2407「青空ひろば」2021.7.28 自分で自分を自分するから

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今回は立花大敬さんの「青空ひろば」のワンデイ・メッセージを紹介します。

最初の384は前回に紹介していますが再掲します。

384 2021.07.15

苦しい状態を解消する一番副作用が起きにくい方法は、<時に身を任せる>方法です。

<時に身を任せる>とは、<解きに身を任せる>ことです。

現われた世界は、本当はもう過去で、ナイのですが、私たちが苦しい、つらいと<認めて>、つまり<見停めて>、そんな苦しい状態を持続させてしまっているのです。

だから、もうナイんだと信じて、心配せず、あせらず、自然な<解き(時)の流れ>に身を任せていれば、いつの間にか事態が好転していて気が付いて驚くことになります。

一気に好転というわけにはいきませんが、少々時間がかかっても、これが一番副作用がすくない「運命転換法」です。

395 2021.07.27

ある若者の質問

「ある人から、人生は生まれた時から運命が決まっている、と聞きました。それは本当ですか」

大敬の答え

「ええ、そうなんですよ。人は生まれた時から、いや生まれる前から、運命は決まっているのです。

どんな風に決まっているのかというと、神様が私たち一人一人に<愛のゴムひも>をくくりつけて下さっていて、<光の国>へと、<しあわせの国>へと、そのゴムひもの弾力で引っ張って下さっているのですよ。

ですから、どうあがいたって、どんなに違う方向に走ろうとしても、結局は<神様の愛のゴムひもの力>で、光の国、愛の、融和の国に到着して、<光の存在>となってしまわざるを得ないんですよ。残念ですけれど、そんな運命から、あなたも私も逃れることは出来ません」

394 2021.07.26

お釈迦様が説法の座にすわっておられました。たくさんの弟子が集まっていて、お釈迦様が語り出されるのを、今か、今かと待っていました。

その時、お釈迦様は、その説法の座をかざっていた花をご覧になって、さも、いとおしげに、その花に手をお触れになりました。

それを見ていた弟子たちのうち、ただ一人、迦葉(かしょう)だけが、それを見て、ニッコリ、ほほえみました。

それをご覧になった、お釈迦様は、

「私が得た真理全部を、この迦葉も得ることができた。迦葉こそ、私の後継者としてふさわしい」と二代目に定められたのです。

つまり、禅の悟りというものは、この「ほほえみ」につきるのです。

私たちの坐りの正邪の判断の基準も、この「ほほえみ」です。

ほほえもうというのではなくて、「ほほえみ」がいのちの内側から、おのずと湧き出してこないような坐りは本物ではありません。

393 2021.07.25

私も、あなたも、本当に非力な、無力な、「いのちの赤ちゃん」です。

ところが、不思議な事には、非力で、無力で、とても生きてゆけそうもない、そんな私たちを、どうしてだか私にはとても分かりませんが、「いのちのお母さん」が、生かそう、生かそうとしておられるのです。

「いのちのお乳」で大きくなれ、元気に育ってねと、祈りをこめてくださっているのです。

私はただ、ただ、そんな「いのちのお母さん」の愛情を信頼して、『お母さん、ありがとう』と坐るだけです。

3922021.07.24

まず、坐る時は、アタマをやめることです。

道元禅師が、坐禅の仕方を説明された『普勧(ふかん)坐禅儀(ざぜんぎ)』のなかで、『不思善(ふしぜん)、不思悪(ふしあく)、念・想・観(ねん・そう・かん)の測量(しきりょう)をやめて、作仏(さぶつ)を図(はか)ることなかれ』とおっしゃっておられます。

善悪を思わない。『ああ、いい坐りだ』、『これはマズい坐りだ』などと思うのは、それはアタマですから、それをやめるのです。

瞑想法では、何かを念じたり・何かを想ったり・イメージを観じたりします。それはアタマがやる事ですから、それもやめます。

仏になろう(作仏)とすらしないのです。

坐禅は、アタマをやめて、ただ坐るのです。

3912021.07.23

心臓がドクドク打っています。

それはあなたが計算して、努力工夫して動かしているのですか?

食物が消化されてゆきます。

それはあなたがやっているのですか?

そうではないですね。

それらはすべて「いのち」がやっている営みです。

あなたは自分の力で生きているのではなく、そんな大きな「いのちのお母さん」に生かされているのです。

390 2021.07.22

赤ん坊がお母さんの胸に抱かれて、すっかり安心してスヤスヤ眠っています。

<坐る>要領は、自分が赤ん坊なんだとイメージして下されば、それにつきると思います。

「坐禅しましょう」といいますと、まず聞かれるのは呼吸法です。

赤ん坊が呼吸法の訓練をしますか?

赤ちゃんが眠る姿勢を工夫しますか?

