「およそ100年前の今日」 奥之院通信 R3 9/1

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正確には、98年前大正12年(1912年)の今日9月1日正午、関東で大地震が起きた。各所で出火し大火事となり、東京が丸焼けになった。3時頃にようやく火は消えたが多くの犠牲者を出した。

 ところが、4時頃に又横浜の方から出火し、世田谷など東京の西の方からも出火し、再度の大火事が起きた。これは鮮人(朝鮮出身の日本人)が横浜から東京へと火をつけてきたのであった。翌日と翌々日の2日間、新聞には大きく報道された。先導隊が燃やすべき建物にチョークで印(しるし)をつけて行き、後からやって来た本隊がガソリンで火を付けて東へと進んで行ったのであった。その進行の過程で、邪魔者となる者を殺害した。朝鮮人大暴動が起きたのであった。

 現場にたまたまいた小さな子供たちが、「あいつらが火を付けて行ったんだよ」という。子供は正直である。鮮人による日本人大虐殺が起きた。そこで各地には自警団が出来て、彼らが鮮人に対抗した。当然、各所で暴力沙汰も起きた。現在であれば、反日日本人もこの鮮人に加わって火を付けていくかも知れない。しかし、当時はまだ日本人はそこまで狂ってはいなかった。

 ところが、3日後の9月4日からは、この鮮人の火付けの報道はぱたりとなくなった。当局(内務省)がこの報道を厳重に禁じたのである。理由は日韓併合で日本人になった鮮人を、日本人が憎むようなことになったらよくない、と言うことであった。

 地震の2年前の明治43年(1910年)日韓併合がなり、朝鮮人は日本人となっていた。そして、更に2年後のこの年7月には明治天皇が崩御され、大正天皇が即位され、裕仁親王(後の昭和天皇)が皇太子となられた。ここで鮮人が変事を起こしたとなると日本人は彼らを憎むようになり、鮮人もこれに反発し、治安が乱れるということで、彼らの火付け人殺し犯罪を当局は隠蔽したのであった。

 実際、この頃、「朴烈事件」も起きていた。朝鮮人無政府主義者朴烈とその愛人金子文子とが上海から入手した爆弾で天皇暗殺を計画し、これが発覚して10月20日に起訴された。 
 更にこの年の暮れ(12月27日)には、虎ノ門事件が発生している。無政府主義者を名のる難波大助(24歳)が、皇太子裕仁親王をステッキ銃で狙撃したのである。幸い弾は逸れ、大事には至らなかったが危険であった。

 当時は大正天皇の御不例(ご病気)が悪化し、この2年前の大正10年には、皇太子裕仁親王が摂政宮になられ、大正天皇の政務を代行しておられた。したがって、政府としては、とにかく治安悪化を招くようなことは極力避けようとしていたのであった。政府としては、日韓併合がなって、新たに日本人となった鮮人を、なるべく早く日本人に馴染ませるべく、努力していたのであった。事実を隠蔽し、厳しい報道管制も敷いたのである。

 しかし、大震災の鮮人犯罪を隠蔽したことは完全に裏目に出て、後にこの時の日本人自警団の行動が大げさに捏造され、関東大震災の時の鮮人大虐殺とされ、歴史に残された。実際は、鮮人による放火と日本人大虐殺であったにも拘わらず、日本人の朝鮮人大虐殺とされてしまった。

 今では、関東大震災の時の朝鮮人大虐殺として教えられることになった。真実はこの真逆であって、この事実に関しては、例えば、加藤康男氏の「関東大震災『朝鮮人大虐殺』はなかった」に詳しい。日本人の「お人好し」が、全く裏目に出てしまった典型例の一つである。

 そして更に、朝鮮人の一部(決して全員ではない)は日本・日本人に対し極めて強い悪感情・敵意を抱いている。このことを最大限利用しているのが奥の院。ディープステートである。例えば、彼らは李承晩なる男を利用し、彼を焚き付け大統領にし、日本に対し不法を働かさせ、日本と半島との中裂きを行った。その結末の一つは「竹島問題」である。永遠に日本と半島との仲を裂いている。

 奥の院・ディープステートは同じことを支那(今は中共)、ロシア(前ソ連)にもしており、支那との間には「尖閣問題」「歴史問題」、ロシアとの間には「北方領土問題」を拵えておいた。この問題でいつでも日本との間に横たわる深刻な問題として存在させ、両国を決して仲良くさせないようにしているのである。