かべるような宗さんでした。
フィナーレの大音声にホールが揺れ動き
心は無になりました。
城雄二さんは以前大学の先生でした。
だから軽妙に真理を伝えます。
飯島さんの飛行機がなぜ飛ぶのかのお話に
ずっと求めていた真理を見た気がしたと言われました。
それからたくさんのご縁のお方のお話が
ありました。
私も呼ばれました。
ちょっとどうしようかと思いましたが、数々の言葉が
口から出てまいりました。
テネモスさんに17年くらい通わせていただいて、
一番心が震えた飯島さんのお話。
そして何より飯島さんのご両親に授かった
お二人のこどもさんがすべて逆縁で他界された事実。
その事実をしっかりと受け止めるだけの偉大さが
ご両親にはあったこと。
ほんとうに偉大なことをなされた飯島さんとそのご家族。
人には言えないつらい時代を一緒にすごした奥さん。
どんなに大変だったことでしょう。
今ありがとうと、改めてお伝えさせていただきます。
6月4日のテネモスミーティング名古屋の日には、
飯島さんのそばで三年間みっちりと鍛えられたスリランカの
マデュカさんが日本人よりうまい日本語で理路整然と
学んだことを伝えてくださることと思います。
そして釘本さんや、宗さんも参加してくださるようです。
みんなでまた「まるえい」さんにも出向きます。
なつかしい再会の縁があります。
二冊の本
時を同じにして二冊の本との出会いがありました。
一冊目は、はがき道の坂田道信さんからのご紹介でした。
「若き友への人生論」 森 信三著
森信三先生が若い方へ、人生の生き方の指針を
わかりやすく表しています。
そのご本の中の「死と永生について」の一文、
「われわれの生命は、この肉体の死後といえども、その個別性を
失わぬと見るか否かの別であって、この点については、ひとり宗派によって
異なるのみならず、・・・・・・・・・かくしてこの最終の一点に関しては、
われわれは軽々しくこれをあげつらうことをひかえるべきであろうが・・・・」
について箇条書きを友人にお見せした後、受けた質問の
回答をもって、この本の解説とさせていただきます。
そのところは、生前や死後に、現実にある時と
同じように、個別性はあるかどうかの、森信三さんの
見解を述べています。
それで結論的に森さんは、個別性については
軽々しく論ずることでなく、そうだけれども
各個人としては、しっかりとした確固たる地点、
ようするにこうだという結論を求めなさいと言って見えるのです。
個人的な今までの体験や経験に照らしますと、
各個人は一人ひとりそれぞれが指紋とおなじように、まったく異なる
個性をもってこの現実世界に現れます。
そして何故まったく異なる個性かがわかりません。
ただ個性というものが、人間として欠けている事ということでしたら、
この現実世界で肉体を持って生かされる意味がわかります。
その個性(自我)の解消と言えるのかもわかりません。
すなわち個性があると言うことは、生まれる前も、そして普通は
永久の生命と言われるのですが、肉体を脱いだあとも
個別性はあるといえるのでしょうか。
個別性はあっても一人ひとりの「生命」はひとつです。
たった一つの生命を生かされながら、すなわち本源と繋がりながら
個別性を生きるのが人間と言えるのでしょうか。
例外とされそうな、生まれてすぐに肉体をぬぐ幼い子供などは
それではどうなのだと言われそうですが、その場合はそのような
幼い子供の肉体の死が影響を与える周りの親や縁者の
考え方によるといえます。
どのように生かされるのかをつかむのは、いつも自分でしょうか。
どんなことをつかんでも自由に任されています。
松はプラス、梅はマイナス、そして竹は0です。
宇宙はいつも0に定まっています。
他の一冊は この伊路波村の「伊路波」を指文字でくださった
ペンネーム日之出秀夫さんの「ずっと気がつかないお蔭様があるごめんなさい」
という100ページの詩文です。
<作品への思い>
生きることに迷い、悩み、先が見えなくなったときにふと
立ち止まって目を向けたい、明日を生きる希望となって、
背中をそっと押すような言葉になればと思います。
生きている意味を求めて、そしてこの世界の存在の意味を求め、
探求の人生を歩む著者が紆余曲折の人生を、いのちの響きに