赤ちゃんはいのちのままにスヤスヤ息して、その時、その時、一番楽な姿勢で眠っていますね。すっかり安心して、いのちのお母さんを信頼して坐ればいいのです。

389 2021.07.21

本当は、坐禅という言葉は使いたくないのです。

なぜかといいますと、「さて、坐禅しましょう」といいますと、きっとガンバッテしまう人が出てくるからです。そんなガンバリを一切放棄するのが坐禅なんですが…。

ですから、<坐り>という言葉を使ったほうがいいのかも知れませんね。

<いのちの坐り>です。

それぞれの人のいのちが、それぞれ本来のいのちに坐りごこちよく落ち着いている姿が<坐り>です

388 2021.07.19

すべてのヒーリングは本来<セルフ・ヒーリング>なのです。

目の前に病気の人がいるのではないのです。

世界は、あなたの心が創り出しているのですから、その病気の人にあなたが出会うのは、あなたの心が病んでいるからなのです。

ですから、あなたの心の中の、その人を病人と認める気持を融かしてゆき、彼の本来の「光明的いのち」を認めてゆくことによって、彼の病いを治すこともできますし、逆に、彼に愛の声かけをし、はたらきかけてゆくことによって、あなたの心のヒーリングもできるのです。

387 2021.07.18

親も子も癒(いや)しぞ 老いも若きも癒(いや)し 必要ぞ

世界病(や)むぞ 諸人(もろひと)闇(病み)の中ぞ

心傷つき 心腫(は)れ 心爛(ただ)れ 心 血流し 心枯るるぞ

癒し必要 心癒(いや)されて、人弥(いや)さるるぞ

癒(いや)し、弥(いや)しのはじめぞ

教育も癒し 会社経営も癒し 商品販売も癒し

生徒癒(いや)され 生徒弥(いや)すぞ 生徒弥(いや)されて 成績上がるぞ

社員癒(いや)され 社員弥(いや)すぞ 社員弥(いや)されて

会社 弥栄(いやさか)ぞ

顧客癒(いや)され 顧客弥(いや)すぞ 顧客弥(いや)されて 商売繁盛ぞ

心の癒し必要 心 癒さるれば 心 うるおう 心 うるおえば

いのちが伸びる 夢が育つぞ

386 2021.07.17

<クレーム法>という「想いの実現法」があるので紹介します。

これは、神様にクレームをつけるという方法です。

「神様、だめじゃないですか。もっとしっかりはたらいてくれなくちゃ。私はこんなにがんばっているのに。こんなに、人のために、世のしあわせのための活動に労力とお金を持ち出しているじゃないですか。

それなのに、どうして私の会社を赤字にするんです。

神様の望みはなんですか。すばらしい世界を創りたいんでしょう。

それならもっと私に協力してくれなくちゃ。もっと本腰になって、身を入れて力を添えてくださらなくちゃ…」

まあ、こんな風に神様にクレームをつけるわけです。

大阪で会社を経営しておられるAさんが<クレーム法>を実践された例があるので紹介します。

会社が赤字になったのだそうです。

赤字になったらボーナスは半額にすると社員に宣言しておられたんですが、本当に赤字になって、どうしようかと悩まれた末、思いきってボーナスを全額出すことにしたのです。

さて、そうなると強いですね。自分にはもう何ら、うしろめたいところもないのですから、堂々と神様にクレームをつけられます。

「神様、もっとがんばって下さい。私は多額のお金を平和運動に出しているのだし、こんな風に持ち出してまで社員のボーナスを出しているのです。こんな私の会社をつぶしてしまったら、困るのはあなた、神様でしょう。さあ、もっとどんどん働いてください」

そうしますと、途端に商品の注文が殺到して、ついに工場の生産が追いつかないというほどの状態になって困るほどなんだ、という話でした。

<クレーム法>のポイントは、このAさんの実例でよく分かりますね。

まず、「神様にクレームをつけるにふさわしい自分になる」ことです。

ここは「思い切り」が必要です。

Aさんの例では、Aさんは多額のお金を平和運動に投入しておられますし、さらに身銭を切ってボーナスを全額出されました。

そんな「エゴが断ち切れた状態」をつくりますと、自分に何らやましい、うしろめたい気分がないので、思い切って神様にクレームをつけられるのです。

「エゴがなくなれば、神様と同格」なのですから、同僚に語るように平気で注文をつけられるのです。

385 2021.07.16

『阿弥陀経(あみだきょう)』というお経があって、そこには、極楽浄土(ごくらく じょうど)という理想世界の様子が描かれていますが、その経文に<白色白光(びゃくしき びゃっこう)・赤色赤光(しゃくしき しゃっこう)>という言葉があります。

白い花が白い光をはなって咲いています。

赤い花が赤い光をはなって咲いています。

なんの変哲もない、当たり前の姿ですが、そのように、それぞれの生命が背伸びせず、卑下せず、小は小のまま、欠点があれば欠点のまま、そこに落ち着いて<いのち>しているのが極楽浄土だというわけです。