娘は臨終の少し前めずらしく、絶対口にしない言葉
「お母さん、ありがとね・・・・・」を口にし
それを受けた家内は、娘の生命誕生の責任をずっと背負ってきた重荷を
やっと降ろすことができたようでした。
生前の娘との会話
「あのね、人間は肉体だと思ってるだろうけど、ほんとうは
人間は肉体ではなくて、いのちなんだよ。人間は死ぬことがないので、
いのちは永遠にあるんだよ。だから人間は生まれることもないんだけど。」
娘
「お父さん、いつも訳のわからんことばっか言う。
でも人間はいのちだってことはなんとなくわかるよ。」
私
「だからね、もしね、肉体が終わることになった時には
必ずそのことを誰でも知ることになるので、そうなったら
何かお父さんにサインを出してね。約束ね。」
指切りしました。
二人だけの秘密の約束でした。
「私はあなた」「一体全体」「元ひとつ」このような言葉が
私たちが肉体と思って、全体から分離する心を否定し、
いのちはひとつしかないことを教えています。
そのことをいつもいつも念じ、すれ違う人々にも
自分の心を見るとき、みんなが教えてくれていることを
知ります。
娘は私そのものでした。
穏やかなる時も、怒れるときも、自分よがりなときも
全体を思いやるときも、厳しいときも、やさしい時も
いかなる時も、その姿は私を教えていました。
息を引き取り、その夜は葬儀社の方が駆けつけてくださって、
ドライアイスを二日分といって、多めに体につけてくださいました。
亡くなったその夜の娘の顔は、なんだかきょとんとした
驚いたような顔に見えました。
明けて翌朝娘の顔に大きな変化がありました。
もうその時点で娘は大平安に包まれて喜悦の世界に戻っていました。
私は娘にありがとうと言いました。
その喜悦の表情が娘との約束の答えだと受け取りました。
そしてもう一つ娘は時の不思議を伝えていました。
いのちの実相 17
H先生は差し出された「念書」を念入りに読みました。
念書には、セカンドオピニオンのことは一切触れず、
以前の処方で効果が著しくあったものとして薬の名前を上げました。
気分調整剤としてのリーマスとデパケン
向精神薬としてのジプレキサとリスパダール
そして睡眠剤としての候補です。
先生は快諾してくださいました。
誠意を尽くして念書をしたためたこともありましたが、
何よりそれ以前の一年間の服薬と症状の月ごとの報告が
承認の理由となったようでした。
赦していただけたことに、とても感謝しました。
平成20年5月末から新しいチャレンジが始まりました。
そして一年をかけてまず睡眠薬を断ちました。
3年をかけて気分調整剤一日一錠(200MG)とリスパダール1/4錠にまで
減薬しました。(1/4錠はピルカッターという器具で切ります)
減薬の途中、娘には強いPMS(月経前症候群)があることに
気づきました。
くじら先生に相談したところ、それには漢方薬がいいということで、
当時千葉県牛久にあった内海聡先生を紹介されました。
内海先生も当時はネットで無料相談を受けていたのです。
内海先生は快く相談に乗ってくださいました。
そして娘のPMSには「甘麦大棗湯」(かんばくだいそうとう)がいいでしょうと
処方されました。
その「甘麦大棗湯」が娘にはぴったりあったのです。
イライラと怒り出します、服薬すると15分後にはピッタリとおだやかになるのです。
あまりの効果にびっくりしました。
そして便秘薬のことやさまざまなことに内海先生にはとても
お世話になりました。
ちょっと患者には厳しい先生でしたが、その後ネットはその過激さゆえか
閉鎖され、診療所も牛久から東京へと移られたようです。
何かの参考になればと、娘の薬効については最初の先生の著書に
掲載することを承諾させていただきました。
娘には内緒でしたが、今ばれました。(笑)
きっと笑っていることでしょう。
内海聡 著 「精神科は今日も、やりたい放題」がその本の題名です。
いのちの実相 18
「レベル4です。余命3ヶ月です。化学療法が必要です。」
医師の方の決まり文句がありました。
もちろん抗がん剤治療をお断りし、なんとか自然療法で治癒できないかと
思い、さまざまな情報を集めました。
とりあえず、がんの摘出手術は生命に関わるほどだったので
していただくことにしました。
暮れの12月になっていました。
5度ほどの医師の抗がん剤の勧めにも応じず、お正月に退院となりました。
その後の検診も数回で、詳しいCT検査とかはしていただけないままでした。
化学療法をしないということは、医師にとっては治療を拒否していると
みなされ、そのような患者に何故検査が必要ですか、との言でした。
なるほどでした。
直腸がんが見つかったとき同時にあった肺の小さながん細胞の
その後や、直腸がんのその後の状況をしらべることもなく、
9ヶ月が過ぎました。
今回はなんだか楽観していました。
なぜかといえば、結果である肉体は、原因である心が変化すれば治ることが
明確にわかっていたからです。
それで「屋久島の春ウコン錠剤」を主剤として他のものと
併用しながら、心の平安の維持につとめました。
「心が快復してきたのだから、必ず治る。」
と強く思いながらも、心が穏やかになってきたのに
何故体にがん細胞ができるのだろうと、娘の真の心の
状態がつかめないことに不安感があったのでした。
