322「徳を積む意味」2021.5.5  自分で自分を自分する から

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今回は「いっぷからのありがとう」さんの2021年04月27日「徳を積む意味」と2021年04月26日「心を洗う挨拶」の2つの記事を紹介します。

「徳を積む意味」

このブログでも何度も角度を変えて、徳を積むこと、それも、陰徳を積むこと。

そして宇宙の法則である、与えたものが、受け取るものというお話をしていますが、今日は、浜松医科大学名誉教授の高田明和(あきかず)さんのお話をご紹介します。

<引用開始> 引用元

何か他人に尽くし、それがその人に感謝されなくても、私たちの業に貯金されますから、そこから褒美が返ってくるのです。運がよくなり、評判がよくなるのです。これは、他人に嫌なことをした場合も同じです。

私も他人の悪口をいったことがあります。不思議なことにそれが回り回って、自分の耳に返ってくるのです。まるで一周回ったかのようです。そしてその悪口が本人に聞こえたかのような結果になりました。

その人と私の関係が悪くなったのです。それが「悪因悪果(あくいんあっか)」です。このように、人の行い、人の言葉というのは、因縁の渦の中で回り、最終的にはすべて自分に還ってくるのです。

偶然助かったとか、あれが起こったら大変なことになったのに起こらなかった、などと胸をなで下ろした経験はないでしょうか。一方、その大変なことは別の人には起こっているのです。だから、自分にそのことが起こらなかったと安堵するのです。じつはこれは、私たちがなした徳の結果がこのように表れたのだと思っています。

何か他人に尽くした時に、すぐにお礼をいわれ感謝されるのと、万一の偶然に、奇跡的に助かるのとどちらがよいでしょうか。もちろん後者でしょう。

このように考えると、自分が他人にしたことが、他人にはあまり理解されず、感謝もされないけれども、徳を積んだおかげで、自分や家族に不運が来ない方がはるかに恵まれていると考えないわけにはいきません。

ですから、「恩を仇で返された」などと怒ることはないのです。恩を与えたその人などはたいしたことはないのです。もっと重要なことで幸運に恵まれた方が どのくらいよいかわかりません。

何かをする時に相手に感謝を求めるよりも、それが自分の幸せになると考えるべきです。

<引用終了>

宇宙の法則 

投げかけたものが返ってくる。投げかけないものは返ってこない。

愛すれば 愛される。愛さなければ 愛されない。

嫌えば 嫌われる。嫌わなければ 嫌われない。

裁くものは裁かれる。裁かないものは 裁かれない。

意地悪をすれば、意地悪をされ、蔑(さげす)めば、蔑まされ、

罵(ののし)れば、ののしられ、強い言葉を吐き出せば、強い言葉を返される。

許すものは 許される。許さないものは 許されない。

施せば 施される。優しくすれば 優しくされる。笑顔を向ければ、笑顔が帰る。

助ければ、助けられる。励ませば、励まされる。

勇気を与えれば、勇気づけられる。感謝すれば、感謝される。

誰かに何かして欲しいことはありますか?

・優しい言葉をかけて欲しいですか? それなら誰かに優しい言葉をかけてください

・笑顔を見せて欲しいですか? それなら誰かに笑顔を見せてください

イエスの語った言葉で一番大切な言葉。。「イエスの黄金律」と言うものがあります。

そこにはこう書かれています。

「自分がしてもらいたいことを、他の人にも、同じようにして あげなさい。」

これは何も独りよがりの善意の押しつけをしなさいと言っているのではありません。

自分の目の前にいる人が、今何を必要としているか、想像力を働かせて察しなさい。

そして、その通りにしてあげなさい。

そう、仰っているのです。この中で、何か、ご自分でもできそうなことがありましたか?

ただ、自分がして欲しいことを、周りの人にして差し上げるだけなんです。

自分がして差し上げる相手は、身近に居る、誰でも構いません。

巡り巡って必ず自分に帰ってくるようになっていますから。

投げかけたものが返ってくる投げかけないものは返ってこない。

夜明けは近いです。もう少しの辛抱です。

それまで命を繋いでください。周りの人に優しくしてください。愛を分けてあげてください。

それが自分の身を助けることに繋がります。

「心を洗う挨拶」

今日は小林正観さんのお話をご紹介します。

相手の反応に左右されず、自分の心を律し、あいさつをすることは、とても良い心の訓練であり、心を清浄化し、徳を積むことにつながるというお話です。

・世の中がどのように変わろうと、

・神々による、建て替えが起ころうと

・天変地異が起ころうと

・次元が変わろうと、

最後は、平凡な一般の私たちにとって、

心が浄化されているかどうか?

