「アイルランド航空機ハイジャック事件」 奥の院通信 R3 7/14

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「ファチマの第三の秘密」をお読みになったローマ法王パウロ六世(在位1963年ー1978年)は、その内容に衝撃を受け、「これは公表すべきではない。私が墓の中まで持って行かねばならぬ」といって、再びこれを封印された。しかし、この法王の度を超した驚愕ゆえに、「ファチマの第三の秘密」は、その存在が却って広く世界に知られるようになった。

 その後、1981年5月、アイルランド航空機ハイジャック事件が起き、ファチマの秘密にまつわる謎を更に深めた。この乗っ取り事件の犯人が、乗員5名・乗客110人の生命を代償として、「バチカンは『ファチマの第三の秘密』を世界に公表せよ」と迫ったのである。
 事件は、給油のために寄ったフランスの空港で、強引に機内に突入したフランス特殊部隊によって犯人が逮捕され解決した。その犯人は、ローマ教会トラピスト派の元修道士だったのである。そして、犯行の動機がバチカンに「ファチマの第三の秘密」を世界に公表させることにあった。

 この聖職者は旅客機の乗員・乗客(もちろん我が身も含め)を犠牲にしてでも、人類を救わなければと思い詰めた結果であろう。身代金要求やテロリスト解放などという事件ではなかった。だからこそ、当然のことながら、この事件の真相は闇に葬られた。しかし、カトリック教会総本山のバチカンには真実がきちんと残されているはずである。

 「ファチマの第三の秘密」はローマ法王を失神させる程の内容で、カトリック修道士にハイジャック事件を起こさせ、内容を公表させようとしたのであった。そこまでして、その秘密を知りたがるような預言は、後にも先にもこの「ファチマ第三の秘密」だけである。

 しかし、実は「ファチマの第三の秘密」は、ある時バチカンから外の世界へ出たのである。それも秘密が盗まれたり、管理のミスで漏れ出したというのではない。一旦は全文の公表を固く禁じたパウロ六世が、後になって誰にも知らせずにおくには、余りにも秘密の内容が重大すぎる、と判断され、公表できる部分をダイジェストして、世界中のカトリック指導者に密かに配布されたのであった。

 これが1980年代になって、世界の緊張した状況の中で、警告の意味を込めて一般にも知らされるようになった。配布されたものは、おそらくファチマの秘密のごく一部に過ぎなかったのであろうが、明らかに世界の核戦争についての預言であった。その前の「ファチマの第二の秘密」には、明らかに原子爆弾の登場が預言されていた。

 とはいえ、ファチマの秘密には、まだ多くの謎が付き纏っている。世界を業火の渦に巻き込む全面核戦争の様相が、いかにありありと描かれていたとしても、それだけでローマ法王たるものが失神するだろうか。いずれにせよ、地球と人類の存亡に関わる告知が、そこに込められていたことは間違いない。その全文を読むことを許されているのは、今でも法王だけである。

 パウロ六世のあとを継いだヨハネ・パウロ一世は在位わずか一ヶ月あまりで死去している。従って、先のハイジャック事件は、その次のヨハネ・パウロ二世(1978年~2005年)の時に起きた。ヨハネ・パウロ二世は、就任直後に亡くなったヨハネ・パウロ一世の意思を継承するという意味でヨハネ・パウロ二世と名のられた。もちろん、就任後わずか一ヶ月で急逝したヨハネ・パウロ一世には謀殺説も根強い。

 パウロ六世の後に、「ファチマの第三の秘密」を読んだヨハネ・パウロ二世は、激しい姿勢で世界平和のために身を投げ打ったと言われている。あらゆる手段で人類の心を改めさせようという気迫は、ファチマの秘密開示と無関係ではないはずである。彼は迫り来る世界の終末を防ぐため、生国ポーランドを始め、129カ国を訪問し「空飛ぶ聖座」と呼ばれている。

 己の利益、立場が危機に晒されると、場合によっては世界核戦争をも辞さない姿勢の奥の院と壮絶な闘いを繰り広げている。その姿がそこにあるように思えてならない。奥の院は人類を滅ぼしてでも、自分たちのエゴを通すという姿勢を隠すため、そのことに人類が気付かないように、メディアを厳重に管理している。そんなところで、ローマ法王に「変な発言」をされては困るのである。

 奥の院は、とにかくゴイム(ユダヤ人以外の人類)の数を減らす政策をとっている。現在の78億人を10億人、出来れば5億人に減らしたい。そのためには核戦争も辞さない、そのためのどんな流行病でも造る。彼らはそのために、核兵器ばかりでなく、生物兵器、化学兵器と、何でもありなのである。従って、世界は太古の昔、核戦争で一度滅んだなどという話はタブーなのである。あくまでも、進化論を聖典にし、「昔は人間は猿だった」ということにしなければならない。文明などあろう筈がない、あってはならないのである。