他人のことをどうこうすることは、絶対に不可能。
だから他人の人生を、他のものが語ることさえ意味のないこと。
それまでの学びから至極当然なことを思います。
ただ、親子という特別な関係だから、子を哀れに思う心を消すことはできません。
特に手術後の痛みも泣く、心もますます穏やかになってきた状態に
誰もが安堵していた矢先、肺がんの増殖がみつかります。
いのちの実相 14
娘がイメージした場所へ落ちていきました。
「ああ今度はダメかも・・・」
あの堅い屋根に7階から落ちて無事なはずがない。
それでも、あまりの激しいできごとにも心は冷静でした。
もしかしてと、予見する心があったのかも知れません。
とにかく救わなくてはと、救急車が到着と同時に
9時すぎの時間なので、もういなくなった3階のテナントさんに
連絡を取り、入室を許可いただいて、2階の突き出た4分の一円の
コンクリート屋根に横たわる娘を地上へと降ろしていただくのを
ぼんやりと見ていました。
出血はしていたようですが、頭ではありません。
救急車で先回と同じK病院へ。
そして緊急手術です。
先回の時と同じ先生が見てくださりおこられました。
「今度はダメですよ。!もう何回もやるんだから。!」と
怒り声です。
長時間の手術は終わりました。
結局頭を打っておらず、胸椎、骨盤、腰椎、左かかとの骨折で済みました。
骨折ですから背中にボルトが二本入りました。
しかしながら生命の危機が迫っていました。
手術後の危険な一日を終えて、娘はまた不死鳥のように蘇りました。
昏睡はその後数日続きます。
そして目覚めたのですが、数ヶ月の間、家族の認識ができない状態が
続いたのです。
落ちた場所は人間が横たわって、頭と足の前後がわずかに
20~30センチしかない場所です。
「あ~あ」とため息がでたのはそんな場所に落ちたら
まず間違いなく頭を打ち、即死が考えられたからです。
しかし娘はまたしてもこの世界からの離脱を赦されませんでした。
人生には何か知れぬ個人のシナリオがあってただ
そのシナリオをたどるだけかもしれない。
このふしぎな事件は、まさにそんなふうにしか考えることができないのです。
気のS先生とはこの事件で、ご縁が途切れました。
いのちの実相 16
セカンドオピニオンは、患者にとって一人の医師だけでなく
他の医師の意見も聞くことで、何か新たな解決法を見つけていくものです。
でも話は知っていたものの、そのような言葉が自分の
深層心理から聞こえてこようとは、思いもよりませんでした。
午前3時必死でパソコンでの検索を始めます。
「精神科 セカンドオピニオン」
そんななかで分裂病と昔から言われていた人は100人に一人いる。
薬漬け医療の精神医療でのひどさは世界でも日本がトップクラス。
向精神薬の多剤投与(3つ以上の薬)が台湾1%、香港0%、中国1%
韓国20%に比較し日本は40%となっている。
そのようなことを知ります。
日本では症状が起きたらそれを抑える薬を出し、また新たな症状には
それを抑える薬を追加していく。かぶせていく。
要するに減薬治療はほとんど存在しない。
パソコンでさまざまな薬に関すること、精神医療にかんすることを
検索しますが、セカンドオピニオンに関する医師はその時点では
愛媛のくじら先生のみが見えました。
双方向のネットワークで患者相互の理解を深め、
情報を共有し、解決策を探っていく。
くじら先生は的確な処方を提案し、変化があれば変薬し、すべて
減薬の方法でもって、最小の薬で通常生活を送ることができるように指導されます。
くじら先生は現在現役でなく、一線から身を引かれています。
ネットも閉鎖されたままです。
著書があります。
精神科セカンドオピニオン―正しい診断と処方を求めて (精神科セカンドオピニオン)
著者 笠陽一郎 先生はご著書を世に問われてから、医学会からも、
各方面からもおおいなる妨害を受けられたようです。その結果、
ネットを閉鎖せざるをえなかったのです。
私は本当に最後の方にぶら下がった相談者でした。
正義感強く、真実を伝えたいという先生の真摯な思いが、伝わってまいります。
私は当時過去17年間の娘に関する情報を必死でネットに向かって
先生に向かって打っていました。
午後5時に膨大な文章を先生に送りました。
あとはただ待つだけの心境でした。
セカンドオピニオンがどんなものか、どれだけ真剣に、見もしない相談相手に
対応をされるのだろう。
心も体も疲れきっていつしか眠ってしまいました。
いのちの実相 15
2006年6月6日以来、私の人生は娘一色となりました。
いやその前の2月の飛び降り以来といってもいいでしょう。
親の責任とかというような義務を飛び越えています。
人は何故ここに生まれるのか。
そしてさまざまなことを何故体験するのか。
結局はわからないので、わかりませんと言うしかない。
でも分からないがゆえに少しでも機嫌よく生きようじゃないか、
それがこれまでの結論です。
原因が意識なら結果は現実。
その中にはもちろん病気も入っている。
でも原因である意識を生み出す心が壊れていたらどうなんだ。
ある人は、心が壊れている人はもう一度やり直すしかないですよ、と言います。
この人生をもう一度。
このような人間界の人生をもう一度。
ごめんです。
もうよいのです。
そしてそれはもちろん娘にもしてほしくもない。
今やる。!