忠実に霊と肉の調和を目指すことになったようです。
深い言葉群が、深い気づきを与えることでしょう。
89ページです。
肉体とのお別れがとても多い近年ですが、ことに家族や
親しかった友人とのお別れは悲しいと言うよりは、わかっていても
別れていかなくてはならない無常を感じます。
3月2日、肉体の飯島さんとの別れがありました。
縁者の方に案内され、一群の人々は古民家のままの
かやぶきの母屋の一室に横たわる飯島さんにお別れを
しに向かいました。
玄関の広い土間で靴を脱ぎながら、もういのちの響きを
感じてそれへの応答を止めることができない嗚咽を
もらしていました。
順番が来て、まだ生きているかのような真っ黒い髪を
なぜながら、ありがとうと飯島さんに叫んでしまいました。
以前、「ありがとう」の言葉に「結局はそれだけだね。」と
言って見えた飯島さんが応答してました。
別れ際に一言だけ伝えたい言葉がある。
人は、「ありがとう」を伝える出逢いを求めて、
生まれて来たのかもしれない。
重い言葉と感じさせました。
4月からアマゾンで上梓予定のようです。
飯島さんありがとう。
平成7年、横浜のアンデスインターナショナルという
旅行社で始めて飯島さんにお会いしました。
この旅行者は飯島さんとご縁の深い知花敏彦さんの
弟さんの経営する会社でした。
およそ20名の人たちでボリビアに研修旅行するための
打ち合わせに、その頃ボリビアと日本を行ったり来たり
してみえた飯島さんに、ボリビアでのご案内をお願いするための
初顔合わせに出向いたのでした。
事務所に音もなく入ってみえた飯島さんに、
人としての気配が感じられずに、心なしか驚いている
自分がいました。
当然に飯島さんは30代、とてもお元気で、農業の実践研究者という
感じがいたしました。人柄は透明感のある寡黙で素敵な人
という印象を持ちました。
20名の旅行が何の目的で行われたのか。
それはその頃所属したある団体での卒業海外研修旅行でした。
ある程度の量のカリキュラムを終えた人たちが自主的に
自分達だけで行き先を決定します。
そして相手の国の方たちや、相手の国で活躍する日本人の方たちと
交流をし、将来共に心の繋がったネットワークを構築することが目的でした。
私達はイスラエルかボリビアのどちらかを参加者の
中での投票によって決めました。
ボリビアに決まりました。
ボリビアといえば若い頃からボリビアとご縁の深い
知花敏彦先生です。
まず知花先生にボリビアとの関わりのご紹介を
頼もうと、先生の住まいされる長野県の清里に
うかがいました。
日本各地から卒業生が15名ほど集まりました。
その清里で、知花先生は朝晩の二回、一時間の瞑想後
一時間の講演を長い間継続されてみえました。
何も精神的に気高くもない私達ですが、先生はボリビアとの
橋渡しを快くお引き受けくださいました。
そして、かの横浜のアンデスインターナショナルをご紹介いただきました。
そこで飯島さんとの初の出会いがあったのです。
ボリビアでは飯島さんがその頃農業指導をされていたサンタクルスという
都市や標高4000メートルの首都ラパスなどでの視察を行いました。
知花先生や弟さんそして飯島さんに大変にお世話になりました。
農業では完全発酵堆肥作りの現場や、広大な農地や酪農地、
日本人のシスターが運営する孤児院の訪問そして
沖縄からの移住者の方々との懇親もありました。
また知花先生や飯島さんの講演もいただきました。
飯島さんのお話は、面目ないことですがほとんど?でした。
ボリビア在住の知花先生のご長男の新居やその頃
開発中でもうすぐできると言われたマナウオーターの
初期の水も体験できました。
観光ももちろんありました。
そして今回のネットワーク構築のハイライトが、私達の団体が
目指すネットワークコンピューターの目録を贈呈することでした。
まだいまのようなインターネットがない時代のことです。
知り合った人たちのご縁の心の繋がったネットワークの
道具としてのネットワークコンピューターを開発し、完成した暁には、
それを贈呈すると言う目録を飯島さんにお渡ししました。
5年後までには完成すると言うふれこみでした。
ボリビアでのお別れの日、卒業生の一人が進呈した
三年物のたまりの小瓶を、胸に抱え嬉しそうにたたずむ