それだけが問われるからです。

それは、今生きている間の幸せも肉体を脱いで天に帰った後の幸せも、全てがそこにかかっているからです。

<引用開始> 引用元 

『中陰の花』で芥川賞を受賞された玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんは、臨済宗のお寺の僧侶でもあります。その宗久さんが、天竜寺で修行をしていたときの話です。

毎朝宗久さんが廊下の拭き掃除をしていると、庭先から「おはようございます」と、にこやかな笑顔で挨拶をされる作務衣(さむえ)姿の方がおられました。

宗久さんは、当初はこの方がいったい何者なのかわからず、ただ、毎朝爽やかな笑顔で挨拶されるので、とても感じのいい人だとは思っていたそうです。

後でわかったのですが、この方が天竜寺の貫長(かんちょう・最高位の方)でした。この貫長さんは、毎朝決まった時間に天竜寺近くを散歩されていたそうです。

そのときに毎日出会う人がいました。その人に対して、貫長さんは毎日同じように「おはようございます」と挨拶をして会釈をなさいました。

しかし、声をかけられた人は、無視をして一切返事をすることがなかったといいます。

しかし貫長さんは、相手の笑顔や挨拶が返って来ようが来るまいが関係なく、毎朝笑顔で「おはようございます」と言い続けたのだそうです。

三年経ったある日のこと。いつものように「おはようございます」と笑顔で挨拶した貫長さんに対して、その人はついに「おはようございます」と声を発しました。

そして、言い終わった後に、「ごめんなさいっ」と、がばっとひれ伏したというのです。

この人の心の中に何があったのか推測するすべはありません。推測することも無意味なことでしょう。

何があったのかということは大した問題ではなく、大切なのは、かたくなに挨拶を拒み続け、

視線を交わすことさえしなかった人に対して、一ヵ月や二ヵ月ではなく、三年もの間、笑顔で「おはようございます」と言い続けた人が世の中にいる、という事実です。

その結果として、そのかたくなに人を拒み続けた人が、ついに心を開き、涙ながらに「ごめんなさい」と謝ったというのです。

貫長さんは、返事をしなかったことを責めていたわけではありません。ただ自らの生き方として、相手がどういう態度であろうと関係なく「おはようございます」と言い続けた、ということに徹した、ということだと思います。

「これほど自分が挨拶をしているのに、返事をしないとは何事だ」と言うのは簡単でしょうし、一般的な反応かもしれません。しかし、それは挨拶している意味がありません。

挨拶をすることで結局ケンカを売っているのでは、何にもならないでしょう。

その人に「おはようございます」と声をかけることは、貫長さんの側からすると「自分の勝手」ということであったのかもしれません。

自分が行として、ただそのように毎日を送り、そういうことに徹し、相手がどのような反応であろうと関係なくそのように生きる、という姿であったのでしょう。

宗久さんが語る貫長さんの姿は、とても爽やかで、清々しいものでした。

<引用終了>

私たちは、相手から善意を受ければ、無意識に善意を返す・・ という「好意の返報性」を持っています。それと同じく、全く反対に相手から、悪意や無視といった態度をとられると

無意識に、同じものを返してしまいます。

ですが、この天竜寺の貫長(かんちょう・最高位の方)さんは、違っていました。

相手から例え、何年も何年も、無視され悪意を返されようと、自分の心にまで、悪を入れず、

心を汚すことなく、ぶれることなく、毎日毎日、善意を施しました。

これは、相当難しいことです。

・自分の心を律する必要があります。

・相手の態度に左右されないという強い心が必要です。

そしてどんな時も、相手に、自分の中の最上のもの

・愛

・優しさ

・いたわり

・思いやり

・深い共感

・笑顔

を向け続けるという訓練になります。

このように、私たちは、日々の暮らしの中において、神様が置いてくださったこの環境の中において、心を、清め、神様のような心になる訓練をすることができます。

自分の身近な周りの方々に、いつも、笑顔と優しさを伝えていきたいものですね。