必ずやる!
やり遂げる。!
不明なことをそのままにせず、もうすこしましな答えを得たい。
決して分からないかもしれないけれど、きちっとしたい。
そんなふうに思うのでした。
そして正月を病院で過ごし、2007年2月の末に退院にまで快復しました。
いのちの実相 12
お隣さんは驚いていたようでした。
突然に屋根に何かが落ちてきたのですから。
そのせいかこちらの「開けてください。!娘が落ちました。!」
という呼びかけにも、ドアを開けることができなかったようです。
一刻を争う・・、途方にくれて、そう思いどこか屋根に上れる場所を探しました。
3件ほどが棟続きの平屋でしたので、そのはずれに行き
ブロック塀を登ろうと思い移動しました。
その場所について塀の下を見ましたら、なんと娘がそこに
横たわっていたのです。??
落ちた屋根は瓦屋根で8階から1階の屋根に落ちたのですが、
幸い木造の屋根がクッションになり足で天井裏を蹴破っただけだったようでした。
娘は朦朧とした状態で、瓦屋根ずたいに10数メートルをよろよろと歩き
地上に飛び降りたようです。
発見して、娘に呼びかけている時にちょうど救急車が着き、
救急隊員の方が応急処置をして、N病院に搬送となりました。
1ヶ月ほどの入院をしましたが、どこも骨折はなく
かすり傷程度の怪我ですみました。
落ちた高さのことを考えますと、奇跡としか言えません。
お隣の方に謝罪し、その日のうちに天井裏と瓦屋根の復旧を
させてもらいました。長くお隣さんとはあまりご縁がなかったのですが、
この日を境に仲良くさせていただくようになりました。
「このままではだめだ!もっと関わってもっと学ぼう。」と強く決意しました。
いのちの実相 13
S先生は気の達人です。
多くの難病を治した実績のある方です。
またお料理もとてもお上手で、自らつくり、患者さんに
ふるまわれました。
病院とか、薬とか、カウンセリングとかのすべてを信頼することが
できないまま、最後の癒しの方法にかけてみようと思ったのです。
娘は先生に会ったとたん、とても嬉しそうな顔をしました。
あとで聞きますと、なんだかなつかしい気がしますと言いました。
先生の助言もあって、不明なままに、薬を減らすことにしました。
慎重に行い、症状がもとに戻りそうになるとまた量を戻すことにしました。
気の治療や、心のこもった食事の成果があってか少しずつ
良くなっていきました。
また薬の量も、0を目指して急ピッチに減らしていきました。
リバウンドでしょうか。
幻聴や幻視を訴えるようになりました。
それでも必死の家族みんなでの見守りで徐々に快復していくかに
見えました。
そんな時に、同じようにS先生の治療を受けていた家内が
治療院に通う道で追突事故を起こします。
幸い相手の方や家内になにも怪我はなかったのですが、
それを機に、家内は運転ができなくなりました。
なるべく心や体を尽くして娘の快復の助けになりたいと
誰もが思っていました。
激しい日をなんどもくぐりぬけ、その年のゴールデンウイークも
なんとかみんなで過ごしました。
病変を気にかけながらも快復という希望を見て
毎日を過ごすことができました。
しかしながら3ヶ月が経過した6月のはじめに強烈な
リバウンドが来て始終だれかがそばにいなくてはならない
大変に危険な状態になってきました。
そして一週間が過ぎ、忘れられない2006年6月6日がきました。