「ナチスドイツのユダヤ人対策」奥之院通信 R3 5/13

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ドイツ国内に住むユダヤ人は、ドイツに対し常に敵対行動をとる。その頃ドイツはユダヤ人の敷いたワイマール共和国体制で、莫大な賠償金を支払わなければならない窮地に立たされていた。ワイマール体制を敷いたのもユダヤ人であり、それを支払うドイツ政権もユダヤ人が握っていたので、どうにもならない状況下に置かれていた。それにたいする国民の不満から、ヒットラー政権が生まれた。

 一方、19世紀の政治的シオニズムの創建者のテオドール・ヘルツルは、『ユダヤ国家』の中で、ユダヤ人の民族的な故郷としては、マダガスカル島が適当だと考えていた。そしてこの可能性についてナチスも真剣に前向きに検討した。

 ユダヤ人のパレスティナへの移住計画は、1933年ナチスが政権獲得する以前でも、「国家社会主義政党」の政策綱領の主要項目であり、これはパンフレットの形で党から出版されていた。しかし、一個のユダヤ国家としてのパレスティナにおけるイスラエルの復活は、先のマダガスカル移住案よりも更に受け入れ難かった。この地域でのイスラエル建国は、アラブ世界における永遠の戦争と混乱を招くからと言われており、この予想は当たっていた。

 ドイツ人はユダヤ人マダガスカル移住計画の最初の提案者ではなかった。ポーランド政府が既に自分たちの国の中のユダヤ人に関して、移住計画を策定し、ポーランド政府は、1937年にこれらの諸問題の調査のために、ユダヤ人の代表も加えた調査団をマダガスカルに派遣していた。

 ナチスは、マダガスカル解決案の提案を、1938年のシャハト計画に合わせて始めて出して来た。ヒットラーは、ゲーリングの助言を受けて、ライヒスバンク総裁のヒアイマール・シャハトをロンドンに派遣することに同意した。それは、シャハトが、ユダヤ人の代表ビアステッド卿とニューヨークのラブリー氏との三者で問題を協議するためだった(ライトリンガー著『最終解決』)。

 計画の内容は、ユダヤ人のパレスティナ移住を財政支援するための国際的借款を保障するため、ドイツのユダヤ人資産を凍結するというものだった。そしてシャハトは、1939年1月、ヒットラーにこの交渉に関する報告を行った。計画は財政案をイギリスが拒否したため不調に終わっていたが、1938年11月、ゲーリングが呼び掛けた会議で、初めてこの計画が実行に移された。

 その翌月12月に外相リッベントロップは、フランス外務省のジョルジュ・ボネ氏から、フランス政府も、また1万人のユダヤ人をマダガスカルへ疎開させることを計画中であると知らされた。

 1938年のシャハトのパレスティナ提案は、実質的には1935年に既に始まっていたパレスティナ移住計画の、実行引き延ばし作戦だったが、この引き延ばし作戦の前から、ユダヤ人のヨーロッパから他国への移住を可能にする試みがなされていた。この努力の結果は、1938年7月のエヴィアン会議に於いて進展した。

 1939年まではマダガスカルへのユダヤ人移住計画が、ドイツ人社会では最も支持者が多かった。ロンドンではユダヤ人をローデシアとイギリス領ギアナへ移住させることを、開戦直前の1939年4月まで議論し続けていた。つまりこの4月頃には既にマダガスカル計画の代替案が出ていたのである。だが一方、1月24日にゲーリングが内務大臣フリックに手紙を書き、ユダヤ人に対する中央移民局の創設を命じたのち、最高国家安全局のハイドリッヒにユダヤ人問題を、移住と疎開とによって解決すことを委託したが、その時まではマダガスカル移住計画が、真剣に検討されていたのであった。要するに、ユダヤ人をどこか他の地域に移住させるという政策は、ドイツだけではなく、ヨーロッパの主要国の一致した政策だったのである。

 一方パレスティナへの移住も進み、1939年までドイツ政府は、ユダヤ人の出発を安全にする努力を持続的に行っていた。この努力は、ドイツにいる60万の全ユダヤ人口のうち3分の2の40万のドイツ系ユダヤ人移住の実現として実を結んだ。

 そしてオーストリアとチェコスロヴァキアからは48万のユダヤ人が移住したが、これはこの地方の全ユダヤ人口であった。この移住作業は、ゲシュタポ(秘密国家警察)のユダヤ調査局の局長アドルフ・アイヒマンが、ユダヤ移民局を設置して実施した。この移民局はベルリン、ウィーン、プラハなどの都市にも支局が置かれていた。

 この移住を安全なものにすることに、ドイツ人は非常に熱心で、アイヒマンはそのためにオーストリアに職業訓練センターを設置し、そこで若いユダヤ人が不法にパレスティナへ密入国した後のことを予期して、前もって農業実習を受けることが出来るようにしたのだった。

 もしヒットラーがユダヤ人絶滅の意図を持っていたのであれば、彼は80万人以上のユダヤ人が大きな財産を持って、ドイツを離れるのを許したとはとても思えないし、ましてやパレスティナやマダガスカルへのユダヤ人の大量移住の計画を構想したとも思えない。

 更に重要なる事実がある。それはヨーロッパからのユダヤ人移住計画は、戦争が始まって戦局が相当進行した時期にあっても、なお、まだ色々と検討されており、計画案の中では特にマダガスカル移住計画は、代表的なものであって、これについては、1940年のフランスの敗北で、フランスの植民地だったマダガスカルのドイツへの移譲が現実問題になってからは、アイヒマンがフランスの植民地専門家とその実現に向けて討議しているのである。