飯島さんのお姿が今も脳裏に浮かびます。
そのボリビア旅行が無事に終了したあと、卒業生の
お一人の女性が飯島さんを名古屋にお迎えし幾度か
お話会を開催したようでした。
一度だけその集いに伺いました。
そのときはまだ初心者の私達に、わかりやすく日本昔話を
引き合いに、真理をそれとなくお話する飯島さんでした。
それでも何をおっしゃりたいのかまるで理解不能のこちらの石頭でした。
ただお話は大変に興味深く、いつも眠くなるのにまったく
眠くなかったことを覚えています。
それから5年の月日が流れました。
私達の団体は「心のネットワーク」からいつしか
「お金のネットワーク」に変化してしまっていました。
私はその団体をすでに離れていました。
しかしあのボリビアでの約束は鮮明に覚えていて、
約束を果たさなければと思いながら、ネットワークコンピューターが
完成せずにいて、どうするか迷っていました。
「お金をお渡しして必要なコンピューターを買っていただこう。」と
思いました。
お電話を差し上げた住居の新井宿には飯島さんはみえず、
ボリビア滞在中でした。
奥様の、もうすぐ戻るので電話をさせますという
お返事で、しばらくの日を待ちました。
その後幾日かたって、電話がありました。
電話で約束を果たせないことをお詫びしました。
そして申し訳ないですが、パソコンを購入してくださいと
お願いし新井宿へ現金を持参しますとお伝えしました。
飯島さんは言いました。
「お金をいただくのに来ていただくのは、申し訳ないです。
こちらから伺います。」と言われました。
わずかなパソコンのお金を贈らせていただくのに、
埼玉から交通費をかけて来て頂くなんて、申し訳ないと感じました。
そしてなんと積極的な方なんだろうとも感じさせていただきました。
5年ぶりに、呼びかけに応じて集まった人たちの前で
質疑応答形式の講演がありました。
やっぱりまだわかりませんでした。
ただそのお人柄と、その積極性にまず心打たれました。
5年を経て無事に贈呈式ができてほっとしていました。
その日から二日後、10台ほどのマナウオーターが送られてきました。
贈呈した金額の何倍もの金額になるのでしょう。
常識を超えた飯島さんの行動に、驚きと共に
自分の小ささを知りました。
いただいたマナウオーターは講演に来ていただいた
参加者の方々に無償で提供させていただきました。
それから空気活性機の周知やマナウオーターの拡散が
喜びの仕事になっていきました。
しかし飯島さんにとってその後長く深い活躍できない時間が
流れました。
そして平成23年、日本を揺るがす大震災が起きました。
震災の翌日すぐに電話がありました。
「仙台の人っていたよね。連絡先教えてくれる。?」
それで仙台の友人の連絡先を伝えました。
それから何十台もの簡易空気活性機が東北方面に
無償で送られたようです。
この震災から以後、飯島さんの真理伝達の速度は加速しました。
そしてたくさんの品物や機器が開発されました。
その物群はまるで時節を待っていたかのように現実に
出てきました。
言葉だけでなく、ものの現象でもって真理法則を理解できます。
意識は最大の変化を生みますが、ものでも誰がやっても
おどろくべき結果を生みます。
飯島さんは新井宿の今の「テネモスランド」をずっと思い描いていました。
そして「思ったとおりになる。」 法則を体現しました。
3月1日にテネモスさんからお電話をいただきました。
「飯島さんが今日の午後2時23分になくなりました。」
体から離れた運転者は今頃どのあたりでしょう。
まだ遣り残したことがあったかもしれないけれど、
あとは現実に今体を持っている人たちに託されたのでしょう。
今思えば、その団体へ参加するきっかけとなった講演会が
あるという日まで、いままで経験したことがないような
ワクワクした気持ちがずっと続いていました。
その団体は霧散してしまいましたが、その団体のおかげで
ご縁ができた飯島さんとその後22年間もご縁をいただいて、
こうして今もワクワクする気持ちで毎日が送れています。
結局そのワクワク感のわけは、飯島さんとの今生での
出会いだったのだと、今の確信です。
「人に付くのでなくて、真理を生きなさい。」
飯島さんの声が聞こえる気がします。
飯島さん、ありがとう。
会えて嬉しかったよ。